| 2007年8月2日 (木) |
いじめ問題について |
いじめの問題をテレビでやっていた。
いじめをなくすにはどうしたらよいか。 「いじめた生徒を出席停止にする」「教師が責任とって辞める」「体罰を復活せよ」等々。 いい大人がこんなことを言っている。 馬鹿(あほ)かと思う。
実際のところ、いじめを根絶するのはおそらく無理だ。いじめが全くない学校などありえない。クラス単位で見てもいじめが皆無なんてほとんどないというのが現状であり、ここで検討されるべきは、いじめられた子供が自殺までしてしまうという悲惨な状況に対して如何にブレーキをかけるか、といった程度が精一杯だと思う。
問題の本質を見るためには、なぜココまでいじめがエスカレートして、いじめる側がこれほどまでに陰湿かつ巧妙になったのか、という真因を解きほぐすことが肝要だろう。
忘れてはならないのは、子供たちの世界もまたひとつの社会であり、子供たちの社会には、ほかでもない彼らの親たち=すなわち我々大人たちの社会の美点や矛盾点がことごとく照射され反映されているということだ。
子供たちのいじめの残酷さを仔細に見ていくと、激しい排除の原理が働いていることがわかるだろう。あいつは気にくわない、気にくわないヤツは消えればいい。
「うざい」とか「キモイ」という言葉の真意は排除排斥であり、その究極は、気にくわないヤツは消え去ればいい=死んでしまうか、この地域から出て行っていなくなればいいということに他ならない。
親たちの世界を見れば、その下地となる原理が容易に見て取れる。今の大人たちの世界の「格差」というのがその好い例だ。そこでは自分より過酷な条件で働いている者を見て気の毒に思うどころか、彼らをせせら笑い見下すことで自己の安定を確認しようとする人が数多く存在する。
勝ち組になるために、そしてその地位を強固にするために、日々負け組とされる弱者を踏みつけにし、低賃金、悪条件で働かせることによって、心の平安を保とうとする。 家庭では我が子を負け組にしないために、お受験に血眼になり、職場では絶えず自分の地位を脅かさないかと負け組の台頭を警戒し続けている。そしてその不安がさらにまた陰湿な攻撃精神の台頭となって再び弱者へ向けられる。。。
結局、ある一定の人間を排除・排斥することにより、自らの安定を図る、というバブル後の負の遺産が、大人たちの世界において未だに亡霊のように生き続けているわけだ。
こんな親を見て育った子供が、相手が死ぬまで(あるいはその学校から出て行くまで)執拗にいじめを繰り返し、巧妙にいじめを担任教師から隠蔽するようになるのは当然といえば当然の話だ。 学校裏サイトなどは、それこそ現代社会の負の部分と子供社会の負の部分が、かけあわされ生み出された暗黒の象徴だろう。
子供という生き物は素直だから、自分たちの親=大人たちの行動原理を無意識に感受し実行するのである。
子供社会は親たち=大人たちの社会を誠実に映し出す鏡である、という当たり前のことを認識せずに、子供のいじめを「いけないことだからよしましょうね」というのは脳天気というか、お気楽すぎる話だ。
まずは、大人たちの生きるこの社会を健全にする=排除排斥ではなく、共存共栄すなわち包摂型の社会へ向かうことから始めないと、子供たちのいじめ問題は永久に解決しないと認識すべきだ。
そして、このままでは、国内で二層分化が進んでしまい、そういったことが長引けば、最後には二極化が進んで、貧富の差が怨恨を呼ぶ悪循環=アメリカのような治安の悪い犯罪多発国家になってしまうのではないか、と私はひそかに危惧している。 |
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| 2007年7月26日 (木) |
『雪国』11 |
最後に、三島事件(昭和四十五年、一九七〇年)との関わりについて少し述べておくことにする。
川端康成の自殺の原因として定説となっている三島由紀夫の自殺は、彼に衝撃といった生半可な言葉では言い表せないようなショックを与えたと思う。なにしろ、川端は三島の自殺直後の凄惨な現場を見てしまっているのだ。
単なる門下生の自殺といったこととは別の種類のショックであったはずだ。首が飛び、腑の出た無惨な死体を見て、精神的におかしくなってしまったことは確かであり、両者の自殺がまったく無関係とは言わない。
しかし、三島が川端を自殺に導いたというのは違うし、むしろ私は三島の自殺直後を目撃したショックで、一時期、自らの自殺を思いとどまったのではないかとさえ考えている。
二人の自殺は、その最期があまりにも異質だ。
三島は大声で国民と自衛隊員に向かって自らを主張し、刀を振り回して、最後は切腹という武士の死を実践して見せた。そして、みっともないことにならないようにと、介錯まで用意していたのだ。
これに対し、川端は何も語らず、誰にも知らせずに、ひっそりと一人でその生涯を閉じてみせた。
十五歳で肉親の一切を亡くして孤児となってしまった、そんな男にふさわしい死に方であったのかもしれない。
日本の未来に対し警鐘のひとつでも鳴らして、とも思うが、そんなことをしても美しい国を破壊し続けるこの勢いを止めることはできない、現に三島が死んでも何も変わらないではないか…そう観念したかのように、自らの命を絶ってしまった…
昭和三十年代に生まれ、現代という時代に生きている私には、川端康成という文豪の自死がそんなふうに見えてしまう。
「死んだ人のせいで思い煩(わずら)うのは、死んだ人をののしるのと似て、あさはかなまちがいが多いのであろうか。死んだ人は生きているものに道徳を強いはしない。」(『千羽鶴』) |
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| 2007年7月24日 (火) |
『雪国』10 |
川端康成が『美しい日本の私』を記した一九六八年というのは、日本の伝統的な美がその輝きを照らし出した最後の年だったのかも知れぬ。
東京オリンピックが開催された一九六四年以降、日本は自らの伝統美と引き替えに、経済大国という地位を得たのだと思う。あまつさえそれは西洋化でさえなかった。おそらく川端はこの性急でモラルのない金銭的な発展に対して言いようのない不満と幻滅を抱いていたのではないか。
一九七二年、川端は自らの命を絶つ。おそらく川端はそのとき、自国を「美しい日本」とは到底認識できなかったと思う。『美しい日本の私』を書いたときから数年間の変化はあまりに急激であり、しかも品格を失っていた。
今、時の首相が、その少年期の記憶をもとに「美しい国ニッポン」と甲高い声で国民に訴えかけても、それに対し、どことなく嘘くさく、しらけたような感情を抱いてしまうのは、これまで美しい国を破壊し続けてきたことへの反省はおろか、毀してしまったという認識すらも欠如していることを、本能的に感じ取ってしまうからだろう。そして、もし本気で「美しい国づくり」を訴えるのであれば、横文字の羅列は止めて、やまとことばを使うべきではないか。
もちろん、このように書いている私も、その自然破壊と引き替えに得た経済的な余剰の恩恵に浴しているのであり、批判するに当たらないといわれればそれまでだ。
だが、政治家だけでなく、我々庶民も含め日本人は、そろそろ美しい景観や自然を犠牲にしてまで経済的・物質的な豊かさを求めてきたことを深く恥じ反省し、これからどのようにこの国を未来の子供たちに継承すべきか真剣に考えてみるべきときではないだろうか、と感じる。
科学がここまで発展してしまったということは、もう昔の美しい日本の原風景を二度と取り戻せないということを意味するのかというと、それは必ずしも正しくない。
ここ十年ほどの科学の発展を見てみると、今までの自然破壊型から自然共生型へと変貌してきているし、人々の意識も環境に配慮したものや自然のよさを生かしたものになら多少高くてもそちらのほうにお金を払うようになってきているからだ。
しかし、山を歩きながら日々思うのは、無用な林道の拡張がいまだに加速されていたり、トンネル工事でためらいもなく山肌が崩されている。そしてそのようなやり方が原因と思われる生態系の変化がかなり散見される。
要するに科学それ自身がどれほど自然共生型となっても、その科学を実践する現場は、いまのところまだ三十年前と同じく破壊的なのだ。 このままでは美しい日本を復活させることは絶望的だろう、と思ってしまう。 |
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| 2007年7月22日 (日) |
『雪国』9 |
『美しい日本の私』は、先に述べたように、日本の美を歌い上げた名文ということで有名だ。
そのこと自体に異を唱えることはしないが、やはり何度も読み返してみると、この作品にはどことなく、うら悲しく寂しそうなトーンを感じてしまう。少なくとも日本の美を高らかにうたいあげ、そして讃えた、といったイメージとは違う。
川端はもちろん、日本の美意識を欧米に伝えたかったのだろうし、日本独自の美というものを愛していたからこそ、このテーマに決めたのだろう。またこの時点で、それができるのは自分しかいない、という自負もあっただろう。
最初、私は、この短調のリズムとも言える文章全体をおおう陰翳は、当時の日本や東洋に対する西洋のステレオタイプを考慮して、積極的な賛美を避け、あえて訥々として述べているためだと思っていた。
当時は日本に関する知識が現代に比較してかなり誤解や偏見を含んでいただろうし、中国や韓国との混同も甚だしかった。川端自身もそのことを解っていたと思うので、高らかにうたいあげるようなことを避けていたのだと、そう思っていたのだ。
しかし、当時の時代背景を考察し、曖昧ながらも私自身の記憶を呼び覚まして、読み直してみると、この『美しい日本の私』から感じられるのは、失われゆく日本の美を、つらくはかなんでいる、そんなもの悲しい川端康成の横顔だ。
彼は日本の美を語りながら、そこに今まさに消えなんとしている日本の美しさを深く悲しんでいるかのようだ。
『美しい日本の私』の中で彼はこう書いている。
「ちなみに、私の小説『千羽鶴』は、日本の茶の心と形の美しさを書いたと読まれるのは誤りで、今の世間に俗悪となった茶、それに疑ひと警めを向けた、むしろ否定の作品なのです。」 |
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| 2007年7月18日 (水) |
『雪国』8 |
『美しい日本の私』。ストックホルムでこの講演が行われた一九六八年(昭和四十三年)は、どういう年であったか。
自分はまだ小学校に上がるかどうか、という幼少期だったので、記憶は曖昧だが、日本はまさに高度経済成長のまっただなか。調べてみると、あの「大きいことはいいことだ」の森永製菓のコマーシャルが大ブレイクしたまさにその年であったらしい。
ちなみに時効となった三億円事件は、川端康成がストックホルムで講演をしたのと同じ日、一九六八年十二月十日に起こった。
当時、まだ円はドルに対し固定相場の三六〇円であり現在のような変動相場制ではなかった。ニクソンショックやオイルショックが起こるとも知らずに、高度経済成長を背景としたいざなぎ景気の真っ直中、それいけどんどんの打ち上げ花火があがっていて、最近の経済事象で言えば、バブル末期の八〇年代末のような雰囲気だったのだろう。
多摩丘陵が破壊され、そこにニュータウンが建設され始めたのもこの頃のはずで、私が少年時代を過ごした北多摩の家の周りも、この頃から急激に変貌する。
昭和四〇年代以降に生まれた人には信じがたいことかも知れないが、東京といっても多摩地区であれば、バスが通るような大きな通りを除いては、この頃までは、道は未舗装なのが普通で、私が育った家の前の道はアスファルトではなく土の道であった。それが六〇年代末期あたりから徐々に家の前の道路が舗装され、家のすぐ裏から綿々と続く雑木林が少しずつ伐採され始めたのだ。
伐採の意味がわかったのはずっと後になってからだった。まさか自分がカブトムシやクワガタを捕っていた雑木林が丸坊主にされ、住宅地に変貌して二度と虫捕りができなくなるなんて思ってもみなかった。伐採は伸びすぎた髪の毛を散髪するのと同じで、そのうちまたもとのような林に戻るものとばかり思っていたのだ。 |
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