2008年6月30日(月)
『吾輩は猫である』新潮文庫
夏目漱石 著 新潮社(平成3年11月20日63刷)
日本文学史に名高い名著。誰もが1度は目にしたり耳にしたりしたことがある名作。まさかオイラがこれを読むとは思わなかった。今月の始め頃にブックオフで発見し、買った。105円。以前、『こころ』を読んでなかなか面白かったこともあり、そして、知人の女性が「結末に意外な展開が待っている」という謎を残したこともあって、買ってしまった。そして本日ようやく読了。途中で石田衣良の本などを読んだこともあってしばしば中断し、結局10日以上かかった。
中学教師苦沙弥先生の書斎に集まる明治の俗物紳士達の語る珍談・奇譚、小事件の数かずを、先生の家に迷いこんで飼われている猫の眼から風刺的に描いた、漱石最初の長編小説。江戸落語の笑いの文体と、英国の男性社交界の皮肉な雰囲気と、漱石の英文学の教養とが渾然一体となり、作者の饒舌の才能が遺憾なく発揮された、痛烈・愉快な文明批評の古典的快作である。
正直な感想。
…ダラダラだらだらと、話が一向に進まんのでダルかった。こ、これが日本を代表する名作なのか。
どうせオイラは文学の良さを理解する感性に疎いのさ…。登場人物が雑談に雑談を重ね、話の本題からずれまくって、結局何が何だか分からんうちに場面が変わっていて、読んでいて非常に苦痛だった。「冗長」という言葉が浮かんだ(あ、「冗長」か…まるでオイラの日記のようだ…墓穴掘ったかも)。
でも、そんな中にも、いくらかのユーモアは感じ取ることができた。猫の主人は大変な変わり者で、その家に遊びに来る友人達もみんな個性的。そしてみんなよってたかって主人をけなしたりからかったりして楽しんでいる。そのやりとりが結構面白かったりする。ただ、当時の風潮をよく知っていないと、イマイチその掛け合いの「空気」が読みにくい。
そしてこれを読んでいて、オイラの中である疑問が湧いた。ひょっとしたら、三谷幸喜も夏目漱石が好きかもしれない、と。話が横にそれたり、他人のおかしな所を大げさな言葉を用いて表現したりしているところが、三谷幸喜の映画や、彼のエッセイに近い物を感じたからだ。あと、京極夏彦の京極堂シリーズに出てくる関口君や、その他京極堂に集まる人物がからかわれたりするシーンなども、本書の中でのやりとりから思い出す。
あとは、「猫」の目を通した鋭い人間観察なども、風刺が込められているように感じた。ものっすごい冷めた猫だけど、それでも猫なりに主人に対して恩を感じているらしいが、それでもやっぱり主人をこき下ろしている。それも面白い。
本書は、話の展開を期待して読んではいけないのかな?まあそれなりに感ずる所はあった。読んでムダだった、という気はない。さてさて、知人にはなんて言おう。「いや〜、つまらんかったよ!」っていえばきっと気を悪くするだろうし、かといって「いや〜、深いね、さすがは夏目漱石だよ」ってもっともらしくいうのもうそ臭い。だってオイラが何より納得がいかなかったのは、例の結末だったから。
最後になってたたみかけるように一気に本書の柱ともなり得る、ある金持ちの女性との結婚話を多少無茶な展開でまとめ上げたのはまあ良い。そして主人の友人一同が勢ぞろいして、人間の生死を熱く議論するのも面白い。この辺に、オイラはある種ジメッとしたユーモアというか、自殺に向かうこの時代の作家の意識をちょっと感じ取れたのも良かった。ここでオイラはてっきり主人が自殺して終わるのかと思ったら、そういう意味では意外な展開が待っていて(ここから先はネタバレ…でもいいか、新作のミステリー小説でもないし)、主人の友人達が飲み残したビールを、猫が飲んで酔っ払って水が溜まった甕に落ち、そのまま溺死しておしまい、というもの。もがいているから苦しいのであって、自ら拷問にかかっているようなものだ、と悟り、「『もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙るよ』と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支(さしつか)えはない。ただ楽である。否(いな)楽そのものすらも感じ得ない。日月(じつげつ)を切り落し、天地を粉韲(ふんせい)して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」といって終わっている。
うむう…何かかなり強引に締めくくっている感がぬぐえない。しかしまあ、逆に新鮮で良いかもしれないかな。今改めてここで感想を書いていたら、さほどつまらなくもないかな、という気になってきた(苦笑)。


