Wed, Jun 16, 2010
徹底した神の召し
私たち夫婦は逃れの街ミニストリーという働きに召されている。
目に見える達成感ではなしに、
人の痛みに寄り添うように遣わされている。
これは僕らの思いではない。
僕らには人を自分より思う愛なんてない。
神様の愛がどうしても必要とする。
でも確かに神様は私たち夫婦をこの働きに召していることを日々体験する。
今日もしかり。
引きこもりの娘を持つ姉妹。
親との関係に悩む姉妹。
いろんな思いを持つ私たちが、
聖書の御言葉によって引き上げられる。
解決ではなく、
呻きのあるところに
今日も十字架が立つ奇跡を神様から見せて頂いた。
霊のキリストだけではどうしていけないのか?
今日は千葉ホライズンチャペルの聖書研究会の日。
川越から約三時間の道のりのお供に選んだのは、
『apostlic fathers』
今日は教会の教理や信条をつくりあげた教父たちの教えを
学びながら朝の一時を過ごしています。
なぜ、霊のキリストだけではいけないのか?
教父たちは当時の異端的教えに立ち向かうために信条を作りました。
当時は霊のキリストが強調された異端がありました。
キリストは霊。
自分を強めてくれる霊。
霊を訓練して受ければ何でもできる。
そんな考えがありました。
いつの時代も自己達成が流行ります。
キリストを自己の思いの達成のために手引き書みたいに思う。
これは間違った教えです。
でも僕らも一歩間違えば同じように考えがちです。
教父たちはそんな異端の教えに立ち向かいました。
どんな手を使ったんでしょうか?
それは、キリストは神であり人であるという教えを徹底して解きました。
キリストは人生の模範としてだけあるのではない。
キリストは創造者であり、
キリストは人として僕らに愛を身をもって伝えた人でもある。
今日の聖書研究会の聖書箇所はコロサイ書二章。
キリストの神性がでてくる。
ちょうどキリストの神性を帰納的に学ぼうとしていたところでした。
今日、神様が私たちに語られることを聞けるように。
奉仕が守られるようにお祈りください。

