ファーストシーズンの最終話で主人公刹那・F・セイエイがアザディスタン王国第一皇女マリナ・イスマイールに宛てて書いた手紙に次のような問いがあります。
なぜ、世界はこうも歪んでいるのか。
その歪みはどこからきているのか。
なぜ、人には無意識の悪意というものがあるのか。
なぜ、その悪意に気づこうとしないのか。
なぜ、人生すら狂わせる存在があるのか。
なぜ、人は支配し、支配されるのか。
なぜ、傷つけ合うのか。
なのになぜ、人はこうも生きようとするのか。
(日経エンタテインメント!編『新・大人のガンダム』日経BPムック 2009年2月 p.15)
刹那の問いに、カントならば「自然が望んだからだ」と答えるでしょう。
カントは人間が集団から離れて自分だけで利益を独占しようとする傾向を非社交的な社交性と呼んでいます。これが悪の起源であり、また社会秩序形成の原動力となるものです。
自然が人間のすべての素質を完全に発達させるために利用した手段は、社会においてこれらの素質をたがいに対立させることだった。やがてこの対立関係こそが、最終的には法則に適った秩序を作りだす原因となるのである。対立関係という言葉はここでは人間の非社交的な社交性という意味で理解していただきたい。これは、人間が一方では社会を構築しようとする傾向をもつが、他方では絶えず社会を分裂させようと、一貫して抵抗を示すということである。この素質が人間の性質に内在しているのは明らかである。
(ルビ、傍点略。カント「世界市民という視点からみた普遍史の理念」『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』中山元訳 光文社古典新訳文庫 2006年9月 p.40)
カントは、各人の非社交性(=エゴイズム)が互いに足を引っ張り合い、誰かが突出した利益を得ることを許さないことによって生じる均衡をモデルに社会秩序を考察します。
森ではすべての樹木は、隣の樹木から奪ってできるかぎり多くの空気と太陽を自分のものにしようと、たがいに競って伸びようとする。こうしてどの樹木も、真っ直ぐな幹を上に伸ばすことができるのである。このように、隣の樹からいわば〈強制〉されることがないと、どの樹も自由なままに、枝を好きなところに勝手に伸ばしていくだろう。そして幹は曲がり、いびつに屈曲したまま成長することになるのである。人間にとっての〈飾り〉であるすべての文化と芸術と、きわめて美しい社会的な秩序は、こうした非社交性のもたらした成果なのである。この非社交性は人間に、みずからに規律を課すように強制し、強制されて獲得した技を通じて、自然の萌芽を完全に発展させるのである。(同前 p.45)
人間は、ほかならぬエゴイズムから他者のエゴイズムに制限を求めずにはいられません。非常に窮屈な思想のようにも思えますが、このメカニズムによってこそ逆説的に各人が互いに最大限の自由を尊重し合う市民社会が可能になるとカントは考えます。
この社会において市民たちには最大の自由が与えられる。そして市民たちはどこでも敵対的な関係のもとにありながらも、他者の自由が守られるようにする。そして各人の自由の限界は厳密に規定され、確保されるのである。(中略)だからこれは、だれも抵抗することのできない権力のもとで外的な法律に守られている自由が、できるかぎり最大限に実現されるような社会である。(同前 p.44)
カントのこの課題は現在も変わらず重要な問題であり続けています。
自由についての生産的な議論は結局のところ「社会秩序の維持のために私たちはどの程度の不自由を甘受する必要があるか」に集約されます。これはなんらかの社会問題が発生するたびに争点となり、必要に応じて調整が繰り返され続けなければならない問題です。
カント自身は人類全体が現在よりも道徳的に高級な存在になることを期待していなかったわけではありませんが、それは永遠平和を保障するシステムが完成したあとの課題であると考えていたようです。