水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)をめぐる書評ラッシュはどうやら先週で一段落したようです。
今後ふたたび盛り上がるかどうかは梅田望夫さんが予告どおり本格的な書評を書くかどうかにかかっています。個人的には梅田さんのこれまでのお仕事と「英語の世紀」がどう接続されるのか非常に興味がありますので、とても楽しみにしています。
いろいろな方の書評を拝見しましたが、議論全体として、水村さんの国語教育論と英語教育論については賛否両論あるものの、それらの前提としてある「英語の世紀」の到来自体を疑問視する意見はほとんどないようですね。私が読んだ限りではreponさんと仲俣暁生さんのお二人くらいではないかと思います。水村さんのいずれの教育論にも批判的な分裂勘違い君さんも、この前提だけはすんなり受け容れています。
しかし、改めて問いますが、この前提はそれほど自明なものでしょうか?
水村さんが考えているような「英語の世紀」の到来とそれに伴う日本語の文化的・学問的空洞化は、現在機能している英語圏と日本語圏の知を媒介するシステムのほとんどが機能不全に陥らない限り実現しません。
この英語圏と日本語圏の知を媒介するシステムとして現在大きな役割を果たしているのがウェブであり、「英語の世紀」の到来とは、現在ウェブ上で注目を集めている梅田望夫さんや小飼弾さんのような二重言語者が日本語でブログを書かなくなる事態をも意味するはずです。それが水村さんの本を絶賛するお二人に読者が戸惑いを感じる最大の理由ではないかと思います。
それに加え、水村さんの「英語の世紀」は、梅田さんが『ウェブ進化論』(ちくま新書)以降一貫して称揚してきたWisdom of Crowds(群衆の叡知)とは対極にある思想をベースにしています。
梅田さんはウェブ時代の集合知を担う表現者層を次のように定義しています。
「エリート対大衆」という二層構造ではなく、三層からなる構造で、この総表現社会を見つめてみる必要がある。文章での表現行為ということを例に取れば、いま既存の権威によって表現者として認められた層がだいたい一万人くらいいるとしよう。日本の総人口を一億人と丸めれば、その層の一万人とは、人口全体から見れば、一万人に一人という計算になる。(中略)
私は、この二つの層の間に、総表現社会参加者という層をイメージするべきだろうと考える。一万人でもなく一億人でもない、たとえば一○○○万人(中略)の層。「一万人に一人」ほど稀少ではないけれど「一○人に一人」(中略)くらいの人たちの層。(中略)
「不特定多数無限大の参加は衆愚を招く」と根強く考える人たちに、「百歩譲って一億人なら衆愚かもしれないけれど、一○○○万人だったらどうでしょう」と、私は問いかけてみたいのである。
(梅田望夫『ウェブ進化論』ちくま新書 2006年2月 pp.148-149)
この認識に私は今でも賛同しています。
『日本語が亡びるとき』について、既存のエリート層からは、11月16日の朝日新聞に翻訳家の鴻巣友季子さんが、11月23日の毎日新聞に作家の池澤夏樹さんが書評を発表していますが、このお二人の書評とまったく遜色のない書評がウェブ上にはすでにいくらでもあります。今回の出来事で以上の現状認識の正しさを改めて確認した方も少なくないはずです。
その上で私は、梅田さんに「百歩譲って1万人がみな英語でしか書かなくなるとしても、1000万人がなおも日本語で書き続けるのであれば、日本語は空洞化しないのではないですか」と問いかけてみたいと思います。