| 2008年9月16日 (火) |
『氷菓』(米澤穂信、角川文庫) |
「うん、これなら読める!」 和は笑顔で言う。それを見たあやめが、はあ、とため息をついた。 「……それが面白いのん?」 「うん。だって、ミステリなのに人が死なないし、怖くないんだよ!?」 いつもより五倍増しで嬉しそうな和。なるほど、この人はミステリが嫌いなわけではないんだな、とあやめは恋人に対する評価を改めた。 「だからってまさか和たんが学園小説に手を出すとは思わへんかったわ」 「だってミステリだよ?」 「ミステリかもわからへんけど、実際はただの学園ドラマやん」 「充分さ。ちょっとした謎があるのが面白いんだ」 「それにこのネタ、簡単やん」 「高校くらいでそんな誰も分からないような謎解きは必要ないよ」 今日の和は随分と強気だ。それほど怖くないミステリが嬉しかったのか。 「一個ずつの謎解きにつながりがないってのも珍しいわ」 「あれ、読んだことあるの?」 「一応米澤穂信は全部読んだわ」 「ええっ? でもあやめちゃん、僕に一冊も貸してくれなかったよね?」 「簡単すぎるんで見せるまでもない思うて」 「えー」 すると和は少しむくれて言う。 「こんなに素晴らしいミステリ小説、そうそうないのに」 「単に四人の高校生がちょっと謎解きしただけやないの。殺人が起きてるわけでもないのに」 「殺人が起きてたら怖いじゃないか!」 これだから。 これだからまったく、和は、かわいい。 「それなのにいざとなったら一番頼りになるのが腹立つわ」 「ええ、なんか地雷踏んだ」 「ええよ。和たんがそういう人だっていうのはもうずっと分かってることやけん」 ため息をついた。 「ま、ええわ。そのシリーズなら全部あるから持ってってかまわへんよ」 「ありがとう、あやめちゃん」 笑顔になる和。あやめはまたため息。 「どうしたの?」 「その無邪気な笑顔まで憎たらしいわ」 自分より年上のはずなのに、どうして和はこんなにも無邪気というか子供でいられるのか。 ちょっと納得がいかなかった。そんな日常の一コマ。 |
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| 2008年2月1日 (金) |
『星降り山荘の殺人』(倉知淳、講談社文庫) |
「何読んでるん?」 いつもの待ち合わせ場所に先についた僕に、あやめは顔をのぞかせて尋ねてきた。 「あ、うん。これ」 そう言って表紙を見せると、とたんに彼女の表情が険しくなる。 「あ、それ。ふうん」 明らかに様子がおかしい。機嫌が悪いと言っていい。いったいこの本がどうしたというのだろう。 「何かあったの?」 「その本、好きやない」 はっきりと言う。評価については厳しい性格だが、ここまで言い切るのも滅多にない。 「面白くないの? まだ読み始めたばかりだけど、なんか正面から挑戦してくる感じで面白そうなんだけど」 実際、この本『星降り山荘の殺人』は面白そうだった。何ページかごとに作者から読者へのヒントやメッセージが記入されていて『犯人が分かるならあててみろ』という挑戦的な意識がはっきりと見える。ここまで本気で正面から犯人当てを挑まれると解きたくなるのが人間というものだろう。 「……ま、全部読み終わったら言うわ。でないとつまらんやろ」 まだぶすっとしているあやめに戸惑うばかりだ。 「ちょ、気になるよ。教えてくれないと」 「だったらはよ読み。待ってるから。和たんならあともう一時間も必要ないやろ?」 「え、まあ、そりゃ、なんとか……」 「ウチも読みたかった本あるし、待ってるさかい」 そう言って向かいの席に腰掛けると、あやめは何も言わずにバッグから文庫本を取り出して読み始めた。 (いったい何だっていうんだよ……) 僕は真剣に読み進める。
そして、442ページを開いて、しばし考え、がくりとうなだれる。
「どや?」 「どうもこうもない……反則」 がっくりときた。来ざるをえない。 「ウチも同じや。本気で勝負挑まれたから、じゃあ正面から解いてやろうと思ったけど、一瞬『そういう』つもりなんじゃないかと疑ったわ」 「疑ってどうしたの」 「もし『そうだった』なら、二度とこの作者の小説は読まへん」 「……同感」 完全に脱力しきった僕の肩をぽんぽんと叩く。 「ウチな、こういう叙述トリックって嫌いやねん」 「叙述トリック?」 「つまり、読者を土俵の上で考えさせるんやなくて、あがる土俵を間違わせるようなやり口」 「あー、なんとなく分かる」 「この小説はノックスの十戒すれすれやろ。まあそのやり口でくるならこの作者は絶対許さへんと思って読んだら案の定、それ以来一個も読んでへん」 本当にがっくりときた。小説読んでこれほど綺麗に『だまされたー!』と思わされたのは初めてかもしれない。 「王道クローズドサークルで、しかも典型的なフーダニッツ。期待してたんよ。正面から解きたかったんよ。それをこうも裏切られたら、ミステリ小説全体に対する不審が募ってしゃあないわ」 「うん。だましはよくない」 「そ。というわけで、その小説は読まなかったことにするのがオススメ」 「うん」 そうして本を閉じる。 「けどな、それ、唯一の救いどころがあるとすれば」 「なに?」 「麻子がめっちゃかわいいねん」 にこー、と笑う。
いや、かわいいのはあなたの方で。 |
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| 2007年9月22日 (土) |
『メドゥサ、鏡をごらん』(井上夢人、講談社文庫) |
「はい、これ。この間のやつ」 和は八月二八日に借りた岡嶋二人の『クラインの壺』を手渡す。読み終わった、ということなのだろう。 あやめは綺麗な顔に笑みを浮かべて尋ねた。 「どやった?」 すると和は泣きそうな声で、 「怖かった」 とだけ答えた。思わずあやめが吹き出す。 「なんやの、いい歳した男が情けない」 「だって怖いものは怖いんだよ!」 「別に殺されるとかあらへんし、大丈夫やろ」 「でも最後、最後があんなことになっちゃって!?」 「ええから」 ちゅっ、とあやめは和の頬にキスする。 「ウチなら絶対にいなくならへんし」 「……なんか、ずるいよ」 うー、と和がうなる。そういうところがあやめのツボに入ることに本人だけが気づいていない。 「ちょうどよかったわ。はいこれ」 逆にあやめが本を渡してくる。 「何これ」 「クラインの壺の続き」 「やだっ!」 全力否定、全力逃亡。まったく、どこまでもへたれは治らないらしい。 「怖くあらへんよ、クラインよりは」 「でも……って、あれ? どうして作者が違うのに『続き』なの?」 作者名は井上夢人。名前が違う。 「ああ、それ。岡嶋二人っていうのは、井上夢人と徳山諄一っていう二人のコンビ名やねん」 「ああ、だから同一人物ってことか」 「そ。で、クラインは井上はんがほとんど書いたようなもんやし、内容が似てるから『続き』」 「クラインみたいな小説は絶対やだ! 最後怖いし! 考えたくないし! てゆーかタイトルが怖いからやだ!」 タイトルは『メドゥサ、鏡をごらん』。確かに怖そうだ。 「えらい嫌われたなあ。面白くなかったん?」 「……面白かった」 だが怖くても面白いものは面白いらしい。あやめはまた吹き出した。 「大丈夫や。構成が似てるだけで、危険とかはほとんど感じないようになってるから」 「本当? 絶対に本当? もう怖い思いしなくていいの?」 「どこまでへたれやの」 さすがにこうも怖がりではやりすぎているのかと思わなくもない。だが、自分は全然平気なのだから問題ないはずなのだ。 「それが終わったらまだ他にも似たようなのあるから」 「もう勘弁してよ……」 この打たれ弱い青年が、いざというときには勇気を振り絞って困難に立ち向かうのだから、人間というのは面白い。 「やっぱり和たん、かわええなあ」 あやめに言われるのは男としてどうかと。何しろ、あやめは超絶美人なのだから。 |
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| 2007年9月19日 (水) |
『秘密』(東野圭吾/文春文庫) |
『和たん和たん』 最近の彼女のお気に入りは、自分のニックネームを繰り返し二度言うことだ。いや、以前から結構そうだったか。あの館で、彼女の命を守ったときからそうだったような気がする。 「今日はどうしたの?」 『ちょっと聞きたいことがあってん』 電話先からかわいい声が聞こえてくる。和も彼女と話しているこの時間が大好きだ。 「なに?」 『もしウチが子供になったらどうする?』 なにその設定。 「ごめん、言ってることがよく分からないんだけど……」 『ウチが事故とかで死んで、ウチの魂が別の子供とかに乗り移ったとしたら、それでも和たんはウチのこと好きでいてくれる?』 「そりゃあ、どんな姿になってもあやめちゃんはあやめちゃんだけど」 子供、という言葉が気にかかる。 「何歳くらいを想定しているのかな?」 『十一歳』 「それはちょっと困るかな」 さすがに十一歳の女の子を相手に恋愛はできない。 『でもウチの意識は間違いなくそこにあるんやで?』 「さすがに僕が十一歳の子とつきあったら犯罪だよ」 『でも、好きでいてくれるん?』 「どんな姿になってもあやめちゃんが好きだよ。僕が好きになったのはあやめちゃんが美人だったからじゃない」 独特の話し方。そして一緒にいて落ち着ける雰囲気。もちろん美人であることは大きな要因だが、今となっては顔がどうこういう問題ではない。 『そっか』 「うん。って、また何か、ミステリ系の本でも読んだ?」 『うん』 「なんて本?」 『秘密』 そこで秘密はないだろう。和も苦笑する。 「そんなこと言わないで、教えてよ」 『だから、秘密』
──そんなやり取りがこのあと五分続いたとか。 |
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| 2007年8月28日 (火) |
『クラインの壺』(岡嶋二人/講談社文庫) |
「あれ、珍しい。何読んどるの?」 あやめからすっかりミステリーにはめられ、和もよく本を読むようになってきたが、それは和の私生活の話。人前で本を読んでいるところを見せない和に、珍しく遅れてやってきたあやめが尋ねる。 「今日は遅かったね。仕事?」 「そうや。変なところでNG出てな。ほとんど全部やり直し。しのぶもカンカンに怒ってたわ」 「あやめちゃんが?」 「ウチがNGなんて出すと思うん?」 なんという強気。 「で、話を戻すけど、何読んでるん?」 「岡嶋二人の、クラインの壺」 「へえ。和たんにしてはすごいの読んどるなぁ。自分で買ったん?」 「いや、姉が面白いからって、無理やり、押し付けて、いったんだ、けど……」 少しずつ和の言葉が小さくなっていく。 「すごいって、何が?」 「ウチ、それ読んだの小学生のときやねん」 すごくいい笑顔なんですけど、あやめさん。 「怖くて夜、眠られへんかった」 「うわあ……」 ぱたん、と小説を閉じる。もう二度とこの小説は開くまい。 「何しとんの。お姉さんがせっかく貸してくれはったんやろ。読まないとバチあたるで」 「でも! だって! 怖いんなら話は別だよ!」 「お姉さんも、和たんの性格熟知しとるなあ……」 最初に怖いと言ってしまえば和は読まない。だが、面白いからと言って渡せば和は素直に読む。怖いというのは伏せておくだけだから別に嘘をついているわけでもない。実際、この小説は面白い。 「もう七美はんは出てきた?」 「う、ちょうど出てきたところだけど」 「なるほどなあ。徐々に面白うなってくとこやね」 うぐ、とまた和が凹む。 「そうやって、僕をいじめて楽しい?」 「楽しい」 断言するあやめにがっくりと肩を落とす和。 「大丈夫やって。小説なんやし。『はじめのところから始めて、終わりにきたらやめればいい』んやから」 「何の話?」 「この小説。ほんに面白いのは保証する」 「うー……」 先ほど読んだところに栞を挟む。確かに面白くなって、続きが気になっていたところなのだ。 それこそこの小説は最初のうちは淡々と話が進む。だが、徐々に小説のスピードが上がって一気に読み込ませる。最初のうちに設定をきちんと知らしめてあるからこそできる芸当だ。正直、もうちょっと読みたい。 「ええの?」 「ま、小説はいつでも読めるし。でもあやめちゃんと一緒にいられる時間はあまり多くないから」 む、とあやめが顔をしかめる。こういう直球が弱いということを和はもう既に把握している。 「いややわあ」 あやめは自分の頭を和の肩に置く。 「好きなトコばっかりで、離れたくなくなるわ」 「僕だってそうだよ」 体重を乗せてきた彼女を抱きしめる。
──そんな現実が、もしも作られたものだとしたら? |
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| 2007年8月23日 (木) |
『謎001』(日本推理作家協会編/講談社文庫)より赤川次郎『双子の家』,日下圭介『緋色の記憶』 |
待ち合わせの場所に到着するとき、たいてい先についているのはあやめの方で、彼女は必ずといっていいほど本を読んでいる。和とて遅れてくるわけではない。愛しい彼女と一緒にいられるのだから、当然早い時間に出発する。たいていは30分前には着くのだが、彼女はそれより先に到着している。いったいどういうタイムスケジュールなのかと問い詰めたくなってくる。 「で、今日は何読んでたの?」 「読んでみる?」 と、渡してくれたのは『謎001』という短編集。有名作家の短編作品ばかり集めたものらしい。 「どれがオススメ?」 「日下さんの『緋色の記憶』。謎解きっていうよりもひとつの読み物として面白いの」 ぱらぱらとめくると、目的の小説の前の作品が目についた。 タイトルは『双子の家』。 「あ、双子が題材になってるのもあるんだ」 「それはオススメできへん」 聞くより早くあやめが答える。 「そうなの?」 「双子が題材ってことは、それをトリックに使うやろ」 それはまあ、そのための素材なわけだし。 「……兄弟同士で殺しあうなんて、最低やん」 なるほど、と納得した。確かにあやめと仲の良いしのぶくんが殺しあうなんて考えるだけで鳥肌が立つ。 「あやめちゃんはしのぶくんが大好きだもんね」 「そらもちろんや」 突然表情が崩れてブラコンモード全開になる。 「しーちゃんは私の自慢の弟やさかい」 「……ちょっと妬けるなあ」 「大丈夫」 するとあやめは小悪魔の笑みを見せた。 「しーちゃんも和たんのことが大好きやさかい」 「……喜んでいいのかな」 まあ確かにしのぶとも気が合うといえば合うし、気に入られて悪いことはないのだが、なんとなくその言葉に含みを感じてしまう。 「今度三人で一緒に遊びにいこ。なんならあのお兄さんも一緒でもええよ」 「考えておくよ。とにかく、そろそろ出発しようか。早くしないと映画が始まっちゃうから」 「そやね」 と、二人は立ち上がる。 もちろん本は、和のカバンに入ることになったが。 |
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| 2007年6月6日 (水) |
ドナルド・J・ソボル『2分間ミステリ』 |
「和たん、もんだーい」 あやめちゃんは今、僕の膝を枕にして小説を読んでいる。自称ミステリマニアのあやめちゃんが読むのはもちろんミステリ小説だ。ちなみに文庫の表紙を見てみると、ドナルド・J・ソボルの『2分間ミステリ』という本。 「はいはい。で、どんな問題?」 「やれやれ、乗せてもらえて助かりました」 突然あやめちゃんはその本の最初の一文を読み出す。さすがは演技派女優、口ぶりがそれっぽい。 簡単に話をまとめると、パトカーを運転していた保安官と、それをヒッチハイクした男の話らしい。男はナップザックからチョコレートを出して保安官に出したが、保安官はそれを断る。 「『誰かを追跡でもしているんですか?』『ついさっき、銀行が四人組の強盗に襲われてな。黒い大型セダンで逃走したんだ』『えっ? ほんの十分前に黒いセダンを見ましたよ』」 「十分前?」 ふと気になったので話を止めてしまう。するとあやめちゃんはじろっと睨んできた。話の腰を折るな、ということなのだろう。 「『それも四人の男が乗っていました。もう少しで轢かれるところでしたよ。一時間も待って、ようやく通りかかった車だったのに。でも、その車は左に曲がって西に向かいましたよ。北じゃなくて』そこまで男が言うと、保安官は車をUターンさせました」 「ってことは、今の話で保安官は何か気付いたってことだよね」 「『道路にかげろうが立ってるな。今日は日陰でも摂氏三十度近くはあるだろう』『そうでしょうね。あれ、曲がり角を過ぎましたよ。どこに向かっているんです?』『警察署さ』──さて、このやり取りから、保安官が何をどう考えたのか、答えなさい」 「その男の人が四人組の一人だったってことでしょ?」 「そうやけど、その理由」 「答が載ってるんだから、見ればいいじゃない」 「こういうのが解けないと悔しくて続きが読めへん」 「答、見てないんだ」 その辺りはさすがミステリマニアというべきか。 「で、答はどうなん?」 「それは分かるよ。だって、三十度もあるんでしょ?」 そうヒントを教えてあげると、十秒くらい経ってから「ああ」と気付いたようにあやめちゃんが言う。 「すごいわぁ」 「何が?」 「一回言っただけなのに分かるのがすごい言うてるの」 「うーん、でも、あやめちゃんも少し考えればできたと思うよ?」 「悔しいからもう一問」 「え?」 「ちなみに、全部で七十一問あるから」 「ちょっとっ!」 |
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| 2007年5月27日 (日) |
『すべてがFになる』(森博嗣/講談社文庫) |
普通、携帯電話の着信音は人によっていろいろと変えるものらしい。 和にとってはそうした面倒なことはしたくなかったのだが、静奈──もとい、あやめからの着信だけは変えるようにしていた。かかってくることが多くなったし、何よりすぐにあやめからの電話だと分かるのが嬉しい。 というわけで今日も電話がかかってくる。知らずと笑顔になって通話ボタンを押す。 『How are you?』 今日は英語ですか、あやめさん。 「やあ、あやめちゃん。こんにちは」 『I can't understand Japanese』 「いやいやいやいや、全然分かってる、分かってるから」 すると電話の向こうから『つまらへん』と返事が来る。 「今日も一日おつかれさま、あやめちゃん」 『おおきに。和たんもおつかれさん』 「ありがとう。今日の仕事はどうだったの?」 『そうやね、マカデミアンナッツよりはましやったわ』 は? 何を言われたのかが分からない。マカデミアンナッツと比べて何がどう『まし』なのだろうか。 『ジョークや』 「は?」 『意味のないジョークが流行ってるらしいの』 「どこで?」 『小説の中』 「さすがにそこまでは分からないよ、ごめん」 どうも例の一件以来、自分はミステリ小説マニアか何かと思われているようだが、決してそんなことはない。 『森博嗣の『すべてがFになる』って、知らへん?』 「あ、聞いたことある。プレステでゲームになってたよね」 『萌絵が萌える』 「は?」 『こっちの話。和たん、読んだことないん?』 「ごめん。ミステリとか、怖いのはちょっと」 『これも怖くあらへんよ。ゲーム貸したげるからやってみて』 「怖くない? ホントに?」 『……どこまでヘタレやの』 電話の向こうでため息が出る。それは仕方のないことだ。怖いものは怖いのだから。 「じゃあやってみるよ」 『よかった。じゃ、鞄の中見といてな』 「鞄?」 『こないだ一緒におったときに、仕込んどいたから』 「用意周到だね」 『すべてがFになる──その意味が途中で分かったら、ご馳走するわ』 「がんばるよ」 『ほな、まだ仕事の途中やさかい、また今度な』 「あ、うん。がんばって」 『ありがと』 ふふ、と耳に残るかすかな笑い。いつもの彼女の、人を虜にする声。 「あやめちゃん」 『なに?』 「大好き」 電話の向こうが急に音をなくす。 『……ずるいわ』 「え?」 『こんな不意打ちされたら、避けられへん』 うー、と唸る声が聞こえる。そんなに大変なことをしたつもりはないのだが。 『今度の休みにそっち行くから』 「分かった。楽しみにしてる」 『ほなまた』 そうして電話は切れた。照れた顔をしている彼女の顔が容易に浮かぶ。 (ちゃんと仕事になるといいけど) そんなふうに可愛いあやめが他の何にも代え難い。それほどに人を好きになれるということが何よりも嬉しかった。 |
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| 2007年5月18日 (金) |
『シャーロック・ホームズの回想』(2)(A・コナン・ドイル/ハヤカワ文庫) |
「和たんはミステリ小説とか読まへんの?」 過去の読書歴を思い返すが、あまりホラーなものは読まないような気がする。 「海外の作家のとかは少し。でもあんまり怖いのはちょっと……人が死んだりするのはいやだし」 「死ななかったらミステリにならへんやん。ヴァン・ダインの二十則くらい、知ってるやろ?」 「あー、うん。聞いたことはあるけど、でも別に僕が小説を書こうとしてるわけじゃないから。それにノックスもヴァン・ダインも読んだことはないよ」 ノックスもヴァン・ダインも、あの『館』にあった部屋の名前だ。ただ、あの部屋の名前は全て実在する有名なミステリー小説家の名前に由来している。 この二人の共通点は、いずれも『ミステリー小説では××をしてはならない』というルールを打ち出していることだ。それぞれノックスの十戒、ヴァン・ダインの二十則、という。このうちヴァン・ダインの二十則では『ミステリーには死体がなければならない』とはっきり明示されている。このジャンルは特に頭を使うのだが、読み手が面倒になって読み飛ばしをしやすい。だから興味を惹きつけるために必要なのだとか。 「アーサー・コナン・ドイルは?」 「シャーロック・ホームズかい? もちろん読んだことはあるけど、何作かだけだよ」 「じゃあ、あまり怖くない奴、教えたげる」 にっこりと笑うあやめ。何を企んでいるのか、その心の奥底が見えない。 「グロリア・スコット号事件。知っとる?」 「いや、全然」 「ホームズがワトスンに手紙を見せるんや。昔の事件の話やけど、その手紙を受け取った人は死ぬほどの恐怖を覚えたっていうんや」 「へえ」 「The supply of game for London is going steadily up. Head-keeper Hudson, we beleive, has been now told to receive all orders for fly-paper, and for preservation of your hen pheasant's life.」 「……何て言ったの?」 突然英語で話されても困る。全く意味が分からない。 「日本語にすると、『ロンドン向け猟鳥の供給は着実に増加しつつある。猟場主任ハドスンは、すでにハエトリ紙および貴下の雌雉の生命保護の注文を受けるよう命じられたはず』ちゅう意味。ちなみにハドスンってのは実際にこの話の中に出てくる登場人物の名前」 「何のことやらさっぱりだよ」 「ほな、これ」 いつの間にかあやめは手に持っていた紙を四つ折りにして和の胸ポケットに入れた。どうやらすらすら言葉が言えたのは暗記していたからではなく、その紙を見ながら言っていただけのようだ。 「考えてみてな。分かったらメールで答え送って」 「小説読まなくても分かるの?」 「まあ、手紙を受け取った人が何か悪いことしてたっていうのはヒント。ま、この英語の文の意味だけ答えられたらホンマ凄いわ」 「……あやめちゃん、僕を試してる?」 「まさか」 あやめはまた笑う。 「和たんなら多分、三分くらいで解けるやろ?」 それは信頼されているということだろうか。そんな信頼はつゆほどもいらないが。 「さて、そろそろ到着だね」 言うと、行く手にようやく本日の目的地が姿を現してきた。 動物園。 何故か突然行きたいと言い出したあやめのたっての希望の場所だった。 |
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| 2007年5月18日 (金) |
『シャーロック・ホームズの回想』(1)(A・コナン・ドイル/ハヤカワ文庫) |
晴れた日の休日、和はジャケットを上に一枚着込んで車で出かけた。小春日和の空の下、田舎道を自動車が心地よいエンジン音を出していく。 とはいえ、他に車がいようがいまいが、制限速度ぴったりで走るあたりが和の和たる由縁である。 もちろん待ち合わせの時間に遅れるようなヘマはしない。時間にゆとりを持って出てきている。このまま行けば、約束の時間より二十分は早く到着できるだろう。そうしたら読みかけの小説でも見ながら待っているのがいい。待つのは苦ではない。というか、ぼんやりと待っているのもそれはそれで心地よい。 姉からはまたからかわれた。まあ、休日の度にデートに出かけていればからかわれもする。今まで二十一年間、女の子と付き合ったためしがなかっただけに、姉はここぞとばかりにからかってくる。そういう自分も早く彼を作らないといい年なはずなのに。もちろんそんな自分の命を縮めるようなことは口が裂けても言うつもりはないが。 そうして和は目的地に到着する。田舎道を走った先についたのは、古びた駅。ここに彼女が到着するというので迎えに来たのだ。 (それにしても、もっと街中で待ち合わせてもいいのになあ) まあ、街中だと車を止める場所に困ったりもするので、その点は田舎駅の方が助かる。駅の周りは建物がまばらにあるくらいで、他には何も見当たらない。駅前に車を止めてのんびりと待っていられる。 彼女の乗る電車が到着するまであと二十分。 後部座席からリュックを取り、その中から小説を取り出そうとしたときだった。 突然運転席の扉が開く。 え、と思うより早く、そこに微笑をたたえた女の子の姿があった。 「和たん」 白のワンピースを着た彼女は、いつにもまして綺麗だった。 「あ、し、静奈ちゃん! と、到着はまだあと──」 「一本早く乗ったん」 「あ、そうだったんだ──って、それなら、連絡を入れてくれてもよかったのに!」 わたわたとあわてふためく和。だが、彼女は笑顔で首を振った。 「待つのも楽しいから」 ふふ、と笑う彼女は運転席の扉を閉め、反対側に回る。 「でも」 助手席に座った彼女は少し表情を翳らせる。 「あやめ、言うてほしかった」 「あ」 と、思わず間の抜けた声を上げる。静奈、というのは彼女の役名であって本名ではない。彼女はあやめ。峰塚あやめ。それが本名だ。 「あやめちゃん」 そう口にすると、目の前の少女はまるで別人のように笑顔を見せた。 「ほな、行こか」 和は、まるで魔法にかかったかのように頷くと、ゆっくりと車を発進させた。
あやめと付き合うようになってから、もう二ヶ月になる。 いつものように自分をからかうあやめ。でもそんな彼女が可愛くて愛しくて、結局あのときから付き合うようになっている。一日に一度だけメールを交換し、週に一度だけこうして会うようにしている。 あやめは二十歳だが、舞台で活躍するプロの俳優だ。時にはテレビの仕事もある。完全にマネージャーとなった『弟』がその辺りをうまくさばいているらしいが、彼女にしてみると演劇はそこまで本気でやっているわけではないらしい。 「これしか才能なかったし」 などということを本気で言う。彼女は自分が何に向いているのか、よく分かっている。だから演劇の仕事をしている。そういうことだ。 「ただなあ、最近は和たんの助手もいいかな、思うてん」 「助手って、何の」 「決まっとるやん。探偵の」 「あのさ、静奈ちゃん」 「あやめ」 「あやめちゃん」 むっ、と膨れた彼女に少し苦笑する。 「分かってるだろ。僕にそんなのは似合わないよ」 「確かに和たんには似合わへん」 あやめは嬉しそうに笑う。 「なら、ウチに俳優が似合う、思うん?」 言われてみると全く似合わない。それなのに舞台に立つと完全に変身するから不思議だ。 「似合う、似合わないの問題じゃなくて、その才能があるかないかの話やわ」 「でも、僕はもう怖いのはこりごりだよ」 あやめはそんな和を優しい目で見る。 「和たんの優しさも強さも、ウチもしぃちゃんもよう分かっとる。怖いのはしゃあないけど、和たんはそうゆうのに巻き込まれる運命やさかい」 「そんな運命はやだよっ!」 運転しながら全力で叫ぶ。くすくすと笑うあやめは鬼か悪魔か。 |
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