桃蹊記

桃李不言下自成蹊 八卦拳/八卦掌/太極拳/合気之術

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2008年6月30日(月)

内三合について

内三合とは「心意の合、意気の合、気と力の合」をいうものである。八卦拳では単換掌式において「気と力の合一」を練る。次に双換掌式では「技と気の合一」を練る。これはいうならば「意(技)と気の合」とすることができる。

詳しくは述べないが、八卦拳の八母掌式は、この内外の三合を軸に考えられているものなのである。三番目の蛇形掌式は「伸縮」を練るものであるし、四番目の扣掌式は「指功」を練るものである。これらは「心の合」を練るものである。単換掌式から扣掌式まで進んで八卦拳の内三合は一応の完成を見る。

ただ「伸縮」も「指功」も全ては、単換掌式、双換掌式の内功がベースになっていることは言うまでもない。あらゆる八卦門で単換掌、双換掌の名称が残っているのは、この二つの掌式が極めて重要であるからに他ならない。しかし、殆どの八卦掌諸派においては単換掌、双換掌の真の意味が伝えられてはいないようである。

作成者 両儀老人

2008年6月29日(日)

「外三合」に就いて

一般に「外三合」とは「肩胯の合、肘膝の合、手足の合」をいうものとされる。「合」とは「協調」という意味である。

それは、そうなのであるが、外三合で重要なことは「肩ー肘ー手(首)」と「胯ー膝ー足(首)」である。太極拳では、これらが充分に無駄な力が入っていない状態(ショウ)になっていなければならない。

先ずは套路で肩から肘、手(首)へのショウを得る。また胯から膝、足(首)のショウを得る。ある程度、これに習熟したら推手において、これを確認する。相手が居ると、人は往々にして緊張してしまうものであるが、それでもショウが失われないように練る。

套路は肉体を主とした稽古であるが、推手は精神を主とした稽古となる。推手を経ることで心、意、気、力ははとつのものとなる。

作成者 両儀老人

2008年6月28日(土)

天津祝詞

大祓詞には「天津祝詞(あまつのりと)の太祝詞言(ふとのりとごと)を宣(の)れ」とあり、「かく宣らば」と続いて、それを受けている。普通に読めば「天津祝詞」なるものが唱えられて、そうすれば祓いがなされる、理解される。

しかし、わたしは「天津祝詞」とは、大祓詞の前半であると考えている。前半はおそらくは大和朝廷で行なわれていた大祓であろうと思われる。そして後半は大和朝廷とは別の神話を持つ集団において行なわれていた大祓であると考える。

こうした二つの系統を有する大祓が、ひとつにまとめられたために分かりにくくなったのではなかろうか。前半では天皇が祝詞を読むことで統治権が確認され、それによって世の罪穢が祓われるとするのである。後半は自然の浄化の働きを象徴的に述べている。

言うならば大祓詞の前半は「天津祝詞」であり、後半は「国津祝詞」であるとすることができよう。大祓詞に見られる混乱は、二つの系統の祝詞をひとつにして「天津祝詞」「国津祝詞」が二つそろう完全な祭祀の形を模索したのであるが、その編集が充分でなかったところに由来すると思われるのである。

作成者 両儀老人

2008年6月27日(金)

大黒天奉賛会

講義「大祓詞について」
実習 人形による祓い
〈大黒天経、真言〉

古代においては個人の罪と、社会や自然の穢とは、同じものと考えられていた。罪は穢であり、穢は罪であると見なされていたのである。「大祓詞」には、この世が乱れるのは食糧問題(天つ罪)、性の乱れ、(エイズなどの)特殊な病気、自然災害、モラルの低下(国つ罪)が現れると説かれている。まさに現代社会をそのまま示したような内容になっている。こうした罪・穢は、全て人が霊的に覚醒することで解消されるとするのである。人の霊的覚醒によって、社会問題は勿論、病気や自然災害などもそれが起こらなくなると説くのである。

追記 6月30日 皆さんの人形は無事、川に流されました。

作成者 両儀老人

2008年6月26日(木)

陸西星の『老子玄覧』を読む(5−9)

中を守り、中と一体で居る。
終わりがあるようで、決して終わることはない。
虚・空を打ち捨てて、
何を得ようとするのか。

○第五章の解説の終わりにある詩である。

○ここに示されている「中」の概念は、神道における「なかいま」と似ているようにも思われる。「なかいま」とは、永遠なる過去と、永遠なる未来のひと続きの中に「いま」がある、という考え方である。こうした考え方は先祖と子孫の間に自分が居る、とする「自分」なる存在の位置関係が基本としてある。

○神道の「なかいま」が、いうならば「実」の世界を背景としているのに対して、老子では連続する時間の流れを「虚」「空」を背景として考える。そこにおいては「中」という立ち位置そのものが消えてしまうことになるのである。

○陸西星は、人はあらゆるものと関係を持っているが、それに捉われるのも正しくはない、とするわけである。関係を絶つことは正しい姿ではない。人はいろいろなものとの関係性の中にしか存在し得ない。しかし、それに捉われてしまうと、本来の姿を見失ってしまうことにもなるのである。

作成者 両儀老人

2008年6月25日(水)

太極拳における「精、気、神」

これは太極拳以外の武術でも可能であるが、精、気、神のレベルで套路を練ることができる。

「精」は通常の套路の練習である。これは肉体を主に練ることができる。

「気」は坐った状態などで、軽く腕などを動かして練る方法である。これは気を重点的に練ることができる。

「神」は全くイメージの中で套路を練る方法である。これは呼吸(神)を重点的に練ることができる。

本来の太極拳の練習は、こうした精、気、神が等しく練られなければならない。動きの練習で、動作だけを行なっているのでは何時までたっても本当の太極拳の醍醐味を知ることはできないであろう。

また套路は、精、気、神を同時に練ることのできるものでなければならない。その意味において二十四式や四十八式などは全く使えない。数十年後には淘汰されて姿を消していることであろう。

作成者 両儀老人

2008年6月24日(火)

陸西星の『老子玄覧』を読む(5−8)

次に「玄牝」とあるが、それはここで言う「フイゴ」と同じである。フイゴの働きがあるので「性」は「命」を立てることができる。「命」は「性」によって存在することが可能となるのである。無欲であれば妙を知ることが出来る。これが「中」ということである。偏ることなく、仮のものを用いることもない。そうすれば自然と「中」と一体になれるのである。

○次の『老子』第六章に「玄牝」の語が出てくる。これは「天地の根」であるとある。また、綿綿として存しているか、いないか分からないようである、ともされている。

○つまり「玄牝」とは呼吸のことなのである。それをここでは「フイゴ」としているわけである。

○「性(精神)」と「命(肉体)」をつなぐのが呼吸である。天地にあっては先天と後天を結ぶものとすることができようか。

○天地の呼吸は「大祓詞」では、気吹戸主の神として出てくる。世のあらゆる罪穢を祓うものとされている。罪穢はどこから生まれるのか? それは天地の呼吸の乱れにより生まれるのである。呼吸を調えれば、罪や穢はそのまま消えてしまう。

○人にあっても、正しい呼吸をしていれば、心身はあるべき適当な状態に保たれる。これが中庸を体得している状態であり、中和の気の働いている状態なのである。

作成者 両儀老人

2008年6月23日(月)

陸西星の『老子玄覧』を読む(5−7)

造化も、その働きが止む時がある。これが道というものである。これは言葉をして説明することは出来ない。体得する他あるまい。道とは多くの人の考えるようなものではない。これを言葉で説明しようとするならば、千言万言を費やしても充分に説明することは出来ないであろう。道を感得して、常に道と一体となる。虚であり、静である。ここに道は体得される。

○造化と死滅、生成と破壊があるのが「道」の姿である。「動」もあれば、「静」もある。ただ自然の中で「静」を見出すことは容易ではない。自然の全ては動き、変化しているからである。

○自然の中の「静」は、これを感得するほか無い。ある特殊な意識状態に入った時に、自然はその動きを止めたように感じられる。自然の静寂に包まれた感じが得られるのである。

○道とは二点を結ぶプロセスのことである。あらゆる運動は、こうした二点を結ぶ働きによって成り立っている。全ては、道によって成り立っているわけである。

○後天の運動においては「如何に合理的に二点を結ぶのか」が、課題となる。それで最も合理的とされる動きを反復して練習するわけである。太極拳や八卦拳では「道」は後天(実)と、先天(虚)を結ぶものと考える。そうであるから所謂「反復練習」は意味のないものとなる。

○「虚」の一点は、それを確定することができない。そうであるなら二点を結ぶことができないので、太極拳や八卦拳では、道を得ることが出来なくなるのであろうか? そうではない。太極拳や八卦拳、合気道では「結び」の力を養うのである。そうすることによって始めて後天(実)と、先天(虚)が結ばれるのである。

○結び合う二点を予め確定しておくのが、通常の言われているところの道であるが、老子は二点が確定されない道こそが本当の道であると教えているのである。

作成者 両儀老人

2008年6月22日(日)

大黒天と霊学研究

霊学研究とは、感性の探求でもある。自由な感性を獲得しようとするところに霊学探求の意義がある。

宗教は「感性の自由」を得る「一つの道」をそれぞれが示している。この意味において、宗教は霊学の一部であるということができるであろう。人は初めから自由であると、どうしてよいのか戸惑ってしまうものである。宗教では一定の枠組みを提示することで、教義や組織といった枠組みを認めるにしても、否定するにしても、一定の方向性を、霊学探求者に持たしめる構造を持っている。

大黒天の信仰を霊学探求の方法に選んでいるのは、ひとつには大黒天の信仰がひじょうに普遍的に存している(いた)ことがある。日本の旧家には必ずといって良いほど、大黒天の像が祭られていたものである。

また大黒天はインドに生まれ、中央アジアで変化をし、中国では余り信仰されずに、日本で大きく広まった。こうした広い地域の信仰との係わりをも含めて探求できるところも、霊学探求のために大黒天という尊格は有効である。

こうした中で大黒天は、神道(大国主)とも関係を持つ。大黒天の霊学的探求はインド、中央アジア、中国、日本といった、ひじょうに広い地域をカバーするものなのである。

作成者 両儀老人

2008年6月21日(土)

高尾山登拝

ミシュランの三ツ星が報道されてから高尾山に来る人が格段に増えたようである。山のあちこちでは秋の行楽シーズンに向けてであろう整備が進んでいる。

安易に歩いて登ろうとする人の中には後悔する人も少ないないであろう。最後の急坂あたりでは、死にそうな形相になっている人もよく見かける。また赤ちゃんを抱いた夫婦など、いつ事故が起こっても不思議ではない人達もいる。

写真は整備が進む山の道

作成者 両儀老人

2008年6月20日(金)

陸西星の『老子玄覧』を読む(5−6)

「動」とは、仁の働きが顕著になることである。仁は絶えることなく出現し、終わることがない。盛んに働き、尽きることがないが、その様子を見ることはできないし、どうして仁が生み出されるのかも分からない。それは天地の生成の働きが、我々の知ることのできない先天の世界でなされるからである。生成は自ずからなされ、天地に何らかの意図が存することはない。あらゆる物を慈しむのが仁である。

○陸西星は「仁」は、意図的に考え出された概念ではなく、天地に本来、存している「働き」であるとする。そうであるから人は、その本来の心身の状態を回復することで、自ずからその心にも、行為にも「仁」が保たれるのである。

○墨子はこれを「愛(兼愛)」とした。霊的な存在である鬼神も、こうした天地の働きに応じて動くとする。

○そうであるなら「仁」を体得すれば、霊的な存在も自ずから自らを助けてくれるものとなることになる。呪法が利くのは限られた範囲に過ぎない。本当に霊的な力を使おうとするのであれば、「仁」や「愛(兼愛)」を体得する必要がある。

○天地の「動」の働きが「仁」であるなら、「静」は「殺」とすることもできようか。「殺」の方から、天地の働きを説いたのが『陰符経』である。

作成者 両儀老人

2008年6月19日(木)

穴守稲荷(続)

江戸時代の穴守稲荷は、田舎の小社に過ぎなかった。それが近代になって周囲の街の発展と共に盛んに信仰されるようになった。

そこで気になったのが古地図などに「築山」とあるところである。築山とあるからには、人工的な山なのであろうが、いうならば、この山が霊的なスポットとして穴守稲荷の霊的中心となっていたようなのである。

これは龍穴にうまく築山が当って、龍脈が活性化されたということになろう。その霊力の名残が鳥居に象徴される形で残っていたのである。

風水はそれが人為的に変化させられても、急に霊的な力が消え去ることはない。築山が崩されて半世紀も後になって、やっと築山の霊力は薄れ、鳥居も移転されることになるのである。

写真は穴守稲荷の霊狐塚

作成者 両儀老人

2008年6月18日(水)

太極拳練習における「套路」と「推手」

健康法であるからと言って、太極拳の套路だけを行い、推手をしない人達も居る。しかし、これでは太極拳を正しく理解することはできない。

推手は単なる「押し合い」ではない。基本的には套路における身法を会得するための手段なのである。套路における身法を抽出したのが推手であり、攻防はそれが正しく行なわれているのかをテストするものに他ならない。

そうであるから推手を用いての攻防は、必ずしもこれを行なわなくても構わない。推手においてあくまで重要なのは、太極拳における身法を会得することにあるからである。

套路も、これを通して太極拳の身法を会得するために存している。目的とするところは推手と同じなのである。套路、推手と「身法」を二つの側面から見ることで、より正確に、速く身法を会得することができるであろう。

作成者 両儀老人

2008年6月17日(火)

「礼」と「そうじ」

武道では「礼」が重視される。

料理人などの修業では、初めは「そうじ」ばかりやらせるところもあるようである。初めは技術を教えることなく「そうじ」ばかりをやらせるのは不合理のようにも思われる。

この意味するところとは「微細な感覚」にある。細かなところにまで注意が行き届くような「微細な感覚」を持っている人であれば、技術を教えてもそれを活かすことができるが、そうでなければ技術の面でも大成することは望めない。

「そうじ」を課することは、その後、何年も後になって分かる技術の完成を見ない人物であるか否かを早い段階で判別するための方法なのである。

武術における「礼」も同じである。「礼」とは「相手の内面の動き(気)を把握する」ことの上に成り立つ。相手の細かな心の動きを把握できなければ、実戦で武道の技術を活かすことはできない。

作成者 両儀老人

2008年6月16日(月)

太極拳、蟷螂拳、八卦拳の「釣手」

太極拳、八卦拳、蟷螂拳の「釣手」を比較することで、それぞれの拳の特色が見えてくる。

大きな違いは、太極拳や蟷螂拳(蟷螂手)が、手首を曲げるのに対して、八卦拳は手首を伸ばす点である。

これは力のポイントが手首にあるのか、指にあるのか、の違いである。太極拳は力のポイントが手首にある。指に力を入れることはない。古い套路では指を開いた形の単鞭もある。

蟷螂拳では、太極拳よりも指の勁を積極的に使うが、それは手首の使い方を適切にあるべきように導くためであり、ポイントはあくまで手首にある。そうであるから三本の指をひとつにする派もあれば、二指であったり、指を開いたりする派もある。

八卦拳で手首が伸びるのは、指功が得られた結果である。指功で指が、その関節ごとに分けて勁が使えるようになると手首は適切な形となる。

作成者 両儀老人
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