先ほど意図的に無視したいじめの問題にもやはり立ち入っておかなければならないでしょう。
血液型を題材にしたテレビ番組も、誤解や偏見、いじめを誘発している。
(大槻義彦『大槻教授の最終抗議』集英社新書 2008年11月 p.124)
一見反論の余地のないほど正しい指摘に見えますが、私たちはこういうタイプの恫喝にかんたんに屈するべきではありません。
この言い分を認めるならば、私たちは「少しでもイヤな思いをする人が生まれる恐れのあるものはすべて社会から追放しなくてはならない」というテーゼに同意せざるをえなくなります。そうなると私たちは、テレビはもちろんのこと、ゲームも、携帯電話も、インターネットも放棄しなくてはならなくなってしまいます。
内田樹先生の言い方にならえば、それは私たちが最も悪質でモラルの低い層を基準とした文化しか享受できなくなることを意味しますが、それは日本語の危機(この話はもういいのでしょうか?)に匹敵するほどの文化の危機ではないでしょうか?
私自身、B型は「自己中」だとか「変人」だとか言われて不愉快な思いをしたことがないわけではありませんが、いじめのような悪質なケースはもちろん看過すべきではないにせよ、多少不愉快な思いをする程度のことは、私たちが必要以上に息苦しくない社会を生きるために甘受すべきコストなのではないでしょうか?
行き過ぎた正義は有害無益な原理主義にほかなりません。また絶対的なルールを振りかざして「いい加減さ」を抑圧しようとする言説は、社会の圧倒的多数を占めるいい加減な人たちの正義に対する憎悪を生みます。
それでも私たちは「正しさ」を尊重して息苦しさに耐えるべきなのでしょうか? 私にはそんなことを主張する勇気はありません。
再度内田先生の言葉を紹介しましょう。
問題は「さじ加減」である。
「さじ加減」についての社会理論というものは存在しない。
社会理論は「あるべき社会」と「あるべき社会に導くための方法」については語るが、「どういうタイミングで」「どの程度の範囲に」「どれくらいの手加減で」といったことについては何も教えれくれない。
けれども、私たちにとって真の実践的関心は実は「さじ加減」にある。
(http://blog.tatsuru.com/2008/11/07_1349.php)
私たちは「正義への憎悪」が危険水域に達することがないようにある程度の「不正義」や「無秩序」を許容する必要があります。
しかし、内田先生が言うように、その「さじ加減」の正しさをいつも保証してくれるような社会理論を私たちは持ち合わせていませんから、私たちは「群衆の叡知」や「三流メディア」を指標としながら、「さじ加減」の「時価」を絶えず見定めていかなくてはなりません。
以上の点については小飼さんにも同意していただけると思います。
なぜ私が全体主義のごとくに耐えられないかと言えば、一言で言えば狭量だからだ。正しいもののみ存在が許されるのなんてまっぴらごめんだ。自分自身、そういう世にあっては真っ先に消される存在だろう。
(http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51139332.html)
私たちの社会が適切な「さじ加減」を維持するためにさしあたり必要なのは、マナーを守らない人たちの悪質なふるまいがちゃんと問題化されることであり、一部のマナーを守らない人たちのためにマナーを守っている人たちの娯楽や利便性まで奪われなければならない必要はまったくありません。
私たちは血液型性格判断ともそのようなつきあい方をしていくべきではないでしょうか?