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クリスチャンになるまでの道のり

2004年9月1日 ノン・クリスチャンだった日々
※ プライバシーの為、登場人物は仮名にしています。そして、日本語が不完全であることをお許しください。

クリスチャンが多い環境で育った私だけど、まさか自分がクリスチャンになるとは夢にも思わなかった。家族や親戚は皆ノンクリスチャンだったので、キリスト教を含めた宗教は自分の人生とは無縁だと思っていた。

毎週教会にかかさずいく人をみて、私は日曜日を犠牲にしてまで行く意味がわからなかった。第一、神様やイエス・キリストの名前を聞いても身近に感じたことはなかった。

そんな私が皮肉にも6年間、中学・高校と在籍したのがクリスチャンの私立女子高だった。キリスト教の授業や礼拝も参加したが、興味がなかったので、退屈のあまりに寝てしまったり、友達と手紙のやりとりをしたり、今思い出すと恥ずかしいぐらい話を聞いていなかった。しかし、毎回決まった祈りをしていたので、頭にインプットされていた。クリスチャンに間違われたこともあるほど、間違えずに全て暗記していた。

クリスチャンの友達にたびたび教会に誘われることもあって、断る理由がなかった場合は行ってみた。若者の集まり(バーベキューなどのイベント)はクリスチャンの人たちが皆明るくて友好的なこともあり、それなりに楽しかったが、聖書の時間や礼拝は居心地が悪かった。そのうち、交流だけのために行くことに後ろめたさを感じるようになり、誘われても行かなくなった。

キリスト教は今後の人生で困ってから考えればいい。今は何も問題がないので必要ないと思っていた…。

そんな私が21歳になって、やっと目が覚めて、クリスチャンになった!
本当に「ようやく」人間にとって最も大切なことを気づけたことが心から嬉しい。神様の愛に気づいた瞬間から私の意味不明だった心の空洞が埋まり、幸せで満たされている。言葉で表現するには限界があるが、なるべく自分がクリスチャンになるまで感じたこと、思ったことを伝えたいと思った。キリスト教は皆にとって無縁なものではないことが少しでも感じて頂ければ嬉しい。



2004年9月2日 クリスチャンになったきっかけ
キリスト教は神様と自分との関係が第一とされているが、私の場合、キリスト教に興味をもたせてくれたきっかけは「人」だった。

もちろん、信仰の深さはクリスチャンによって異なるので「この人本当にクリスチャン?」と疑ってしまうような人もいたが、少なくとも私が出会ったクリスチャンの人たちは憧れてしまうほどすてきな人たちばかりだった。

英語が苦手な人達にボランティアで英語を教えている60代のおばあちゃん、教会でピアノを楽しそうに演奏する90歳のおばあちゃん、そして、常に明るくて、楽しそうな同年代のクリスチャンの友人達。 教会で、母が英語を教わりにいっていたので毎回、クリスチャンの人達から学んだクリスチャン精神を毎回話してくれた。実際彼女らに会って、その温かさに触れ、彼女達みたいに強く優しい人になりたいと思うようになった。私が受験などで大変な時期も彼女達は私のために祈ってくれていた。それが、とても嬉しかった。

なぜ、クリスチャンは素晴らしい人格の持ち主が多いのかずっと知りたかった。そして、何よりも「死」をノン・クリスチャンの人と違う受け止め方をしていることに驚いた。神様を信じているということは、「死」=神様のもとに行った=救われた という考えなので、気持ちが穏やかでいられるのかもしれない。そう思った瞬間、自分も「死」を恐れずに生きていけたら…。と思うようになった。悲劇が起きた時、自分の中に「芯」が出来ていたら、どんなに辛くともまた立ち上がれる。実際、無邪気に明るく振舞っているクリスチャンの中にも想像できないほどの不幸な過去をもっている人も多くいる。「芯」がない自分は同じ体験をしたら立ち上がれないだろう。そう思うと、クリスチャン精神についてもっと知りたくなった。

そんなことを漠然と考えていた時、私は一人の天使と出会った。去年、オーストラリアン・アイドルというオーディション番組で優勝した、ガイ・セバスチャン。彼のことを最初に歌っている姿をみてからずっと応援していた。歌が上手いだけではなく、インタビューでの彼の答え、態度、表情に強く惹かれたからだった。とても素直で、性格が良くて、穏やかなガイが敬虔なクリスチャンだと知った時、「やっぱり!」と強く納得してしまった。それだけ、彼は「違っていた」。他の競争者が自分を見失いかけている中、ガイは常に周りに感謝し、謙虚だった。家族想いのガイをみているだけで癒された。

ガイがアイドル優勝後、現在私が通っているチャーチで、秘密のチャリティーコンサートを開くことになった。ガイと同じ宗派の教会で、ガイとつながりのあるクリスチャンの人がアジアへ布教活動する資金を集めるためのコンサートで、知れ渡ると人数が増えてしまうので「秘密」にされていた。母がクリスチャンの友人を通じてたまたまその情報を得て、二人で行くことになった。そして、初めてうちのチャーチを訪れた時、私の中の今までのクリスチャンのイメージが崩れたのだった…。



2004年9月3日 クリスチャンのイメージが崩れた瞬間
初めて、母に連れられて私のチャーチを訪れた時、色々なショックをうけてしまった。まず、今まで見てきた「教会」と違って、私のチャーチは「クリスチャン・センター」という標識がある大きな建物で、十字架、マリア像やステンドグラスなどのシンボルは一切飾っていない。

そして、礼拝が行なわれる場所は大きなホールで、ここにも飾りは全くない。ステージの上にはギター、ドラム、キーボードがおいてあり、ちょっとしたコンサート会場みたいになっていた。「ここって本当にチャーチ!?」と疑ったくらいだった。

牧師は一般的に静かな感じで話すイメージがあったけれど、このチャーチの牧師はイタリア人なのでとってもエネルギッシュな熱い人でまたまた驚いた。そして、チャーチにいた人達が皆10代、20代の普通にクラブいって遊んでいそうな若者達だったので、今までの教会のイメージが覆された。(年輩が多いと思っていた) 

後で調べてみると、ガイの宗派(つまり今の私の宗派)はプロテスタント系のペンテコステ派(Pentecostal)で、オーストラリアのクリスチャンの10%がこの「近代的な」宗派に属しているらしい。他のプロテスタント系の宗派同様、聖書を重んじ、賛美の歌を歌うのだけど、静かな昔からの賛美歌ではなく今風のわかりやすいロック調の演奏で活気にあふれている。ロックコンサートに参加するような感覚で通える宗派なので、若者が圧倒的に多い。

とにかく、百聞は一見にしかずとはよく言ったもので、今まで母から「絶対、教会のイメージが崩れるよ!」とは聞いていたものの、ここまでイメージが崩されるとは思わなかった。そのことに気づくきっかけを作ってくれたのは、今思い返しても「ガイ」だった。ガイに会いたいという気持ちがなければ、あのチャーチに行くことはなかったと思う。

ガイのコンサートは素晴らしかった。そして、ガイが布教活動を支えるために「秘密のチャリティーコンサート」にしたことで、ますますガイの信仰深さに感動した。しかし、この時はガイ=クリスチャン精神=クリスチャンってやっぱりすてき! というだけで、まだ目は覚めていなかった。しかし、確実に種はまかれていた…。



2004年9月4日 最後のチャンス-アルファコースに参加する
ガイのコンサート後大学の勉強で忙しくなり、しばらく普通の日々が続いていた。何度かチャーチ関係の誘いがきていたが、勉強や遊びを優先していたので、毎回理由をつけて断っていた。

7月には日本で就職活動を行い、なんとか内定を頂き、シドニーに戻ってきた。大学の勉強も落ち着き、日本に帰国するまで残りわずか5ヶ月になった時、母からある「誘い」を受けた。

母が参加して卒業した「アルファ・コース」がまた始まるので、英語のアルファ・コースに参加してみないかという誘いだった。

アルファ(ALPHA)とは教会に行っていない人や新しくクリスチャンになった人たちのために作られた、宗派関係なく、実践的にキリスト教を紹介するコース。20年前に英国で始まり、現在、世界139ヶ国において、47ヶ国語に翻訳されているらしい。

母は私の前に日本人の為のアルファに通っていた。(毎週1回、12週間) 毎週新しい知識を取り入れて帰ってきた母は、毎回参加する度に家に帰ってきて考え込んでいた。当時の母はクリスチャンの精神は素晴らしいと思うし、クリスチャンになった方が周りの友人がクリスチャンなので「楽」なのでは、という気持ちがある一方、今ひとつ入りこめない自分と戦っているようだった。ノン・クリスチャンである夫、日本社会、教会に属するというプレッシャー、神を身近に感じられない自分との葛藤していた母は、私が参加してどういう風に感じるか知りたかったらしい。

私はガイのコンサートでチャーチに対してのイメージが大分変わっていたし、今までの「ひっかかり」を解消する為に最後のチャンスとして参加してみることにした。これで全く興味がもてなかったらもうキリスト教関係とは一切かかわらずに生きていこう。そう思っていた。もともと何でも挑戦してみたいと思う性格だったので、自分なりの結論を出したいと思った。
その時はアルファで自分の人生がここまで変わってしまうことは想像もしていなかった・・・。



2004年9月22日 アルファ初回
アルファ初回の日、私は翌日締め切りの大学の提出物に追われていた。通常、余裕をもって提出したい性格なので当日の予定は断るのだが、その日は何かが違った。特にこれといった理由もなく「行かなければ」と思ったのである。今思い返すと、それは「導き」だったのかもしれない。提出物が終わっていないにもかかわらず、私は前にガイのコンサートが行なわれた、チャーチに行った。

「ALPHA」(アルファ)のAは、Anyone interested (興味ある人はだれでも参加できる)、Lは、Learning & Laughter (学びと笑い)、Pは、Pasta (食事を共にする)、Hは、Helping one another (互いに助け合う)、Aは、Ask anything (どんなことでも質問できる)という意味らしい。アルファ・コースの内容は、「キリスト教とは?」「イエスとは?」「イエスの死とは?」「確かに信じるには?」「聖書を読むには?」「神に祈るとは?」「神の導きとは?」「聖霊とは?」「「聖霊の働きとは?」「聖霊に満たされるには?」「悪に対抗するには?」「イエスを伝えるとは?」「神のいやしとは?」「教会とは?」「人生を最高に生きるには?」となっていて、コースの産みの親ニッキー・ガンベル司祭による各テーマのトークをビデオで視聴したあと、10人程度の小グループでディスカッションしていくというものである。

最初、思ったより人数が少なかったことと、(多くはチャーチのボランティアで、参加者は最初5〜6人だった。) 年輩の人が多かったことで、「ここに溶け込めるかなぁ。」とやや不安になった。しかし、ビデオをみた瞬間から不安が解消された。もし、あの「ビデオ」を見ていなかったら、私はその後も続けて通うことはなかったかもしれない。ニッキー・ガンベルの話術とその人生に惹きつけられたのである。

まず、ニッキーは大学に入るまでクリスチャンではなく、むしろキリスト教を否定していたということに驚いた。クリスチャンになる前のニッキーが考えていたこと(キリスト教は「つまらない、無関係、嘘くさい」)その時ノン・クリスチャンだった私と同じものだった。それだけに、「何が彼を変えたのか。私も、もっと知ったら目覚めるのかもしれない!」と好奇心は高まり、ニッキーの話が受け入れ易くなった。

ニッキーはこういった。「生きる意味を求めて人間は色々なものに手を出す。お金、成功、名誉、他人からの愛、地位、権力、薬、タバコ、娯楽、趣味。だけど、いくら手に入れても、満足することのできない「空洞」が人間にはある。満足するどころか、欲が大きくなり、孤独な気持ちは治らない。この空洞を満たしてくれるのは「真実の愛」だけ。そして、「真実の愛」を与えてくれるのは神様との繋がりだけ。神様を知らずに、心の穴を埋めることはできない。キリスト教はつまらない、無関係なものではなく、「愛」を知り、空洞を埋め、人生をより楽しむものである。」(もっとユーモアにとんだ言い方だったけどね。)

「イエス・キリストは命のパンである。」 

この言葉が私の心に響いた。私は、ノン・クリスチャンであっても人生を楽しく生きていたので、宗教は必要ないと思っていた。だけど、精神的に「満たされている」わけでもなかった。例え親でも、親友でも彼氏でも相手の全てを背負えることは出来ないし、また相手に全てゆだねることも出来なかった。勉強で成功しても、その瞬間喜ぶことはできても、また次の目標に進んでいかなければならない。お金はあればあるだけ、欲が増える。どこか心の奥深くに穴があいている気がしていたので、ニッキーの言葉が私の心を打った。「パン(主食)なしにおかずだけ食べても、永久に満たされない。だけど、イエス・キリストはパンであり、キリストを受け入れない人生は、神様との関係が切断されたままになり、永久に飢え続けることになる。」

この時、私はまだイエス・キリストや神様のことがピンときていなかったが、クリスチャンの人達が「満たされている」ヒントを得た気がした。

グループディスカッションでは、それぞれ自己紹介とビデオをみて何を感じたか意見を述べた。私は正直に、自分はまだクリスチャンではなく、まだピンとはきていないが、ビデオでニッキーがいった「空洞」に納得してしまったと伝えた。私のグループは既にクリスチャンの人が多かったので、皆温かく見守ってくれた。

自分と同じノン・クリスチャンの人があまりいない状況に少しがっかりしていたが、何故か、初回は行ったあとかなり気分が良くて、無理して参加してよかったと思った。そして、しばらく通い続けることを決意した。



2004年9月26日 2・3回目のアルファ イエス・キリストについて
恥ずかしながら、イエス・キリストについて知っているつもりでいた私だったが、「何の罪もないのに、十字架に張り付けられ、死に、三日後に復活した神様がこの世に送り出した息子」としか知らなかった。なぜ、神様が最愛の息子を人間の罪を償わせるために死なせたのか、なぜこんなにもキリストの復活がさわがれているのか、キリストが自分にとって一体何の関係があるのか、疑問がたくさんあった。

ニッキーはビデオでまたこれらの疑問を一つずつ丁寧にといていってくれた。

まず、聖書の信憑性。

イスラム教のコーランが書き始められたのは、1300年ほど前のこと。仏教教典が書き始められたのは、今から2400年ほど前のこと。これに対して、聖書が書き始められたのは、3500年ほど前のことである。また、聖書は全部で2000を超える言語に翻訳され出版されている。世界中の国の数のさらに10倍以上、小さな部族のマイナーな言語にいたるまで、聖書が語るメッセージはまさに「全地に響き渡り、地の果てまで」行き届いているのだ。

イエス・キリストの死と復活がなぜ私達人間にとって重大なことかも説明してくれた。

 人間は皆「罪」を抱えている。始めの人アダムが悪魔の化身であるヘビにそそのかされて罪を犯してしまったから。もともと人間には神様から「永遠の命」を与えられていて、働かなくてもよかった。しかし、罪を侵した上にその事実を神から隠そうとしたアダムとエバはエデンの園を追われ、額に汗して働く定めとなり、いずれは必ず死ぬ身に定められた。こうしてアダムから入った罪は子孫代々にのろいとして受け継がれることになった。

「私は何も悪いことはしていないし法をやぶったこともない」と思うかもしれない。だけど、嫉妬、恨み、疑い、妬みの感情を抱いたことはないか。たとえ法をやぶらなくても、これらの思いは全て心の病すなわち罪なのだ。そこで、神様は神の一人子イエス・キリストを地上に派遣し、イエス・キリストをみんなの罪の身代わりに十字架に付けてその血で人間の思い罪を流すことにした。人間の罪、ねたみ、恨みや悪口こういった諸々の罪すべてを焼き払うのには、これほどの犠牲が必要だったから。キリストは十字架に付けられ、そこで息絶え、墓に葬られましたが、3日後に主なる神の御心により復活した。そしてすべての人々の罪を許し、「ただ信じてついてきなさい」と言われ、その後神の元に返られました。そしてイエス・キリストは天に挙げられる際に、「私は必ず戻ってくる。それまで準備をしていなさい。」と言った。そのキリスト再臨の日には地上でも天上での正義が実現され、義人は祝福を得る。しかし不義の者、不信心の者は永遠の炎に投げ込まれると言われている…

ニッキーやその後のグループディスカッションでイエス・キリストと私たちの関係について教わり、今までの疑問がクリアになった。だけど、私はまだこの時、頭で理解しようとしていて、心で理解していなかった。この日も「知識」として身に付いた気はしたが、まだ信じているというわけではなかった。

クリスチャンの女性達は「イエス・キリストは私にとって、夫のような存在。」といっていたし、男性は「親友。」といっていた。こんな私がここにいるクリスチャンの皆みたいにきらきらした目で純粋に信じられる日がくるのかどうか、疑問だった。だけど、グループの皆とも少しずつうちとけていて、居心地が良かったので翌週も通うことにした。



2004年10月13日 4回目のアルファ 信仰について
すっかりグループの皆と打ち解け、アルファに行くのが楽しみになっていった。皆とても温かくて、食事の時間がとても楽しかった。

この日は「信仰について」というビデオ講義を見た。クリスチャンになって信仰を深めていくと色々な変化がおきるらしい。ニッキーはクリスチャンになる前、クリスチャンになったら人生は「つまらないもの」になってしまうことを恐れ、ずっと避けていた。しかし、キリスト教がいかに嘘くさいかを徹底的に追求するために聖書を読み始めると、「真実」にぶつかり、神様に自分の人生をささげる決意をすることになった。

ニッキーがその時気づいていなかったのは、キリスト教は「神様と自分との関係」で、神様は私たちに無償の愛を注いでくれ、私たちにとってもっとも満たされる人生を送るように働きかけてくれるということだった。

驚いたことは、ニッキーが「信仰」は感情によって支えられるものではなく、神様との約束という「事実」によって支えられているものだといったことだった。ニッキーいわく、人間の感情ほど不安定なものはないらしい。人の気持ちは状況、時代、その日食べた食べ物、健康によって変わっていくもので信用できない。だけど、神様の教えは変わらない。聖書がそれを証明しているからだ。

クリスチャンとノン・クリスチャンの差はイエス・キリストの死を認め、イエス・キリストを自分の中に受け入れるかどうかである。ニッキーの例え話では、イエス・キリストが私たち一人一人の心の扉の外でじっと辛抱強く待っている。何度もドアをノックしては、私たちが明けてくれるのを待っている。彼は無理やり私たちのドアをこじあけるのではなく、私たちが自らドアを開くことをただ待っているのだ。そして、ドアを開けた瞬間が「クリスチャン」になった証しだという。 

クリスチャンになると、色々な変化がおきる事を教えてくれた。神様に対して愛がめばえること、聖書を読みたくなること、心に余裕ができること、他人にたいして思いやりをもてること、目や表情が輝いてくること、神を賛美することで喜びを得られること、多くのクリスチャンと関わりたくなってくることなど。(今思うと、私ものちにクリスチャンになってから、この通りになった)

その後のグループディスカッションでは、クリスチャンの人達が「信仰」について熱く語り始めた。クリスチャンである彼らもつねに信仰深く生きることは難しく、時には苦しい時もあることを教えてくれた。だけど、毎回神様にゆだねることにより、より信仰が増してくるとも。ノン・クリスチャンで、まだイエス・キリストを受け入れていない時の私には、この話を聞いてもピンとくることはなかった。「ああ、楽しいことばかりではないんだな」と。あとは、人によって信仰の度合いが違うことも知った。



2004年10月20日 アルファ5回目 神様の働きかけ
よく、クリスチャンの人の多くから「神様が自分に働きかけると、自分の意志とは関係なく、自分がどんどん変わっていく」という話を聞いていたが、私も同じ体験をした。神様は私に恐怖を乗り越えて運転をするように働きかけたのだ。

恥ずかしい話だが、私は21歳にもなって運転に自信がなく、いつも人に送り迎えを頼んでいた。アルファが行なわれるチャーチには、母も私に運転させるのは心配だからと、家から車で20分の場所に送り、帰りは迎えにきてくれていた。ずっと申し訳ない気持ちと情けない気持ちでいっぱいだった。そして、母に運転を頼んでいる限り、その教会で行なわれているヤング・アダルトの集まりや日曜礼拝お願いすることは出来ないと思っていたので、誘いはうけていたものの、参加したことはなかった。運転が嫌いだったし、母も私の運転を信用していなかったので、多少の不自由さも我慢していた。

ところが、アルファ5回目の週に、勇気を出して自分で運転しようという気持ちになった。

その日、豪雨だった為、母が「休んだら?」と私に言った。雨の中運転をするのが嫌だったらしい。私にとってアルファは、週1の外せない日だったため、何が何でも行きたかった。母は強情な私に怒りはじめ、「そんなに真面目にすべて出席しなくてもいいんだよ。それに、皆こないよ。行っても無駄なのに!」と色々と私に言ってきたが、私はお願いしつづけた。最終的に根気負けした母は、雨の中、私をチャーチまで送りに行った。

チャーチにつくまでずっと母の怒りの言葉を聞きながら、私は心の中で思った。
「やっぱり、自分で運転しないと、自分の意志で動けない。母にも申し訳ないし。」

チャーチにつくと、驚くことに、全員が出席していて、私を笑顔で迎えてくれた。雨で休もうという考えの人はいなかった。無理に連れてきてもらってよかった。

この日は「何故、そしてどのようにして聖書を読むのか」というテーマだったが、非常にわかりやすかった。聖書は歴史を勉強する上でも必要な本だし、何よりも神様からの「ラブレター」と考えるとわかりやすい。そして、聖書の言葉は色々な文献や日常会話にも引用されている。人生の色んなテーマ、「仕事」、「恋愛」、「夫婦」、「友達」、「結婚」、「家族」など色々な問題についての対処法のアドバイスなども聖書から見つけることができる。一生かけても読みつくせないほど奥深く、そして状況や人によっても解釈法が変わってくる「神様からのラブレター」。

グループディスカッションでは、「愛」について話し合った。キリスト教が最も大事にしているのは「愛」であり、単純に言えば、クリスチャンになるということは神様との「愛」を育み、周りの人も自分と同じように愛し、豊な人生を送ろうとのこと。まだノン・クリスチャンのアレックスはそこで皆に疑問を投げかけた。

「女性にとってキリスト教は愛という表現はすぐにしっくりくると思うけど、男性にとって、俺にとって神様の愛といわれても、一般的に言われている愛との違いがよくわからない。皆が思っているクリスチャンの愛ってどういう愛なのか教えてほしい。」

彼の質問は簡単に答えられるものではなかった。私も複雑なことはわからないが、思っていたことをシェアしようと思って、こう答えた。

「私も真実の愛というものがよくわからない。正直言って、彼氏がいても、永遠に続く愛だという確信もないし、友達や親友だって、自分を100%さらけ出したら受け入れられるのかもわからない。それに、恋人や友達だってずっと側にいてくれるわけではないし。だけど、深い愛について考える時、私は両親のことを思う。親は私の欠点をたくさん知っているし、綺麗に「外見」を作っていないときの状態も知っている。だけど、親は完璧ではなくても愛してくれている。私も親が完璧ではなくても、愛し続けると思う。きっと、神様の愛ってそれよりすごいものだと思う。聖書にものっていたし。だとしたら、人間同士では築き上げることのできないほど深い愛なのかもしれない。」

これを述べた後、多くのクリスチャンの人が共感してくれた。アレックスは複雑な表情で考え込んでいた。私もこの時、神様のことが少しわかり始めたのだけど、まだ頭で理解しているだけで、ハートから感じていなかった。だけど、アルファに行くことは私にとってかかせないものとなった。そして、私はこれからは自分で運転をする決意をした。



2004年10月25日 すみれちゃんとの出会い
クリスチャンになるにあたって、絶対に忘れてはいけない人物がいる。それは、日本人の夫をもつドイツ人のアンジーだ。アンジーが日本人向けのアルファコースのリーダーの一人で、多くの日本人を神様に導いてくれた。母も日本人向けアルファコースでアンジェに出会い、お互いに夫のタイプが似ているとのことで意気投合したらしい。アンジーは、たった4年前にクリスチャンになったとは思えないほど、熱心で、信仰が深く、クリスチャンの鏡とも言える人。

アルファ5週目の時、アンジーが彼女の自宅でちょっとした集まり会を開いた。この時、アンジーが自宅に呼んだのは私たち親子と、26歳のスチューデントビザで来豪した日本人のすみれちゃん、そして日本語が上手な台湾人のリーちゃん。

リーちゃんも、つい最近キリスト教について勉強し始めたので、疑問がたくさんある様子だった。それには深い訳があり、台湾で友達に誘われてもう少しで「洗礼」を受けるところだった宗教が「カルト」だったのだ。そのトラウマがあるせいか、いくらアンジーの宗派がプロテスタントのペンテコステで「カルト」ではないと説明しても、常に疑問を抱えて、たくさんの質問をしていた。「神様は人間一人一人を本当に見ているのか。これだけ大勢の人がいて、祈りは神様に届くのか。」など。それでも彼女はこれからの人生の「支え」が欲しいらしく、熱心に勉強していた。彼女も私と同じ、「頭で理解しようとしているタイプ」のように感じた。

すみれちゃんと出会ったことは、私にとって衝撃的だった。すみれちゃんは既に、神様をハートで感じていて、神様の話をするたびに涙を流していた。これにはとっても驚いた。この時の私は頭で理解しようとしていて、ハートでは感じていなかったので、すみれちゃんが泣いているのをみて少しひいてしまった。きっとすみれちゃんは今まで何か不幸な出来事があって、神様にすがっているのだと思い込んでいた。実際、今まで出会ってきた多くのクリスチャンの人が神様を信じるようになったきっかけが不幸な出来事だったからだ。だけど、すみれちゃんは違った。26年間、オーストラリアにくるまで全く神様やイエス・キリストについて考えたこともなければ、教会にいったこともなかったすみれちゃん。不幸な出来事もなく、最初にチャーチにいった時から涙があふれ出たらしい。そして、全てを受け入れられ、神様の愛を肌で感じたとか。その話を聞き、驚くと同時に羨ましくなった。どうしたら、そこまで感じられるのか。何故私はハートで感じていないのか。

私が日曜の夜の礼拝に参加したことがないことを知り、アンジーとすみれちゃんはしきりに私に参加するように勧めた。礼拝に行くと体で神様の愛を感じることができるとか。今まで、夜の礼拝は母に運転を頼むことが億劫だったので、参加していなかったが、私は参加してみたくなった。ますます運転したい気持ちは高まった。



2004年10月27日 アルファ6回目
これから、チャーチまでは自分で運転すると決めた私だったが、母がいきなり運転させるのは不安だということで(基本的に私が運転することに不安があったらしい)、この日は、アルファまでの道のりを覚えることにした。

この日のアルファのテーマは「何故、そしてどうやって祈るの?」だった。よく、ノンクリスチャンの人でも「祈っています」などを口にするが、具体的にクリスチャンの人の祈りとはどういうものなのか、知りたかった。私は前の学校でも、朝礼の時に決まった祈りを全校生徒と共にしていたが、意味を考えたこともなく、暗記していただけだった。

だけど、母のクリスチャンの友達は私が辛い時、試験にむけてがんばっている時、また病気の時など、私のためによく祈ってくれていた。電話で祈られたこともあった。その頃はただ聞いているだけだったが、不思議と落ち着いた気持ちになった。祈ってくれているということが嬉しかった。

ニッキーによると、祈りとは生活の中で欠かせないものだといっていた。神様との絆を深めるためのコミュニケーションだと。友達でも夫婦でも「コミュニケーション」をすることで関係が強く、深くなっていくのと同じように、「祈り」をすることによって、神様と会話したり、誰かのことを考えてその人の為に祈ったりすることができるのだとか。

この日のグループディスカッションでは、私はあまり参加することはできなかった。私は21年間、自分の心の中で考え事をして、頭の中で話していることはあっても、神様に向けて話しかけるということは実感できなかった。そもそも、見えない神様に話しかけるというのは、独り言とどう違うのだろうか。難しいことを色々と考えて無口になってしまった私をみて、グループのクリスチャン達は「難しく考えることなく、神様にむかって友達のように会話すれば良いのだよ。感謝を忘れずにね。」といってくれた。まだピンとこなかったが、祈りの力は信じていた。実際、祈られて落ち着くこともあるからだ。私も、いつかは神様と会話をして、他の人のために祈れるのだろうか。



2004年10月29日 初 ユースグループ
アルファのグループの若いメンバー、クリスチャン暦5年のロビンに誘われて、10代と20代前半が集うユース・グループに参加した。若い人で集まって、教えを聞いて、聖書勉強会をする集会だと思っていたが、全く違った。まず、チャーチにつくと、大音量のバンドの音が聞こえてきた。賛美の歌もポップス系で、クラブに行きそうな雰囲気の十代、二十代の子たちが、ホールに集まって踊りながら歌っていた。それから、演奏が終わると、20代後半の牧師がステージにたって、とってもテンションが高いスピーチをしているのにも驚いた。クリスチャンの集まりというよりもコンサートだった。最初はボーゼンとしたが、そのうちに慣れてきて、楽しむことができた。

その後、二階にあがって、グループに別れて、皆で「神様の計画」について語り合った。普段、ノン・クリスチャンの若者同士だったら照れて語りにくいような内容も、クリスチャンの間だと普通に語り合うことができる。「夢」、「愛」、「友情」や「神様との関係」など。そして、この日は皆で将来の夢、目標を語り合ってお互いの為に祈った。といっても、私はまだどういう風に祈れば良いのか分からず、他の人に祈ってもらった。

グループで話している時に私が、
「私は2月に日本に帰国してしまうのに、最近になってアルファにも通い、今日ここにも来ている。まだクリスチャンではないし、何故今こうやってここにいるのかも分からないけど、不思議と気持ちが落ち着くのです。」と本音を語ったら、そこにいたグループの子達が

「それは、きっと神様があなたを呼んだのよ。何かメッセージを伝えようとして。偶然じゃないと思う。まだ見つからなくて、混乱しているかもしれないけど、良いことだから心配しないで。あなたのために祈るから。」と素敵な笑顔で受け入れてくれた。この日、私は色々な人と知り合うことが出来た。私と同年代の人達が信仰をもっていて、すてきな笑顔だったのが印象的だった。



2004年10月31日 初運転とクリスチャン発言
クリスチャン=洗礼をした人 だと思っていたが、色々な人と知り合ううちに、「クリスチャンだけど洗礼されていない」という人も結構いたのだ。 私自身、洗礼を受けたのは12月5日だったが、「クリスチャン」に正式になったのは10月31日だった。しかも、気が付いたら「クリスチャン」ということになってしまっていた。

この日、私は初めて私のチャーチの夜の礼拝に行った。初めての運転で、途中曲がる道を間違えるというアクシデントもあったが、何とかたどり着くことができた。あれだけ怖かった運転だったのに、不思議と運転前に軽く「神様、私に勇気と力を与えてください」と祈ったので、以前ほど怖く感じることはなかった。このときから、漠然と自分以外の力を実感しはじめていた。

チャーチにつくと、ユース・グループの時と同じ雰囲気で、ガンガンにバンドが演奏していて、みんな踊りながらポップス調の賛美歌をうたっていた。すみれちゃんは相変わらず、大粒の涙をボロボロ流しながら、歌っていた。

私は、少しずつ、自分の気持ちが傾いてきていることを感じ始めていた。他のクリスチャンのように神様を信じたい。実感したい。見えているものしか信じられなかった自分だけども、もっと大切なものがあったのではないか、と考えていた。その時、牧師さんが

「今日、イエス・キリストをあなたの救世主として受け入れる方は手をあげてください」

といった時、思わず手を上げてしまった。これが、クリスチャンになるステップだとは恥ずかしながら全く知らなかった。ただ、イエス・キリストが私たちの罪を償ってくれたことは信じるようになったので、もっと私を「ハートで感じられるようにしてください」という意味で手をあげたのだった。

気が付くと、周りの人が私の手を取り、ステージの前まで案内してくれた。アンジーや他の知り合いの人も「おめでとう」といってくれて、牧師さんが祈ってくれた。そして「君はもうクリスチャンだよ」といった。

あまりに早い展開だったので、ボーゼンとしてしまった。こんなにあっけなくクリスチャンになれるものなのか。だけど、不思議と周りがあまりにも喜んでくれたので、私もわくわくした。新しい聖書と「洗礼(バプティズマ)までの道のり」の案内本をプレゼントされた。

その時、あまり変化を感じなかったが、これからもっと自分の全てを神様にゆだねられるようになれるようお祈りした。



2004年11月3日 アルファ6回目
運転もようやく慣れてきて、アルファの日はいつもに増して、「ウキウキ」していた。

この日は「神様はどうやって私たちを導くのか。」というテーマだった。ニッキーによると、私たちは自分の力で人生の波に立ち向かわなくても良いらしい。自分の力には限界があって、神様は私たちが生まれる前からプランがあって、私たちは神様とコミュニケーションをとることによって、導かれていくのだと。

そして、神様のプランであれば色んな信じられない出来事も起きること言っていた。例えば、ノンクリスチャンの人が色んな導きにより、信仰深いクリスチャンになったり、治らない病気の人が祈られたことにより治ったり。神様は全ての祈りの答えるわけではないけど(全て叶っていたら、世の中の苦しみなどないよね)、神様の考えていることは人間には理解することは不可能らしい。例えていうと、アリが人間の考えていることが理解できないのと同じように。(しかも、それよりも人間と神様の差の方が大きい。)

グループディスカッションでは、私たちのために神様が用意してくれた道を歩くように導いてくれるから、ゆだねれば良いとクリスチャン歴が長い人が口をそろえていっていた。私は、思わず、「全てをゆだねるって言葉にするのは簡単ですが、どうゆだねればよいのでしょうか。」と聞いてしまった。頭でゆだねたつもりでも、本当にゆだねるとはどういうことなのか。自分が会ったこともない、声を聞いたこともない神様にゆだねることはできるのか疑問だった。

アレックス(まだ洗礼は受けていないが、キリスト教に興味があり、アルファコース参加二回目のメンバー)が

「ゆだねるのが怖いの?」と尋ねてきた。

私は怖いというより、ゆだね方が難しいと答えた。何故なら、嬉しい時、精神的に満たされている時は「ああ、幸せ、神様有難う☆」と心から感謝することはできるが、落ち込んだ時や辛い時は、まだ自分の心の声が自分を裁いていて、神様のことを忘れてしまう。神様に頼って、自分を責めることをやめることはできないとつたえた。

これに対して他のクリスチャンの女性達が同意してくれて、皆ゆだねることは簡単ではないけど、少しずつでも信頼関係を築いていけば、ゆだねられるようになるのだと励ましてくれた。信仰心にもレベルがあって、ノンクリスチャンがキリスト教に出会ってその日から100%ゆだねられる人もいれば、少しずつ信仰を深めていく人もいるらしい。私は明らかに後者だと思った。そしてすみれちゃんは前者だ。

でも、前よりは「心」で感じている自分に気が付いた。帰りの運転中、何故か目が潤み、心の中があったかくなった。心の奥で何かを感じていた。



2004年11月6日 聖霊の日
言葉では表現できないぐらい凄い日だった。この日をきっかけに私は頭で考える人から、ハートで神様を感じ取れるようになったのだ。まさに私が「生まれ変わった日」だ。多分、ノン・クリスチャンの人が読んだらひいてしまう内容かもしれない。だけど、この日をなくして、今の私はいない。

この日はアルファウィークエンドといって、普段の水曜の夜ではなく、土曜日の朝9時から4時まで、ランチをはさんで「聖霊」について学んだ。

ニッキーは大学で5人のニッキーという同じ名前の友達と共にクリスチャンになり、聖書グループを結成した。他の4人のニッキーが日に日に信仰を深めていくのに対し、一人のニッキーはあまり関心を示さなかった。彼は聖書を読んでも祈っていても神様を感じていない様子だった。ある日4人のニッキーはそのニッキー一人を聖霊によって満たされるように祈った。そして、その祈りが通じ、そのニッキーは別人のように活き活きとしはじめ、ピカピカの笑顔になった。そして、今現在もクリスチャンで、バイブル読むことも、祈ることも、とてもわくわくするようになったらしい。他の人も磁石のように彼にひきつけられ、聖霊で満たされるようになった。

何がニッキーを変えたのか? それは、聖霊が彼の中に働きかけたのだ。

神様とイエス・キリストはよく知られているが、この「聖霊」は神様の愛の霊、「助け主」「慰め主」とも呼ばれ、キリストを信じる者の心の中に存在する。本当の慰めや助けは、神からくる。目には見えないけれどいつもキリストは信じる者の傍らにいてくれるのが聖霊らしい。

聖霊が働くことによって多種多様なすばらしいわざが起こる。聖霊が働くとき、私たちの内面や外面に変化がおきるらしい。

例えば、内面的変化は以下のようなもの。

 数々の罪を思い起こし悔い改める
 世にはない深い平安が与えられる
 神と隣人を愛するようになる
 疑いが消え、救いの確信を持つ
 コンプレックスや低い自己像から解放される
 高慢、怒り、苦々しさからの解放
 心の傷がいやされる。
 金銭欲、貪欲がなくなる
 欲求不満から解放され、賛美と感謝があふれる
 祈る心が与えられる
 神に献身したいという願いが起こされる

外面的な変化は以下のもの。(個人差あり)

 聖霊の賜物である知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力が与えられる
 伝道する力を受ける
 悪霊に対して権威を行使するようになる
 様々なしるし(笑い、震え、幻を見るなど)と不思議なわざが起こる

そして、このビデオを見ている時から、私の中で変化が起きはじめていた。文章にすると、かなりひくかもしれないが、事実なので書くことにした。 まず、涙が止まらなくなった。心の中で神様に何度も赦してほしいと祈っていた。今まで、21年間の自分で背負っていた色々な感情や想いが全て表に出てきた。普段、人前では泣かないように、コントロールしている私でも、この日だけは止められなかった。お昼休憩の時、ようやく泣き収まったのだが、すみれちゃんがやってきて(別室で日本語アルファコースが行なわれていた)彼女は私よりもっと目が腫れていた。ビデオ中にずっとおお泣きしていたらしい。

お昼後、私たちが聖霊で満たされる為の祈りのセッションがあった。実は、母が以前アルファコースを受けていたとき、このセッションを体験してから洗礼を思いとどまったという衝撃的なセッションなのだ。牧師やクリスチャンの人が私たちが聖霊で満たされるように祈ってくれるのだが、人によっては失神したり、おお泣きしたり、笑ったりと、ノン・クリスチャンがみたら後ずさりしてしまうような光景を見ることになるという。母はこの体験でひいてしまい、私がこのセッション後、どうなるのか楽しみにしていたらしい。しかし、私は母とは全く違う体験をした。



2004年11月6日 人生を変えた体験
まず、牧師さんやクリスチャンの人が祈ってくれた時、私の心の中は表現できないぐらい温かくなった。そして、今までこらえていた感情全てが湧き出るかのように出てきて、涙が止まらなくなった。私はずっと泣いていた。その場にいたリーちゃんも泣いていた。私とリーちゃんと、アルファグループにいたクリスチャンの何人かの女性とその場で抱き合った。そして、次の瞬間、信じられないことがすみれちゃんに起きた。

彼女は大声で泣き始め、地面に倒れこんだ。周りの人が彼女の側にいくと、体が硬直して、うなされていた。冷静な人がみたら驚いて呆然としてしまう光景だろう。私も近寄ったが、指が固まっていてうごかなかった。彼女はずっと泣いていて、周りの人が祈りつづけても、なかなか、起き上がれなかった。30分ほど、その状態が続き、私やリーちゃんは泣きつづけた。その時、全身全霊で「感じていたのだ」。40分後、すみれちゃんは安らかに眠りにつき、指はもとに戻り、眠りにはいった。自然に目が覚めるまでそっとしておくことにした。言葉では表現しにくいが、その場所で私が感じたもの、みた光景はとても美しかった。まるで天国にいるような綺麗な光景だった。アルファで今まで仲良かった人達と手をとり、抱きしめ合い、違う絆で結ばれた気になった。これは体験した人ではないとわからないと思う。

20分後、すみれちゃんは目覚め、生まれたての子供みたいにピカピカな笑顔で起き上がった。しかも、泣き叫んだことや、気絶したこと、40分間起き上がらなかったこと全て覚えていなかった。彼女はすごく笑顔でいった
「神様に会えた。」と。

彼女の表情を見れば、それは演技でも催眠術でもないことが明らかにわかった。自分がその場にいなかったら、疑ったかもしれないが、確かにその場に神様はいた。理屈ではなく初めて100%ハートで感じた。そして、私自身、その日は世界が輝いて見えた。心の中がとても温かくなり、神様をはじめて感じられると思うようになった。リーちゃんも今までの疑惑や疑問が全て解けたといっていた。私たちはセッションが終わった後もしばらく帰りたくなかったので夜7時までカフェにいた。すみれちゃんはずっと神様と会った体験談を語っていた。すみれちゃんほどの体験をする人は稀らしく、長いクリスチャン歴の人でも羨ましがる人もいたくらいだ。翌日27歳の誕生日をむかえるすみれちゃんは最高の誕生日プレゼントだといっていた。

家に帰ると、母が、ひいていない私を見て複雑そうな顔をしていた。そして、すみれちゃんに起きたことを当分誰にも言えなかった。言葉にできないぐらい胸がいっぱいだったのだ。とにかく「感じた」。私はもう何も迷いがなく、洗礼を受けたいと思うようになった。



2005年11月24日 聖霊で満たされた後… 
聖霊の日以来、私は生まれ変わった。 まず、内面的変化が多く起きた。もう自分の声が聞こえなくなった。その代わりに「大丈夫だよ…ここにいるよ…」といつも温かく神様が励ましてくれる気がした。それから、プライドがなくなった。以前はプライドがあった為、つい意地を張ったり、父親に対して素直になれなかったところもあるが、自分から折れるようになったし、愛をもって接することができるようになった。そして、人がまわりにいない時も笑顔でいっぱいになった。気が付いたら「幸せ」と言葉にしていたし、何でも肯定的に捕らえられるようになっていた。

既に、周りのクリスチャンは私の変化を敏感に察し、「聖霊で満たされているのね。今がクリスチャン時代のハネムーン時期だよ」と言ってくれた。皆私を温かく抱きしめてくれた。今までとは違う深い絆で皆とつながれた気がして、「家族」のような気持ちになっていった。

他のクリスチャンの人が「最初はあなたのように何もかも幸せに感じていたわ。次第に色々な試練が待っているけども、神様を信じていれば乗り越えられるし、絆も深くなっていくのよ。」といってくれた。私はまだこの時は「試練」についてはわからなかった。ただ、常にわくわくしていて幸せだった。

また、賛美歌を聞いたり、祈ったりする時に自然に涙がぽろぽろと溢れ出すようになった。嬉涙だ。それからチャーチに行く時は必ずウォ-タープルーフマスカラをつけるようにした(!)。 



2004年11月25日 アルファ最終日
最後のアルファの日、私は洗礼を受ける決心をした。洗礼を受けなくても「クリスチャン」だと言えるらしいが(イエス・キリストを救い主として受け入れている場合)洗礼は例えていうと籍を入れるようなものらしい。結婚と似ていて、愛し合っていて周りに公表したい気持ちだったら籍を入れるのが自然なはず。籍をいれないのは、つまり洗礼を受けないのはどこかで逃げ道を作るようなものだと思う。そのことにためらいがあるようだったらまだその時期ではないのかもしれない。だけど、私は洗礼されたかった。皆に公表したかった。日本かえる前にシドニーの私の大好きなチャーチで友達と一緒に洗礼されたかった。

最後に一人ずつ、「証し」といって、アルファで自分がどう変わったかをスピーチする場があったので、私も証しをさせてもらった。

私の母がアルファコースを紹介してくれたこと、アルファに通うたびに安らぎと葛藤があったこと、それから聖霊の日で変わったことを話した。今までは、日本にどうせ帰るのだし、日本ではクリスチャンは1%弱だし、大変になってしまうので、クリスチャンになってしまうのに抵抗があった。そんな私が何故かアルファに導かれ、「何故帰国直前に?」と葛藤しながらも神様に近づいていった。そして、ハートで感じられるようになった今、心からクリスチャンになれてよかったと思うし、周りに伝えるのも怖いどころか、皆にも知って欲しいくらいになった。これから、試練が待ち受けているのかもしれないけど、神様と出会わなかったことを考えると、どんなことでも乗り越えられる。もう一人で抱え込まなくて良いから。そして、私の周りの人が祈っていてくれて、神様が見えるように光を照らしてくれていたように、私も今はほんのわずかな光だけども、光を照らし、種をまいていきたいと話した。皆が拍手してくれ、私が大好きなアルファのグループのジョシィー(クリスチャン歴20年の56歳の女性)が抱きしめてくれた。本当に幸せを感じた日だった。

最後にアルファ二回目のアレックススピーチも印象的だった。

「僕は、今までずっと頭脳派で、学歴もつけて、整体師という職業にもつき、成功を手にしてきました。だけどもずっと心の中で何かが欠けているように感じていました。その時、アルファコースを知り、第一回目はキリスト教について「知識」で学びました。いろいろと納得いくようになって、自分に足りないものはもしかしたら神様の愛なのかもしれないと思うようになりました。そして、まだ救われていない親友を数ヶ月かけて誘い、彼女と一緒に2回目のアルファコースを受けました。2回目は「ハート」で感じることができました。このグループはハートで語っていて、毎週通うたびに自分もハートで神様を受けられるようになったのです。また参加してよかった。そして僕は12月5日に洗礼を受けます。」
私同様、アレックスの変化も目覚しかった。最初は理屈っぽくて、色々グループを引っ掻き回していた彼が、次第に温かい言葉で神様を信じているのが伝わってきた。アルファって本当にすごい!と痛感した。もっと皆がアルファを知り、体験したらすてきだ。

家に帰ると、とても嬉しいニュースが待っていた。母が笑顔で出迎えてくれ、私にこういった

「私もいーちゃんと同じ日に一緒に洗礼を受けることにした。」

戸惑っていた母がようやく決意を固めたのだ。母は、その日、私が留守中に長い間、教会に通い、聖書勉強会に真面目に参加して知識も豊富なのに洗礼に踏み切れないNさんと電話で話し、
「私はさまよいたくない。決意して楽になりたい。娘と一緒に。」と確信したらしい。

母の目は輝いていた。私は飛び上がるほど嬉しかった。一緒に救われる。大好きなあのチャーチで。そして他の仲間と。今年一番の日になるに違いないと思った。



2004年12月1日 洗礼式直前・悪魔の攻撃
よく、クリスチャンは悪魔のターゲットになりやすいと聞いていたが、まさか洗礼を決意してから、こんなにも悪魔の力が働きかけるとは思わなかった。

まず、ノン・クリスチャンである父が、私だけではなく、母も洗礼を受ける決意することを知り、怒ってしまったのだ。父は、私たちの決意は固いことに気づき、その決意をあらためる説得ができないと諦めていたが、ありとあらゆる態度や言葉の刃で私たちを傷つけた。だけど、私たちは神様を信じる力が強かったので、父にたいして、優しく接した。母が愛をもって強く接していたので、父はそれ以上攻撃することはできなかった。

それから、リーちゃんは洗礼を受けると決めていたにもかかわらず、色々不安になったらしく、洗礼をやめると言い出しはじめた。皆が祈ると、また洗礼をうけるといって落ち着いたが、また次の日は違う疑惑にかられて、また気持ちが変わり、洗礼の日までわからなかった。リーちゃんはクリスチャンになる「資格」がないといっていたのだった。これから離婚するし、タバコもたまに吸うし、一つの教会に属することに対する不安などで、それほどの覚悟がないといっていた。最終的には、母が話しを聞き、タバコやお酒は「重罪ではない」し、離婚は(カトリックではゆるされていないが)神様を知る前だったら、仕方のないことだし、教会は一つに属する義務はないということを色々話をしたら気が楽になったようだった。

そして、一緒に洗礼を受ける予定だったもう一人の日本人のまりちゃんも親が仏教であるし、今までチャーチにずっと通っていて洗礼を受けていないことは周りには知られていなかったので、皆の前であらためて洗礼されることにためらいがあると洗礼を迷っていた。

そんなこともあり、洗礼式直前まで本当に皆揃うのかがわからない状態だった。



2004年12月5日 そして洗礼式!
12月5日。この日が今まで生きてきた中で最も幸せな日だった。生きていてよかった。今までもやもやしていた気持ちが全てふっきれた。

この日私たちの洗礼式の前にアレックスの洗礼式が行なわれ、私とアルファの仲良しもう一人のクリスが呼ばれた。なんと洗礼式が行なわれたのは郊外の家のプールだった!自然の中で、行なわれた洗礼式はとても神秘的で感動的だった。アレックスが洗礼を受ける前にスピーチで私やクリスとアルファ2回目で出会い、「愛、率直さ、謙虚さ、誇り」という言葉の真の意味を心で理解できるようになり、旅をはじめる決意ができるようになったといっていた。そして、牧師さんと共にプールの中に入り、アレックスは生まれ変わった。言葉に表せないくらい素晴らしい光景だった。



私たちの洗礼式は夜の7時半からだった。残念ながら、私の親友や大切な友達の多くは日本にいたり、海外旅行にいっていたりしたので、友達全員をよぶことは出来なかった。大学の友達3人(二人は既にクリスチャン)と高校時代の友達二人(ノン・クリスチャン)が来てくれた。私たちの前に洗礼をうけたアレックスもかけつけてくれた。母は、洗礼式がそんなにめでたいパーティのようなものだとは知らなかったし、無理に誘うのに抵抗があった為、仲良しのカトリックの親子だけを呼んだ。(それも、断れると思って誘ったら、即答で行く!といわれて驚いたのだった)。 

礼拝の前に洗礼される人達が集まり、その中に迷っていたリーちゃんとまりちゃんの姿があった時、私たち全員涙が出るほど感動した。これで、洗礼をうけたのは日本人4人、リーちゃん、韓国人の女の子、クリスと韓国人の牧師夫妻だった。この牧師夫妻は以前に洗礼を受けたことはあったが、頭に水をパラパラとまかれただけだったので、うちのチャーチで全身水につかる洗礼を受けたくて参加したらしい。

洗礼は、皆でステージに立ち、一人ずつ、体までつかる深さの温水が入った水槽の中に入り、牧師2人に支えられて、水の中に一瞬つかって祈ってもらうものだった。水にもぐった瞬間、私の罪が流され、生まれ変わった。そして、牧師さんを含め、色々な人が神様からのメッセージを伝えてくれた。その内容は長くなってしまうので、掲載はしないが、とてもすてきな言葉だった。
夫婦で洗礼を受けた牧師夫妻は「結婚式よりも感動的だ」といっていた。それほど、幸せいっぱいな日だった。

この日のことは一生忘れられない。皆同じ気持ちだった。私はこの日の為に天使の飾りを8つ購入し、裏に日付を書いたものを全員に渡した。例え、これから皆離れても、どこにいても、同じ日に生まれ変わったことは変わらない。そして、その絆は永遠にとぎれないと。




2005年1月1日 (土) 最後に
もし、最初から最後まで読んでくれた人に「有難う」と伝えたい。ノン・クリスチャンだとピンとこないかもしれないし、読んでいて抵抗がある部分もあるかもしれない。私も昔そうであったように。ただ、私は今とても幸せで、それは神様からの「宝物」を受け取ったからで、周りの人もそれに気づいて救われてほしいと強く祈っている。

これからの人生もちろん楽なことばかりではないけど、私には信じられるものが出来たから、暗闇の中で迷うことはないと確信している。これから、クリスチャンがあまりいない日本人社会に入っていくが、私は信仰を高めていって、どんどん幸せを広めていきたいと強く思っている。

神様、イエス・キリスト、そして心温かい私のチャーチの姉妹、兄弟達に出会えたことを心から感謝したい。

以上で、私の証しは終わります。