逃れの街ミニストリーのブログへようこそ。     『中村家のほそぼそ日記』

ここでは、頑張っている人がたまには現実から逃れて、すこしでも元気になれる話しができればいいなと思っています。
  音楽や聖書の話し、育児日記など盛りだくさんです。よろしく。

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Sat, Dec 24, 2011

暗闇の中に輝く一点の光を迎える。

今日は町田カルバリー家の教会で

クリスマスコンサートがありました。

とても家庭的なあったかい教会でした。

みなさんと交われて感謝でした。

帰ってきてから明日の準備をして、

みんなでnativity storyを見ました。

マリアとヨセフがたくさんの困難を

乗り越えてベツレヘムに着き、

そしてイエス様を迎える。

ほんとうに一番低いところに

お生まれになられたイエス様。

その愛を生まれる前から聖霊を通して

まわりに伝えておられた。

エリザベツがいなかったら、

マリアは乗り切れなかっただろうし、

信じていくことも大変だったろう。

ヨセフがいなかったら、

よりそう人がいなかったら

それは実現しなかっただろう。

お父さんとお母さんからも

町の人からもどう信頼を受けていったか。。。

一つ一つに導きがあった。

私達の罪のために。

人となられた。


主のご降誕をお祝いします。



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作成者 逃れの街ミニストリー : Sat, Dec 24, 2011 22:49

Wed, Dec 21, 2011

クリスマスコンサート in 町田カルバリー家の教会

今週の土曜日、

クリスマスイブの日に

町田でクリスマスコンサートをします。

場所は町田カルバリー家の教会です。

入場無料ですのでお時間のある方は是非。

町田カルバリー家の教会の大塚先生とは

去年のクリスマスコンサートのときに

お会いしました。

丁度、先生が小さないのちを守る会から

養子を授かるところでした。

コンサートに来て下さり、

お交わりを持ちました。

今回はご紹介を受けて先生の教会にて

コンサートをさせていただくことに

なりました。

朝10時からです。

今回は家族でお伺いしようと

思っています。

25日は教会のクリスマス。

27日は上野公園ホームレス伝道、

その後は学院教会のユースキャンプ。

以上で今年は終わります。

いつも主と共に歩めますように祈りつつ。

寒くなってきましたので

みなさまも健康に気をつけて

お過ごしください。

今年も大変お世話になりました。

また来年もよろしくお願いします。

主にあって

逃れの街ミニストリー代表 中村穣

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作成者 逃れの街ミニストリー : Wed, Dec 21, 2011 15:48

Tue, Dec 20, 2011

わたしはあなたを愛しているという事実を受けるために

昨日はとても感謝なクリスマスのときを

朝霞台集会に集うみんなと過ごすことができました。

僕にとってはhi-b.a.に繋がれて

本当に感謝だった。

えりや君のお葬式にいけなかったから

でも、これからもずっとお互いに

祈りあったところで自分が生きていけるようにと

祈っている。

その先に朝霞台集会があって、

友人の雅也さんがいて感謝だった。

昨日はクリスマス。

街のイルミネーションや着飾る店に

いやけを覚えながらも、

主人公のいないお祝いに踊らされないようにと

自分をいつも主への思いに向けていた。

そんな中、主を慕う高校生たちと集まり、

共に賛美をし、

そこにえりや君が思いをもっていたあなたがいて、

そしてその思いに生きようとする私たちがいる。

なんだか涙がでてきて、歌えんかった。

僕の中では、もうしわけないけど、

クリスマス集会の名のえりや君へのお葬式だった。

でも、そこに同じ風が吹いていることを体験した。

僕の背中を押し出す聖霊の風と

えりや君の信仰が同じようにあった。

私がだれかの喜びになれるように。

そこにあつまる高校生たちが輝いて見えた。

今からいろいろあるだろう。

今もいろんな葛藤の中に生きているんだろう。

でもね、

そこにえりや君もいる。

イエス様がそこにいるんだと

大声で叫びそうになった。

涙を流し、

わたしを信頼してほしいと

わたしを見て欲しいと

わたしがあなたの希望であると

教えてくれているイエス様が

そこにいるんだよと。

雅也さんが言った。

愛されているということは

あなたが気に留められているということ。

本当にそうだ。

イエス様はみんなを、

僕を気に留められている。

愛がそこにある。

その愛の中で生きる私たちは

どんなクリスマスプレゼントをもらうだろう。

それは私を痛みのあるところへ

私を送り出す導きと言うプレゼントだろう。

キリストの光となるために。

メリークリスマス。


またみんなと賛美したいです〜。
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作成者 逃れの街ミニストリー : Tue, Dec 20, 2011 12:25

Mon, Dec 19, 2011

次の世代のキリスト者に残すもの。

今日は今からhi-b.a.の朝霞台集会の

クリスマス会があります。

雅也先生がお声をかけてくださまして

コンサートをしにいきます。

とても楽しみなんだけど、

複雑な思いもずっとあったりして。



実は、一番私の中で難しいクリスマス時期の

コンサート。

街は確かに華やかで、きらびやか。

クリスマスソングにあわせて

聖歌も街中から流れている。

喜びに満ち溢れている街。


でも、何かが違う。

『受けるよりも与えるほうが幸いである。』

街にあるクリスマスは受けるものばかり。

でも、本当のクリスマスは

『与える』のためのクリスマス。

父なる神様が大切な大切なひとり子を

この地上に贈られた日。

人につばきをかけられ、むち打たれ

最後にはみんなから裏切られ

一人で十字架に向かうことを

人類の罪を背負うことを

大切な愛するひとり子が

その人生を歩むことを良しとされた日。

そこにある喜びは痛みがあって生まれた。

それをどうしてただ喜べよう。

イエス様が私たちが負うべき痛みを

負ってくださったのだから

私たちは今は新しい者として喜べばいいと

どうしてかるがるしく言えよう。

クリスマスのプレゼントは重い。

綺麗なラップに包まれるような

軽いものではない。

どこまでいっても罪深い私のために

いのちをかけてくださった

キリストの愛がそこにある。


このプレゼントを今日は次の世代に

生きる勇者たちに贈りたいと思った。

どうやって伝えようかと思ってずっと

最近過ごしてきました。

そこには不安しかなかった。

僕にはできることがない。

歌もギターも全ては神様からの

さずかりもので自信なんてものはない。

でも、今日やろうと思っていた歌を

歌っている時に涙がでた。

キリストの愛にふれた。

僕の中にはないもの。

だからクリスマスがあるんだと

分かったときに深くキリストの愛を感じた。

今日はベツレヘムに光り輝いた

その光を伝えるために

もう一度ギターを持って歌おう。

代々聖書の言葉を書いてきた書記たちは

理解するために何かを加えることはしないで、

そのままを書き写してきた。

僕もわかりやすくではなく、

そのままを歌おうと思う。

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作成者 逃れの街ミニストリー : Mon, Dec 19, 2011 12:02

Thu, Dec 15, 2011

"enjoy the journey because God is good"という告白。

この震災によって神様が巡り合わせて下さった

主の器、Thomas Davis先生の教会、

アンバサダーキリスト教会で礼拝をしました。

先生に初めて会った時に

この教会がどのように建てられたのかを

聞きました。

先生方は日本の地図を前に祈ったそうです。

そして主が指示した場所がいわきだったそうです。

それだけを信じ、家族みんなでこの地に来たそうです。

誰も知らない土地で頼るものもなく、

ただ主を信頼してきた証を聞いて感動しました。

私達もアメリカで明日どういきるか分からない

状況の中で学んできました。

時には車もなくなり、電気もなくなり、

最後には住むところまでもとられる経験を

してきました。

ただ主を信じるしかない状況がどれだけ

大変かを体験してきましたので、

先生方のご苦労が心にしみました。

震災後、地元での仕事をなくされ、

教会員の方々もそれぞれの事情で

ゼロになってしまったそうです。

時にはもうここではないのかと

思ったこともあったそうですが、

主からの導きをもう一度頂き、

ここから新しく始めようと

決心をされているところでした。

そんなときにデイビス先生が

第一としていたのは、

有効的な宣教方法でもなく、

能率の良い手法でもなく、

聖霊の導きと礼拝でした。

そのことをブログに書かれているのを

見た時に主が私に語りかけて下さいました。

Down to Worshipのみんなで楽器を置き、

ただ礼拝を受けることをしていました。

そして同時に主に導きを求め祈っていました。

私達にはわかりませんでした。

どうして、賛美を伝道の一環としてではなく、

賛美を若者が集まる良い手法として用いるのではなく、

賛美を自分の賛美の仕方として集会をするのではなく、

ただ、賛美を主のためにあるものとすることを

目的とする必要があるのかを。

でも、このとき主が答えを下さいました。

私達、Down to Worshipは3年間それをしてきました。

受けることをしてきました。

神様を神様として礼拝する賛美を目的としてきました。

それを共有する仲間を与えて下さいました。

これは私達から始まったことではありません。

全ては主です。

いわきの地で先生方の思いと共に

沢山の痛みがある場所で神様を神様として

賛美、礼拝を捧げました。

涙なく賛美ができませんでした。

痛みを持って主の前にみなで出ました。

そこには主がおられました。

揺るがない希望である主がおられました。

先生が言いました。

どこへ行くかは分からない。

でも問題はどこへ行くかではない。

どこへいくかわからないこの道を

楽しむことだ。

なぜなら、そこに主がおられるから。

そこに主がおられる、

主と共にいることができる

主の愛の中で生かされていることを知ることができるから。

先生のその言葉は私の魂を揺り動かしました。

先生は主にあって全てを良しとされていました。

それは主が希望であり、主が人を導き、

主がことをなして下さるということを

信じている信仰がそこにありました。

それをこの痛みのあるいわきの地で言える

先生の信仰は素晴らしいと思いました。

そこは聖なる場所でした。

愛の溢れる、人を遣わす力がそこにありました。

私達の祈りが『助けてください』ではなく、

『主よ。私を遣わして下さい。』という

祈りに変っていく経験をしました。

またお伺いすることを約束して帰りました。

いわきの地で主を礼拝する大切さを

教わった気がしました。

Down to Worshipとして主が導いてくださった道を

これからも歩み続けていきたいと思います。

それがどうしてかはわからない。

ただこの道を主が真実で良き方であるという

ことにより、信仰をもって進んでいきたいと思います。


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作成者 逃れの街ミニストリー : Thu, Dec 15, 2011 12:48

Wed, Dec 14, 2011

いわきに賛美を!力を!主の栄光を!〜小名浜ジーザスお父さんの家

主の導きによってDown to Worshipのみんなで

いわきに賛美を捧げに行ってきました。

全てにおいて主のときだったと

言わずにはいられないほどの

恵みを受けてきました。

できることをしてもそこからは愛は生れない。

厳しい言い方かもしれないけれども、

主の導きを待ち、持っている楽器を置いた仲間で

今、主にもう一度楽器を渡されて向かいました。

何のためだろう。。

どうして今、賛美なのか。。

ボランティアをする手でもある手を

主に捧げる意味を探りながら行きました。

行く前にも試練があった。

神様が祝福を手渡された瞬間とでも言おうか。。

なんと当日リーダーがいけなくなってしまった。

でも、それをカバーするかのように

リーダーの夫がリーダーである奥様の分の重荷を

一人で背負いやってきた。

いつもボーっとしてる夫だから

何も言わなくてもわかる。

Down to Worshipはいつも痛みがあるところに

導かれる。

今回もそうだった。

まずは、内側から主はそれを起こされた。

一番に重荷があるであろう器を取られた。

でも、それをかばい合う新しい器が作られた。

それだけで涙が出た。

金曜の夜は小名浜にあるジーザスお父さんの家で

礼拝をした。

みんなで神様を神様として賛美を捧げた。

岑先生がおっしゃった。

今いわきに必要なのは消えない、確かな希望なんですと。

もしかしたら、神様が神を賛美するために与えてくれている歌を

人を励ますために使っていたのかもしれないと感じた。

賛美は神様を神様とする賛美である。

それは全ての希望をこの地上ではなく、

神様に置くことなんだ。

確かに街は回復してきている。

でも、そこには多くの痛みもあることを伺った。

それらは、目に見えるものではぬぐえない、

確かな希望でしか解決できないものだと教えられた。

それを日々体験している岑先生の心はずたずだだろう。

それでも主を信頼している先生の姿にただただ涙だった。

『8ヶ月過ぎてやっと、この苦難が主の栄光を

 知るためだといえるようになった。』

岑先生からの言葉。

けっして忘れられない言葉です。

痛みがあるところに十字架が建てられている。

それが僕らの希望だと確信した。

それは復興という形ではなく、

痛みがあるところに主がおられ、涙を流されているという

愛により可能なもの。

先生方の働きのためにこれからも祈っていかなくてはと

思い知らされました。

昔からお世話になっている先生も来て下さり

ともに主を賛美する恵みを分ち合いました。

そして、聖餐式を持って

ともにこの痛みを主の痛みとして分ち合い、

重荷を背負いあいました。

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作成者 逃れの街ミニストリー : Wed, Dec 14, 2011 18:14

自分の信仰は何ですかと言われたら、なんと答えますか?

僕らは自分の信仰をどうとらえているだろうか?


トマスはイエス様の傷跡を見なければ信じないと言った。

でも、イエス様と出会ったときに

『わが主、わが神よ。』と告白した。

奇跡のしるしのような、目に見えるものしか

信じることの出来なかったトマスも、

復活した主イエスと出会うと、

わが主よと告白するまでに変えられた。

決してトマスは不信仰ではなかった。

小さい信仰を持っていただけだ。

トマスは疑い深かったわけではない。

目に見えるものしか信じれなかったんだ。


私たちもそうですよね。

小さい信仰しか持てないものです。


では、この信仰って一体皆様にとってどういうものでしょうか?

信仰は自分から発しているものですか?

それとも神様から受けるものですか?

信仰は光ですか?

それとも闇でしょうか?


なんとなく、信仰というと、

上向きな、

光に向かっていく輝かしい光で、

力強く信じなくてはいけないというような

ニュアンスがあるように思います。

でも、そう理解していると、

時に辛くなったりしませんか?

信仰が弱くなったとき、神様が見えなくなったとき、

どうしても前を向けなかったとき、

トマスのように弟子の仲間と一緒に入れないような

時だって僕らにはあります。

でも、そんなときにイエス様は僕らをしかったりしません。

そんな弱い信仰を責め立てたりはしません。

トマスに対しても

『見ないで信じるものになりなさい』といわれました。

それは、トマスが持っている

小さい信仰を励ます言葉でした。

信じる者になりなさいという言葉は

今持っている信仰を保ち続けなさいという意味です。

イエス様が共にいて、私が成長させてあげますという

約束です。

私たちはこの小さな信仰を主の前に出し続けていくのです。

信仰を立派にしてから主の前にでるとか、

信仰を大きく、揺らがないものにすることが

目的ではないのです。

私たちの信仰は主の偉大さを認めるためにあります。

私が死に、主が生きるためです。

そこを暗闇だと表現した人がいます。

16世紀に生きた十字架の聖ヨハネという人です。

『信仰とは人間にとって、暗夜のようなものである。』

それは、この暗夜が暗ければ暗いほど、

そこにいる人間は光のまぶしさが見えるというのです。

この闇は決して悪い意味では用いてはいない。

不足するというギリシャ語のスコトスという言葉ではなく、

光が強すぎで目がくらむ状態という意味を表わす闇、

グノ−フォスという言葉で表現している。

十字架の聖ヨハネは人間はずっとこの暗夜に

いるとは言ってはいないが、

このステージを悲観的には見ていない。

信仰の初期段階として定義している。

そしていつしか、この光のうちに

留まることができると言っている。


僕らが自分の信仰を考えるとき、

信じ続けることとしての力ではなく、

まったく主の前に主がいない絶望を持って

暗夜にたち、主からの光を待ち望む私たちの

信仰の形と見てもいいのかもしれません。

それは、目に見えるものしか見えなかったトマスのように

不安で湖に沈んでしまったペテロのように

弱い僕らも主が強めてくださるということを

信じていく力かもしれませんね。

トマスにもイエス様は責める言葉ではなく、

愛のことばとして信じる者になりなさいと

言いました。

ペテロに対しても沈みかけるペテロを

手を出して、抱き寄せました。

イエス様は私たちを愛していてくださる。

それは、必ず私たちを導いてくださっているという

ことではないでしょうか?

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作成者 逃れの街ミニストリー : Wed, Dec 14, 2011 18:15

Tue, Dec 13, 2011

『トマスは本当に不信仰だったのか』〜その2

トマスの信仰はこのとき、

“イエスがよみがえる”ということだけ信じている信仰でした。

それは、今まで、イエス様と共に過ごし、多くの奇跡を見ていたからです。

そのことを信じていただけでした。

でもそれは他の弟子たちも同じだと思います。

そんなトマスの前に復活したイエス様が現れて言いました。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

ここの“信じない”と“信じる”という言葉はここにしか出てきません。

ギリシャ語に近い訳をすると、

「信じない、不信仰にならないで、

今の信仰をしっかり持って信じつづけなさい。」と言っているんです。

イエス様はトマスの不信仰さを“信じない者にならないで”と指摘しているのではなく、

トマスの目の前で起きた奇跡を信じるその信仰を“信じる者になりなさい”という

言葉で励ましているのではないでしょうか?

不信仰や疑いから信仰へと変化したのではなく、目に見えるところではなく、

目に見えないところを信じる信仰へとイエス様はトマスを励ましたのかもしれません。

それはトマスにとってとても深い意味がありました。

それは、14章で主に従いたいけれどもその道がわからないと告白していた

トマスに対して、イエス様が信じる者になりなさいと励ましました。

それはただ、信じることをしなさいといっているのではなく、

20章21節で弟子たちにイエス様は遣わすことを約束しています。

この場所で信じなさいといっているその信じるという行為には、

この遣わすことを受け取るという意味も含まれていると思います。

ここでしか使われていない『信じる』という言葉を使い、

ヨハネはイエス様とトマスの関係を示したと思います。

それは、

『今の信仰をしっかり持ち、信じ続けなさい。

わたしはあなたを遣わすのですから。』という

イエス様の弟子であるトマスへの愛の召しだったのではないかと思います。

ここでトマスは劇的な変化を体験したんだと思います。

それはイエス様と出会ったことによってです。

触ることでしか信じられないと言っていたトマスが、

即座に触ることすらもなく(賛否両論ですが。)、イエス様と出会い、

イエス様を『主と、そして神』と告白します。

イエスさまが“よみがえりの主”であることが分かった瞬間でした。

見ないと信じないといっているような信仰を「私の主。私の神。」

という最上級の告白に変えてくださいました。

『私の主、私の神』という告白が

ヨハネによる福音書のクライマックスを照らしています。

神の子としてのイエスキリストを描いているヨハネによる福音書は

1章に出てくる『あなたは神の子です。』というナタナエルの告白と、

この20章のトマスの告白に挟まれてることで、キリストの神性を強調しているのです。

この福音書はイエスが神の子キリストであることを

あなたがたが信じるためですと31節でヨハネが言います。

そのためにイエス様が行った多くのしるしの全部をここに書かないで、

少しだけを書いたと書いてあります。

それは、しるしではなく、キリストが神の子であるということを1章1節にあるように

キリストが神と共におられ、神であったという事実を描くためでした。

イエス様がこの地上に来られたのは、神様の愛を私たちに伝えるためで

あるということを一貫してヨハネは伝えているのです。

イエスさまは小さな信仰を貶したりしません。

なぜなら私たちの足を洗うくらい自分を低くされ、

そして私たちのために死なれたからです。

それは神様の愛を伝えるためです。

私たちがその愛に生かされるためです。

私たちの小さな信仰を平安と愛をもって成長させてくださることを

トマスを通して教えてくれているのです。

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作成者 逃れの街ミニストリー : Tue, Dec 13, 2011 16:46

 『トマスは本当に不信仰だったのか』〜その1

ヨハネによる福音書20章24節〜31節

13章からイエス様はご自分の使命を確認されています。

ただ一人でしか背負えない使命。

それはご自分が十字架の道を歩まれることでした。

その思いをしっかり父なる神様から受け継ぎます。

そして最初にイエス様がしたことは、弟子たちの足を洗うことでした。

『私がしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。』

イエス様は弟子たちに仕えることを第一にお教えになりました。

そこには深いイエス様の愛があります。多分弟子たちは戸惑っていたことでしょう。

そんな中、新しい戒めを与え、

弟子たちに愛し合うことで神様の愛を知ることを教えます。

14章5節で12弟子の一人のトマスがイエス様に言います。

『主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。』

父のところへ向かうイエス様にこの地上にあってどうにかついていこうとします。

弟子たちはイエス様がこの地上に来た本当の目的をわからずにいました。

17章で『父よ、時が来ました。』とイエス様が祈られます。

そして十字架の道を通られました。

そして十字架に架かり、死んで、三日目によみがえりました。

そして弟子たちの前に復活したイエス様が現れました。(19節) 

そこでイエス様は弟子たちに聖霊を受けなさいと息を吹きかけられました。

でも、そこにトマスはいなかったんです。ここからが今日の場面になります。

〜トマスの信仰について

トマスは弟子の仲間たちと共にいることができないほど、

落ち込んでいたのではないでしょうか?

私たちもそんな経験があると思います。

一緒に思いを分かり合える友達でも、時には一人きりでいたいときもあります。

そんなときはとても心が傷ついていて、途方にくれているときです。

聖書には詳しく書いていませんが、11章の16節や14章の5節に出てくる

トマスの姿から見ると、とてもトマスは状況に敏感で情熱的な信仰を

持っていたように見受けますので、イエス様が死んでしまい、

さぞ途方にくれていただろうと思うことができます。

そしてトマスが弟子たちのところに行くと主を見たと言われます。

とっさにトマスは『私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、

また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。』と言いました。

ここのこのトマスの告白ゆえに、12弟子のトマスは不信仰なトマス、

疑い深いトマスと代々言われ続けてきました。

ある教会には弟子達をあらわす12本の柱があるそうです。

10本は白いんですが、一つは黒色で、

それはイエス様を裏切ったユダを示すそうです。

そして、もう一つ、灰色の柱があるそうですが、これはトマスを示すそうです。

どうして灰色かというと、トマスの不信仰さを表していると言います。

不信仰とレッテルを今の時代に貼られているトマスです。

でも、どうでしょうか?トマスは本当に不信仰だったのでしょうか?

もしも、本当にトマスが不信仰であったのであれば、

このヨハネによる福音書の大切な最後の最後の場面で

どうしてこんなにも長くトマスのことが描かれているのでしょうか?

そこにあるヨハネの思いは一体何だったのでしょうか?

トマスの不信仰さを描いているのであれば、なんとなくこの福音書の

主旨と反している気がします。統一観が見えてこないように思います。

8日後にトマスのもとにイエス様が現れます。

そしてトマスに言われました。

『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、

私のわきに差し入れなさい。信じないものにならないで、信じる者になりなさい。』

聖書をよく読むと、トマスがイエス様の傷跡を触ったとは書いていません。

書いていないのです。

状況をすばやく判断するトマス、そして情熱的な信仰を持っていたトマス。

それは目に見えるところをとても大切にするトマスの信仰を表している気がします。

だからこそ、見ないと信じないと断言したのでしょう。

でもそこにはイエス様を信じないということではなく、そのくらい目の前にいた、

共に生活をしていたイエス様のことを思っていた信仰が

あったといってもいいのではないかなと思います。


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作成者 逃れの街ミニストリー : Tue, Dec 13, 2011 16:44

Mon, Dec 12, 2011

ホームスクール:理科の実験

秋葉原で買った実験セットで実験をしています。

今回は「かんたんなろかき」です。さて、どうなるか〜。

コップを二つ用意して、

片方に泥水を入れて

ガーゼを両方にたらします。

さて、からっぽのコップには

どんな色の水が移るのか。


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作成者 逃れの街ミニストリー : Mon, Dec 12, 2011 21:10

Fri, Dec 9, 2011

息子と社会科見学で秋葉にいきました。

先日、息子のホームスクールの一環で

社会科見学に行ってきました。

西武池袋線の駅の中にある立ち食い食堂で

やすいランチを食べ、

お茶の水に行って、将来のギターを選び、

秋葉原に行って、ライトを買い、

科学の実験セットを購入しました。

帰りは念願のレッドアロー号に乗りました。

行く道々をノートに書き留めて

帰ってから日記を書きました。

電車の中では計算ノートをつかって

ビンゴしたり、

広告の漢字当てゲームをしたりしました。

息子との時間があまり持ってなかったので

有意義な時間が過ごせました。

やはり、共に時間を過ごすことが一番だなぁと

感じました。

この旅が終わったら、

私をためすようなことをしなくなり、

素直に甘えてくるようになりました。

ただ愛されていることを子どもも

求めているんだなぁと感じました。

わたしだって同じだ。

神様にあって、愛されている。

そこに平安があることを子どもに

教えることが私の仕事。

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作成者 逃れの街ミニストリー : Fri, Dec 9, 2011 09:11

Thu, Dec 8, 2011

東北に神様の賛美を届けたい。

Down to Worshipのみんなで

心一つに今は何の時かと祈ってきました。

主の導きをまず第一とし、

心に隙間を探していました。

それは時には難しい作業でもありました。

周りを見て、何もない自分を責め始めたり、

祈るよりもまず行動をと急き立てたり、

心に神様の声が聞こえるように隙間を作るよりも

達成感や正義感で満たすほうがはるかに簡単でした。

でも、隙間を大切に賛美をしてきました。

時には楽器を置き、いわきの子どもたちとキャンプを

したりもしました。

でも、いわき市にあるアンバサダーキリスト教会との

出会いの中で、楽器をもって主を賛美する機会へと

今回導かれました。

明日、いわきに向かいます。

目に見えないところの希望を胸に。

私達は主を礼拝します。

ジーザスお父さんの家教会では

金曜日の夜に。

アンバサダーキリスト教会では

土曜日のお昼に。

神様を神様とし、

主を賛美、礼拝を捧げます。

Down to Worship的に言うならば

礼拝を受けます。

神様から何かをいただくのではなく、

神様から解決をいただくのではなく、

神様ご自身をしたい求めます。

なぜなら、そこに唯一の解決があると

信じるからです。

そして、その愛に触れた時に

私達は遣わされることを信じています。

必要があるからではなく、

主の痛みがあるから、そこに遣わされていきます。

『主よ、お遣わし下さい。私はここにおります。』

どうか、お祈りに加わり、

共に東北の地に神様の希望を届けたいと思います。

もう既に多くの戦士がおられます。

少しでもmutualな神様の愛の内に

慰めと励ましを感じれればと思っています。


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作成者 逃れの街ミニストリー : Thu, Dec 8, 2011 21:24

Mon, Dec 5, 2011

レコーディングに使ったNational Resonator Guitar

無事にレコーディング2日間終えることができました。

今回は鉄のギターでレコーディングしました。

Nationalのリゾネーターギターです。

土臭い音で土から創られた人間の姿を描きました。

音一本でというのも難しいですね。

でも納得のいく音が取れました。

お楽しみに。

作成者 逃れの街ミニストリー : Tue, Dec 6, 2011 00:03

川越教会クリスマスコンサート

12月3日は東京フリーメソジスト教団の

川越教会でのクリスマスコンサートでした。

実は家から徒歩5分という今までコンサートを

した中では最短な場所にあります。

地元ということです。

逃れの街ミニストリーを発足したときも

呼んでいただき、コンサートをさせて頂きました。

この働きが始まった時から祈り支えて下さっている

教会です。

地元の愛唱歌の会のみなさまも来て下さり

たくさんの人が集まりました。

お年寄りが多いということで

童謡なども歌いつつ、共にクリスマスを

お祝いしました。

お話しは地元でのコンサートということで

なんとなく故郷という土台で進みました。


キリストの誕生を示す星の光がさしたベツレヘム。

ヨセフの故郷でもある。

その星が示した希望は私達がある意味

故郷へ帰る道を示したものですよね。

クリスマスは私達が神のもとへ帰る道が

この地上に示された時ともいえます。

故郷に帰りたくても帰れない東北の方々の思い。

でもそこにもある生きる力と希望。

人の生きる力は故郷に帰る希望にあるのかなと

考えていたり。。

神様のもとへと帰る私達を思い、

みなさんとそんな話をさせて頂きました。

地元の元市議会議員だった方も来て下さり、

手厚い応援を頂きました。

以前、いわきに行くときにもタオルや、

手作りの品々を託してくださった方です。

この方のおかげで市で管理していた物資を

以前、譲ってもらうこともできました。

地元でこうして共に東北のために何かできる

のは感謝だなぁと思いました。

みんなそれぞれ思いがあるんだなぁと

コンサートが終わってお話しをしているときに

感じました。

でも、そこに方法はいろいろあるけど、

痛みに寄り添う心があって本当にうれしかった。

自分に何かできないかという気持ちは

このクリスマスに神様がもう一度、

私達に教えてくれた神様の愛の形かもしれない。


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作成者 逃れの街ミニストリー : Mon, Dec 5, 2011 23:41
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