ブログ〜鵜の目鷹の目,旅の目で

私は旅するようにゆったりと、かつ鵜や鷹のようなまなざしで日常や出来事をとらえます。徒然草のように徒然なるまゝに硯に向ひて心に移り行くよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば…。マイホームは【ふみハウス】

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2014/4/23 (水)

おつきあい同んじように付き合って

「つきあい」と「おつきあい」は違うそうですね。考えてみれば確かにそうです。とりあえず相手に合わせておけばいいや、という語感が「おつきあい」にはあります。おためごかしのテキトーさというか、不実さと言っていいのでしょうか。相手に迎合する(あくまで軽くですが)のが、「おつきあい」です。

おつきあいで募金する…おつきあいで飲み会に出る…おつきあいで会話する…おつきあいで立ち話する………。数限りないおつきあいがあるのですが、自分のしたいことは本当は違うのだけど我慢して表面的には相手に合わせいくか、とあきらめるのが「おつきあい」です。

一方で「つきあい」には正面を向き合った真剣勝負といった趣があります。思いのたけを述べあって本音を語る。互いの腹の中を見せ合って深い関係になる、あるいはすでにその関係、というのが「つきあい」です。

「おつきあい」があればこその世の中だとは思いませんか。大勢に従っていく人がいるからこそ、流行は生まれるのですし、経済活動も活発になるのです。でも「おつきあい」だけでは軽い、物足りない。だからときには「つきあい」が必要なのです。家族と向き合って語り合い、将来の見通しを推測しあい、友人にズバズバと欠点を指摘して険悪な場面が出てきたとしても、恐れてはならないのです。それが「つきあい」というものでしょうね。

目の前にいる人にはいろんな種類があります。自分との関係性という点で。全くの没交渉な人、袖振り合うも多生の縁で会話のきっかけが生まれる人、前に語ったが今は深いつながりはない人……。いろいろありますが、時と場合によっても関係は変わります。変わる日々の繰り返しで、私たちの生活は形づくられ、集成としての人生ができていくのですね。

作成者 house21 : 2014/4/23 (水) 18:33 [ コメント : 0] [ トラックバック : 0]

2014/4/22 (火)

スマホなり電池が切れたらただの函

電池が切れたらスマホはただのヘラ。
竹べらにも靴べらにもならないガラクタのヘラ。
電池が切れたらスマホはただの栞。
はさんだら本はゴワゴワ崩れてしまう。
電池が切れたらスマホはただの金づち。
釘を打ち付けボロボロ壊れる。
電池が切れたらスマホはただのロウソク。
灯を照らしてもわずかな10数秒。たちまち消えて闇の中。
電池が切れたのは仁万駅の中。
切れてもいいさ。女生徒たちがひまつぶしに話し相手になってくれた。
電池が切れて列車に乗った。
切れてもいいさ。本は僕の友だちさ。ファンタジーで夢の中。
電池が切れて列車が着いた。
帰りが遅くて心配かけたが無事に帰って美味しい夕食。
充電はじめてスマホは生き返る。
使えなくともなんとかなるが、やっぱり使えたほうがいいもんだ。
適度に賢く使いましょう。

作成者 house21 : 2014/4/22 (火) 23:31 [ コメント : 0] [ トラックバック : 0]

2014/4/21 (月)

考えて自由に生きる術なれば

教育学者の苫野一徳氏は言います。変化の時代に必要な力は、≪自分で物事を考えられる力≫。大量生産時代からニーズ多様化時代になると、新たなサービスを生まないことには物は売れない。≪新しい発想で物事を柔軟に考えられない≫と対応できない時代だからだと説くのです(教育学者・苫野一徳氏『考える力を育もう』聖教新聞2月20日付け)。

家庭で考える力を育むには2つのポイントがあると。まず、≪子どもが何か興味・関心のあるものを見つけた時、応援してあげる(中略)本人が主体的に目的をもって何かに取り組む時、飛躍的に伸び≫るから。≪自分がやりたいと思ったことを徹底的にやり、深めていく学びをして≫いく訓練が自分の適性を伸ばしていく際のポイントとなるのです。

もう一つは、≪失敗を恐れずチャレンジできる環境を与える≫。≪自分を肯定的に思えている子は、物事を前向きに考えられ、失敗を恐れずチャレンジできるように≫なりますが、≪親から絶大な信頼と承認を得ている子ほど、「自分はOK」と肯定的に思えるようになります≫と。

氏は≪教育の目的は子どもが自由に生きられるように育むことだと考えています。自分が希望する生き方を自分で選べる。生きたいように生きられるようになるためです。そのためには、必ず何らかの「力」が必要です。さまざまな学びの経験を通して、その「力」を身に付けなければいけません。その「力」の一番基本になるものが、考える力です。自由に生きるためには、自分がどうやったら自由に生きられるのかを考えられないといけないからです≫と考えています。

意欲をもって関心を持続させ、失敗もするうちに子は育ちます。その裏打ちとして、自己肯定感が必要だと。結果として自由に生きられる。何かに強く依存して生きるのでもなく、根なし草のように基盤をもたない生き方でもない。考える力をつけることによって自由に生きられると氏は考えます。それは決して子供だけに言えることではありません。大人が自分の身で学習し、体現すべきことがらなのでしょう。一生勉強です。

(野大根の花が可愛らしい。斐伊川の土手には見渡すかぎりとまでは言わないけれど、たくさん咲いている)

作成者 house21 : 2014/4/21 (月) 18:30 [ コメント : 0] [ トラックバック : 0]

2014/4/20 (日)

昼下がり幸せがあるどこかしこ

ショッピングセンター、昼下がりのフードコート。幸せの形がたくさん見えた。

幼児の兄妹を連れたお母さん。三人でハンバーガーをほおばり、フライドポテトをつまむ。兄があわてて口に入れるものだから、ポロリとこぼす。注意する母。でも笑顔だ。

赤ちゃんをベビーカーに乗せたお母さん。もう離乳食の段階には入っているのだろう。微笑みながら食べている母。落ち着いたたたずまいが好ましく感じられる。娘時代の昔、図書館でもって恋のひそひそ話で盛り上がった頃もあったことだろう。今はしっとりと美しさを醸し出している母。

どのお母さんを見ても幸せそうだ。可愛くてステキで、今どきのママが勢ぞろいしたかのような風情がある。夫婦に子どもの組合せももちろん多い。休日の昼間を楽しんでいる日本の一風景がある。

中年の夫婦もたまに見ることがある。たいていは黙ったまま向き合っているが、時折言葉を交わしているようだ。子どもはもう一緒についてくる年頃ではないのか、それとも元々いないのか。行く末を楽しみにして弾んでいるようには見えない。かといって案じてばかりでは気が萎える。

父と子の三人組もいた。母は日曜日の仕事をもつ人か、それとも一人で買い物に精を出しているのか?あるいはシングルファーザーなんだろうか。おばあちゃんと孫との組合せもあった。中年女性だけで楽しげに語り合う姿もある。

日曜日の昼下がり。多くの人間模様がある。わずかな断片でしかないが、フードコートで食べる姿に幸せがある。「幸せなんかじゃない!」と言い切る人もいるだろうが、紛争の相次ぐ世界の趨勢から考えれば、十分に幸せの形がここにある。我が身も含め、それなりの幸せを噛みしめよう。

作成者 house21 : 2014/4/20 (日) 19:55 [ コメント : 0] [ トラックバック : 0]

2014/4/19 (土)

図書室に甘美な響きを感じと

【図書室】
この甘美な響きを。学校の図書室では本のページをめくる音と鉛筆のカサカサいう音ばかりが聞こえる。友人とひそひそ話をしていた。ヒソヒソはかえって耳障りなもの。静かに!と女の子にピシッと言われて、目くばせて舌を出しあった。ずっと声をひそめて続けたら…静かに!っと追い討ちがかかる。思いは生徒だった頃に舞い戻る。図書室という単語に青い甘美な響きをを感じるのは私だけだろうか。「室」は家の中で至る、行き止まりまで行く。すなわち一番奥の部屋。そこで密やかに話すのは面白い。

【1限目の授業】
あまり乗らなかった。眠い、疲れた、宿題やってない…。いろんな理由で乗らないときが多かった。それでも時はやってくる。通学列車に乗って学校に行くことはいく。そしてなんとかしのぐ。しのいでいるうちに、面白いことも出てくる。好きな子と話ができて嬉しいことだってある。またあしたもがんばろうと思った。

【体育館の床】
古い体育館は床がギシギシときしむ。一人で入り込んだら、足音が埃の舞い散ってくる天井まで響いた。大勢が入場している体育館では感じられない静けさに身を委ねるのは不思議な体験だった。

【放課後】
放課された後とは、また穏やかではない。課程から解放される。開放ではない。すなわち授業時間は束縛され、先生の目に晒され、体裁に縛られる。放課後は放たれて青年は自由になる。放免される。ええなあ。

【チャイム】
チャイムが鳴る。朝のホームルーム、1限目の始まりに、授業の終わりとともに時を告げる。3限目の終わりとともに弁当箱を開く。腹が減っては軍はできぬとばかりに早弁をかきこむ。食べたら食べたで昼休みは何か腹に入れたくなったものだ。青年は腹減りとともに過ごしたのだ。そしてチャイムの音。いま聞くと郷愁と懺悔が入り雑じったような感覚になるのはどうしてだろう。若い頃の時間をもっと大切にしておけばよかったという後悔の念が起こってくるからなのかもしれない。

(若々しい新芽。透きとおって汚れのない無垢な青い春の芽。日ごとにぐんぐん伸びていく)

作成者 house21 : 2014/4/19 (土) 22:17 [ コメント : 0] [ トラックバック : 0]

2014/4/18 (金)

シャヴァンヌの幻影をみた仏絵画

宍道湖の南東岸にある宍道湖を形象した曲線美の建物。松江の街の静かなたたずまい。その彼方には青くてなだらかな北山が続いている。島根県立美術館は開館15周年を迎えた。それを記念して『水辺のアルカディア〜ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界』が開催中だ。フランスの壁画装飾画家・シャヴァンヌの体系だった展覧会は本邦初とのこと。シャヴァンヌの世界は幻影。春の暖かいひとときを過ごすのにふさわしい空間である。

人間の精神が羽ばたき気持ちが自由になればなるほど、衣服は不要になるのかもしれない。ジャヴァンヌの絵画や壁画を見るとそんな気がしてくる。第一の印象である。西洋絵画の原初は地中海にある。西洋文明がギリシャに起こり、ローマで爆発的に拡大し、世界へ覇権が広がった。地中海性気候の暖かい地域では衣服は厚くない。映画や文献で見る限り、当時の衣類は脱ぎ着は簡単そうに見える。穏やかな天気に気持ちが自由自在に飛び跳ねるとき、恋人どおしが自然の発露として愛し合うとき、服を脱いで生まれたままの姿になりたいと思うのも、むべなるかな。アルカディアとは理想郷。西洋人の理想たるギリシャ・ローマの神話を静かにイメージしている。

中世暗黒時代の反動でルネサンス期を迎えた西洋人たちは、絵画に自由の象徴・裸体を求めた。近代文明が開花したヨーロッパ中北部に住む人にとって、太陽に満たされた暖かい気候はあこがれだったのだと思う。そこに美しいものの代名詞たる裸婦を描く。明るい色彩を放つ幻想 の世界を描く…。芸術家にとって衣服をまとわぬ女神たちはあこがれの象徴となるものなのだろう。

『諸芸術とミューズたちの集う聖なる森』は130年ほど前の作品でシャヴァンヌの代表作のひとつ。原版はリヨン美術館の大階段を飾り、その縮小品のカンバス油彩画が展示されている。ポリュヒュムニアは修辞の女神で、同じく女神のクレイオは歴史を司るという。壁画の中で英雄たちの歴史物語を雄渾な修辞で語り合っているシーンなのだろうか。縮小品と実物の壁画の写真(本物の半分以下)を比べると光沢や照り輝き、肌の質感は相当違う。エロスの神ヴィーナスは壁画に宿ったものとみえる。

学芸員がインスピレーションを抱いたという、神々の国島根にある宍道湖岸に美のミュー ズが集まっている構図というこじつけもまんざら悪くない。確かに湖の南東岸に女神が集まり、木々の向こうには北山に相当する山並みが見える。牧歌的な山岳風景、柔らかな自然に育まれる人々。幻影か、真実の物語か。それらをぼんやり想像しながらうとうとするのも悪くない。

(幻想的なアジサイ…万華鏡の季節がやってきた)

作成者 house21 : 2014/4/18 (金) 21:52 [ コメント : 0] [ トラックバック : 0]

2014/4/17 (木)

あいさつを挨と拶にと分けたなら

昨今は挨拶するにも人を選ぶ。気心の知れた人にしか声をかけないという風潮である。不審者情報が流れ、ニュースでは行きずりの通り魔犯罪を報じているわけだから、なおさらのことであろう。それでも人の往き来が頻繁で人々が声をかけあっている町では、空き巣を狙う不審者には利く。彼らは顔を見られたくないから、顔を見て声を掛けてくる人は避けたいからだ。

そういう点では、邇摩(にま)高校がある仁摩町(にまちょう)の仁万(にま)は心地がいい場所だ。歩く人に「こんばんは」と声かければ、「こんばんは」と笑顔で返ってくる。庭先から声がかかることもある。

昨日の朝は邇摩高校の生徒昇降口でさわやかな声が聞こえた。わたしの出入りするところからは離れているので顔は見えなかったが、10人ほどの女子生徒たちが一列に並んで声を張り上げていた。わたしに向かって手を振っている子もいる。気持ちがいい朝だった。

挨拶は交友の幅を広げ、新たな出会いのチャンスとなる。人間練磨の出発点とも言えるだろう。挨拶の「挨」は押すという意味があり、「拶」は迫る義である。禅問答のやり取りにあって悟りの深浅を試すことに言葉の由来があるという。どちらかが発し、相手が受けることではじめて挨拶は成り立つ。「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」「お久しぶり」など、挨と拶が日々繰り返される 。マンネリ化した儀式だと考える向きもあるが、人間心理に与える影響は大きい。小さな社会でも、大組織にあっても挨拶は組織を円滑に動かす魔法の言葉だ。気持ちのよい挨拶を繰り返していけば、組織のチームワークは確実に高まっていく。

自分から声をかけるのは恥ずかしい…無視されたや嫌だな…ええ格好しいの奴、ウザイ奴と思われやしないだろうか…心配はつきないかもしれない。勇気をふるって自分が変われば、相手もいずれは変わる。自分の見方が変われば相手の良い面も見つかる。気持ちが豊かになる。また今日も昇降口で彼女らの挨拶が見られるだろうか。元気な声が聞かれるだろうか…。楽しみである。

(追記/4月17日夜)
彼女たちの元気な声は今朝も聞こえた。昨日よりもっと元気になっていた。部活の強化の一環として彼女たちが自主的に挨拶を始めたとのこと。マンネリ化した日常に何らかの一石を投じたい時には、勇気が必要だ。今までとは違う行動をとるためには清水の舞台から飛び降りる思い切りがほしい。朝から元気のもとを湧き立たせようという試みに、わたしは拍手を送った。彼女たちだけが元気になったわけではない。挨拶を受ける生徒らも違う空気を感じとって、ピリリと心がひきしまったに違いない。頼もしい娘たちよ。おじさんは嬉しく思いましたぞ。

作成者 house21 : 2014/4/17 (木) 22:37 [ コメント : 2] [ トラックバック : 0]

2014/4/16 (水)

かけがえない友はインフラ博報堂

博報堂生活総合研究所は、「インフラ友達」をテーマに2014年を予測しています。かけがえのない使える人々をインフラ友達と定義しているのですが、「使える」と「かけがえのない」という二つの言葉が同居することに違和感を覚えるものの、一緒にいるだけで気持ちが休まる友は、いわば「安心を与えてくれる友」=「居心地が良いから使える友」ということなのでしょう。

予測のベースとなる調査によれば、一人で過ごす時間は5時間20分/日まで増えているそうです。この15年間で30分も増えています。一人の時間を大切にしたいという意識が強くなったことであり、友人は多いほどよいと考えるのではなく質が大切だという意識に変わったと分析しています。ネットでは広い交流が可能ですが、地についた友人関係を求める現れかもしれません。

こんな友が欲しいというランキングを発表しています。

1位■避難所友(ひなんじょとも)/大災害時に避難所的に受け入れてくれる
2位■教友(きょうゆう)/菜園、料理、語学など生活の質を上げるための知恵を教えてくれる
3位■命友(めいとも)/ああしんどいなと思った時に電話すると、生きる気力を与えてくれる
4位■ネンイチさん(ねんいちさん)/めったに会わないが、友達でいることの喜びを実感できる
5位■目利き友(めききとも) /ネット情報の真偽、隠れた問題点などを見抜く目利き
6位■黙友(もくゆう)/落ち込んでいるときに、何も言わずに、ただそばにいてくれる

身勝手なばかりで、わがままな願望があらわれているような気がしますが、まあいいでしょう。一人になる時間を好んだとしても、ひとは誰でも一人では生きていけません。袖振り合うも多生の縁、と一時のふれ合いを大切にするもよし。ドップリと語り尽くし合うもよし。友を大切にするということは、自分のことも大切に思うことにつながるものです。

作成者 house21 : 2014/4/16 (水) 21:46 [ コメント : 0] [ トラックバック : 0]

2014/4/15 (火)

空気感出雲と石見離れてる

出雲市多伎町に続く山が仙山峠。ここを境にして出雲地方と石見地方が分かれる。出雲部と石見部では、お茶の飲み方ひとつとっても文化が違う。人の気性も異なると感じることもある。

その仙山峠の脇をすり抜けるようにしてJR山陰本線は海端を走る。切り立った岩盤と深い森が続き、列車の窓から見える岩礁には白浪が押し寄せて、青い海とおぼろな空の色がコントラストをなして目を和ましてくれる。

トンネルを抜けるのは4つだろうか、5つだろうか、石見に入る。大田市の波根駅に到着すると、出雲市の小田や田儀で感じていた空気が違うように思えるのは錯覚かもしれない。錯覚であってもよい。どちらがよくて、どちらが馴染まないとかいうのではない。どこか違う場所に来たかのような感覚が起きてくるのだ。

邇摩高校まで通勤を始めてまる2週間。その違和感はおそらく旅人が感じる情緒ではないかと思い当たる。わたしは日々旅を続け、鈍行列車に揺られながら、思索し景色の変化を楽しんでいる。

今朝はある生徒が驚いていた。わたしの長距離通勤を。その彼だって出雲部の端から通学している。他の教職員だって、ほぼ同様の道のりを車で通勤する。距離は変わらない。

ただ違うのは、列車の揺れに身をまかせながら、わたしは本を読み、ラジオ番組や音楽を聴く。そしてこうしてブログを書く。時折うとうとと眠る。その旅人の気ままさが、車での通勤者とは異なるのだ。車での通勤と列車通勤を比較しても、せいぜい30分程度の差しかないが、そこに大きな落差というか、異次元の旅人感がある。それを楽しみつつ、かわいい生徒たちの姿に目を細めながら、明日も通勤は続く。

(邇摩高校の「仁心の庭」に咲いている名を知らない花。静寂で慎ましやかだ)

作成者 house21 : 2014/4/15 (火) 22:37 [ コメント : 0] [ トラックバック : 0]

2014/4/14 (月)

決意して冷たい雪が温かに

『アナと雪の女王』をまだ観ていない人のために。エンドロールで席を立つなかれ。
笑えるオマケ、ピリッとほろ苦いやつが最後についてきます。得した気分になりますよ。

まだ観ていない人のために。日本語吹替え版を観るべし。
雪の女王エルサ役をやった松たか子の歌が素晴らしい。『Let It Go』でエルサは歌うのです……ありのままに、と。腹が決まった時に制御できなかった彼女自身の力をコントロールできるようになるのです。そこには愛の力も必要です。アナとエルサ、そして正義のジェントルマンと交わされる自己犠牲の愛。あらゆる人々が発露する慈愛によって、閉じられていた城の門が開放されて、魔力に支配されていた心が解放されたことを象徴するのです。門を開けて、叡智を集め、豊かな情感を表し、人の和でものごとを解決しようという国の行く末が決まるのです。それらが歌に見事に表現されているのでした。

まだ観ていない人のために。ナンバー2が堅実・賢明でないと国は守れないことを知るべし。
アナとエルサの父母、すなわち王と王妃は二人が幼い時に嵐によって命を落とします。エルサ女王が戴冠するまでに長い時間がかかります。その間誰が国政をみていたのでしょうか。物語には登場しません。どこの組織にあっても同じことですが、執政官なり、ナンバー2がしっかりしていないと組織は弱体化し、場合によってはつぶれます。その陰の努力と能力にも注目したいですね。

まだ観ていない人のために。脇役に注目すべし。
勇敢にして心優しいクリストフ、一見紳士の王子ハンスも重要な役割を演じますが、トナカイのスヴェン、なんとか公爵、雪だるまオラフ、かわいげな石のトロールなど魅力的なキャラクターがたくさん登場するのもこの映画の人気の元なのだと思います。

(写真は仁万の街角に咲いていた花ニラ。降りたての雪よりも白くなく、今朝の日本海の水平線界隈の色よりも白い)

作成者 house21 : 2014/4/14 (月) 20:35 [ コメント : 0] [ トラックバック : 0]

2014/4/13 (日)

下を向き八重の桜は目を奪う

わたしの住む町内に出雲村田製作所はあります。ケータイやパソコンにはなくてはならないセラミックコンデンサを生産するのが出雲村田製作所。その工場の敷地が年に数回開放されます。椿は約千種、桜は71種もあり、いずれも珍しいものばかりです。今日は恒例の桜の一般公開日でした。正門から入ると広い駐車場が開放してあって、警備員や職員が誘導してくださいました。

いままで何度か見に来ていますが、何度見ても見事なものです。八重桜は各種さまざま。珍しい形、微細な色の違い、花の付き方や葉っぱの出具合もいろいろで、楽しく観察し写真におさめてきました。幸いに雨の予報ははずれて雲は厚くはありましたが、いい花見日和でした。構内の道路でイソヒヨドリのつがいが何かをついばみながら、複雑な音色で語り合っていました。街中のビルで縄張りを主張するこの鳥を見る季節ではありますが、つがいを見るのは始めてでした。

桜の開放は20日日曜日にもあります。節くれだった枝を虎の尾に見立てた市原虎の尾や桜湯の原料となる関山など満開の八重桜の類を楽しむことができるでしょう。抹茶のサービスもありますから、また来週も行ってみようかな…。

(淡緑色の御衣黄(ぎょいこう)は淡い黄をベースに淡緑色の筋がはいる花びらが波をうっています。興味深い趣があります)

作成者 house21 : 2014/4/13 (日) 21:04 [ コメント : 0] [ トラックバック : 0]

2014/4/12 (土)

春は鳥春は花なり春楽し

燕尾服をまとったツバメが縦横無尽に飛び回っている。巣づくりに精を出している。ヒバリが鳴いている。ひらひらと蝶蝶のように舞い上がって楽しげだ。街中ではイソヒヨドリが天使のような声で歌っている(天使の声は聞いたことがない)。トンビは高く高く上空の空気をつかんで丸く丸く滑空している。ウグイスはもう十分に上手に鳴けるようになったようだ。スズメも名を知らない鳥もにぎやかに春を過ごしている。水辺ではカイツブリがけらけらと鳴いた。春に鳥が喜ぶ。

花盛りである。鮮やかなタンポポの黄色。花の横には綿帽子が並んでいる。菜の花はレモンイエローに染まってどこか美味しそうだ。ムスカリは別名グレープヒアシンス。極小の提灯の形でヘブンリーブルーが美しい。スイセンは黄をベースにしてさまざまな色と形で目を楽しませてくれる。桃は今でもローズ色で艶やかだ。象牙色のハクモクレンが終わったら、ラズベリー色のモクレンが花を広げつつあった。学校の中庭や民家の鉢にはパンジーやビオラが百花繚乱のおもむきだ。ソメイヨシノは終わったが、八重桜が花芽を広げつつある。たわわに豪華な花を垂らすのももうすぐだ。色とりどりのツツジも陽光を浴びて空にむかって花開こうとしている。目を下に転ずればシバザクラが地を染めて。春は花盛り。

(写真はムスカリ。わたしにはグレープというよりは、異世界の建築物にみえる)

作成者 house21 : 2014/4/12 (土) 21:47 [ コメント : 0] [ トラックバック : 0]

2014/4/11 (金)

能力は農につながる人立ちぬ

『能力』は能ふる力。頭と体を使ってその人を計れる力。偏差値、IQ、英検、入学試験……点数をつけられる機会はたくさんあるが、嫌になるくらいシビアに点はついてくる。

『脳力』は頭脳の力。能力を裏打ちする力は多くは脳髄に由来するが、覚える計算する組み立てるといった知の力。あるいは身体を操ってコントロールするのも脳ならば、脳力は運動力でもある。脳はとても大切な器官だ。

『悩力』とは悩む力。誰でも悩んではじめて人間としての器が大きくなる。悩めば人の悩みにも同苦できる。人の心もみえてくる。悩まない人に多くの人をリードするビションやパッションは示せない。人をその気にさせて伸ばすことはできない。それからすると悩力が増せば、『能力』の能ふる力は与ふる力となって、他人を幸せにしていくことができるだろう。

さらに『農力』という言葉も使える。農業系高校の学科で、自家農地で自家菜園で、田舎の雰囲気でつちかえば農力が伸びる。漫画や映画の『銀の匙』では、食いっぱぐれない力を持ってほしいと校長先生は生徒に望んだ。食糧生産がグローバル化して地域の農業が危ない瀬戸際にあって、各人が農のノウハウを身に付けることはまさに死活問題だ。

『能力』はすべて点数に換算できるわけではない。脳力も悩力も農力もすべて織り交ぜて、その人がもつ可能性を能力という。「能」に「心」が伴えば『態』となる。態とは姿、ありさまのこと。そして『能ふる力』は『与ふる力』にも進化していくだろう。その人がもつ可能性を出し切れば多くの人に貢献していくことができるにちがいない。

作成者 house21 : 2014/4/12 (土) 18:33 [ コメント : 0] [ トラックバック : 0]

2014/4/10 (木)

勤労と仁心の末に創造が

『勤労』
労働ではない。勤労である。響きもいい。労働というと、わずらわしく使役されるイメージがあるが、勤労は務めて励み、身を労(いたわ)りながらチームワークでことを進める。私にはそんな感じがしている。生きる者はすべてが勤労しなければなるまい。ハンディキャップがある人も自分独自の方法で社会に貢献していくことが勤労であろうかと思う。

『創造』
教育にとって創造とはむずかしい概念だ。そもそも教育とは鋳型にはめる作業を第一とする。先人がなし遂げてきた手法をなぞり、自分にもできるように努力しマスターして、そののちに始めて創造という段階がやってくる。道のりは遠いけれども、そこには創る醍醐味がある。

『仁心』
他人や弱いものを慈しむ心である。礼儀をわきまえ、幅の広い配慮ができる人徳をもった人にのみ可能となる。これも実践はむずかしいが、不断の努力がいずれ実を結ぶことだろう。

以上3つが島根県立邇摩高等学校の根本精神である(解釈はわたしの独断)。校訓という手あかのついた言い方ではなく、「根本精神」というのがいいではないか。いかに知性を高め、思いやりの心を育むか。情操を豊かにすることと、正しい生活習慣を身につけることをいかに両立させるか。体を鍛え負けない精神と自信をいかに持たせるか。勤労とは素晴らしいものであり喜びの元であることをいかに知らしめるのか。いかに地域社会にある課題を認識し、解決のために動くことができるのか。古今変わらぬ課題である人間関係をいかに円滑にすすめていくのか……。

こうした問いを不断に発しながら教員の皆さん方は、心を砕き、常にアイディアを研き、体も張りながら全力で奮闘しておられる姿を、この十日ほど見てきた。学校という世界も実に興味深いと思う毎日をおくっている。

明日は早くも金曜日。まずはわたし自身が果たすべき業務を勤労としてこなしていかなければなるまい。さすれば創造はいずれついてくるであろう。そしてかわいげな生徒たちには硬柔とりまぜて仁心をもって接していきたいものだと思う。

(仁万の町の庭先にあったツツジの花。名前は知らない)

作成者 house21 : 2014/4/10 (木) 19:38 [ コメント : 0] [ トラックバック : 0]

2014/4/9 (水)

青い春いろんな色に春染まる

レンギョウが咲き、ユキヤナギがあでやかな白を染め、桜は盛りを過ぎたとはいえ、未だに勢いを残す。校内はペチュニアやビオラ、パンジーに満たされている。チューリップも咲いてきた。やがて万朶と咲き誇るツツジの群落とともに、風薫るすてきな季節はやってくる。

今日は入学式が挙行された。はにかんだ笑顔があり、締まりのない笑みもあったし、感動を面に表さない仏頂面もあった。思春期の彼ら彼女らなりの表現で、晴れやかだけれども不安がいっぱいな主役の座を表していたように思う。

邇摩高校校歌はこう歌う。
  数百の学徒つどい来て
  若い瞳もかゞやかに
  撞(つ)くや真理の暁(あけ)の鐘

百名足らずの新入生たちが学舎に集った。列席された親御さんは我が子の姿をどのように目に焼き付けられたであろうか。まだ幼さをたっぷり残してはいるが、君たち青年の熱と力で時代を継承し、創り出す時が来るだろう。いや、来てもらわなくてはならぬ。式典の最中に多くの顔を眺めながら様々なことを考えた。

若いっていいなあ。それだけで楽しい。だがそれは、今思えばということであって、あの頃は複雑に思いが交錯していた。嫌なこと、つまらないと思うこと…マイナスの感情に支配されることが多かったような気がする。しかしそれらは消え失せて、楽しかった思い出だけが脳裏をよぎるのはなぜだろう。それは歳をとったということなのだ。若さのエネルギーを発散させ、若さゆえの失敗もし(無為に過ごしたことも含め)、だからこその今がある。と思えば…歳をとるのもまんざら悪くない。

(写真は邇摩高校の園芸ハウス内にある赤いチューリップ)

作成者 house21 : 2014/4/9 (水) 19:49 [ コメント : 0] [ トラックバック : 0]
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