平岡公彦のボードレール翻訳日記

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ
退屈について語りあうことに退屈することはできない(オビ1グランプリ落選作)。

書くことは抵抗すること。書くことは生成すること。書くことは地図を作ること。
(ジル・ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳,河出文庫,2007年,p.87)

2009年1月25日(日)

永遠平和のために――『ガンダム00』とカント1

 私設武装組織ソレスタルビーイングの創設者イオリア・シュヘンベルグの生まれる300年前に恒久和平の実現について思索した哲学者がいます。
 
 18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)です。
 
 カントは論文『永遠平和のために』において恒久和平の実現のために必要となる条件を当時の平和条約の様式にならって提示しています。条項は6つの予備条項と3つの確定条項と2つの追加条項および付録からなっています。岩波文庫版の目次から中心となる9つの条項を見てみましょう。


第一章 この章は、国家間の永遠平和のための予備条項を含む
 第一条項 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約
     は、決して平和条約とみなされてはならない。
 第二条項 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であ
     ろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、
     または贈与によって、ほかの国家がこれを取得できるとい
     うことがあってはならない。
 第三条項 常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなけ
     ればならない。
 第四条項 国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行され
     てはならない。
 第五条項 いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をも
     って干渉してはならない。
 第六条項 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時
     における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為を
     してはならない。
 
第二章 この章は、国家間の永遠平和のための確定条項を含む
 第一確定条項 各国家における市民的体制は、共和的でなければな
     らない。
 第二確定条項 国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべ
     きである。
第三確定条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制
     限されなければならない。
(傍点、ページ番号略。カント『永遠平和のために』宇都宮芳明訳 岩波文庫 1985年1月 pp.5-6)


 いずれの条項も永遠平和の実現に不可欠であると思われますが、問題は「どうやってこれを実現させるのか」です。
 
 カントはこの草案を漸進的に拡大する国家連合によって徐々に達成されていくものと考えていました。カントの草案は大量破壊兵器どころか戦車や戦闘機すら存在していなかった18世紀当時であれば十分に実現可能なものだったのではないかとも思えますが、評論家の柄谷行人先生の『世界共和国へ――資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書)によると、この構想はほどなくヘーゲルによって批判されます。


 私はすでに、カントが永遠平和のために、国際連合を構想したことについて述べましたが、それを最初に嘲笑的に批判したのがヘーゲルです。国際連合が機能するためには、規約に違反した国を処罰する実力をもった国家がなければならない。つまり、覇権国家がないかぎり平和はありえない、というのです。
(柄谷行人『世界共和国へ』岩波新書 2006年4月 p.219)


 とはいえ、2度の世界大戦を経験した世界は、漸進的なものであっても国家間の協調を促進していくことの重要性に嫌でも目覚めさせられることになりました。
 
 柄谷先生はこれを皮肉を込めてヘーゲル的な「理性の狡知」に対するカント的な「自然の狡知」の勝利と呼んでいますが、国際連合が「人類史においては初めての偉大な達成」(同前 p.221)であることには同意するものの、先のイスラエルの事例からも明らかなとおり、現在の国連は世界の紛争解決にまったくリーダーシップを取れていません。
 
 それが可能であるかどうかはともかく、未来永劫の存続を願わずにはいられない人類にとって、永遠平和が達成されるべき目標であることには疑問の余地はありませんが、私たちの歴史がそれに向けて少しずつでも進んでいるという保証は残念ながらどこにもありません。
 
 では、イオリア・シュヘンベルグはどのように考えたのでしょうか?


作成者 平岡公彦 : 2009年2月2日(月) 20:32

イオリア・シュヘンベルグの哲学――『ガンダム00』とカント2

 イオリアが出した解決策は、いかなる国家にも属さない圧倒的な軍事力を備えた武装組織を世界に対峙させることです。
 
 全世界共通の敵を作る、つまり世界規模に拡大する「敵の敵は味方」理論によって世界の統一を成し遂げる。『ガンダム00』ファーストシーズンの物語は、そのような敵を実際に生み出すことができたとしたら世界にどのような変化が起こるかをシミュレートしていきます。
 
 ソレスタルビーイングの圧倒的な軍事力の前に無力化した各国の軍隊は存在意義を失い、それによって国家が相互に軍事的脅威となることを克服した世界は協調への道を歩み始める――劇中で語られるイオリア計画の第1段階はここまでであり、この段階の挫折によって計画は第2段階に移っていくのですが、ここではイオリアが最後までその実現に固執したという第1段階のその後に想像をめぐらせてみましょう。
 
 国際連合による恒久和平が実現するまでのあいだはソレスタルビーイングが戦争の抑止力として君臨し続ける必要があります。ただし、彼らはあくまで戦争を不可能にするためだけの存在でなければいけません。彼らが政治権力を要求するならば、彼らはこれまでどおりの征服者にすぎなくなり、その存在意義は瓦解してしまいます。それを避けるためにも、正しい意味で彼らは神でなければならない。
 
 しかし、そんなことが人間に可能でしょうか?
 
 そのためにイオリアが考案したのがヴェーダというイオリア計画の中枢を担うコンピューターシステムです。劇中ではまだその全貌は明かされていませんが、ヴェーダは計画実現のためにイオリアが世界中からスカウトした科学者たちによる集合知の結晶であり、計画のすべての段階において起こりうる事態を正確に予測し、それに対処するプランを指示することにより、全計画を統括します。
 
 ソレスタルビーイングのメンバーにとってヴェーダの推奨するプランは絶対であり、この機械仕掛けの神を創造することによって、イオリアはカントの示した次の課題を解決しようとしました。


 これはもっとも困難であるとともに、人類が最後に解決する問題である。思い浮かべてみただけでも、この問題の困難さがあらわになる課題をあげよう。人間はほかの仲間とともに暮らす際には、一人の支配者を必要とする動物なのである。だれもが他人にたいしては、自分の自由を濫用するのは確実だからである。人間は理性的な被造物としては、すべての人間の自由を制約する法を望むかもしれないが、利己的で動物的な傾向に惑わされて、自分だけはその例外としたがるのである。人間はこのように、各人の意志を砕いて、みずからの意志をすべての人に強制的に押しつけるひとりの支配者を望んでいるのであり、この支配者の意志のもとでのみ、だれもが自由になりうるのである。
 問題なのは、この支配者をどこからつれてくるかということだ。人間は仲間の人類のうちに、この支配者を探すしかないのである。
(傍点略。カント「世界市民という視点からみた普遍史の理念」『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』中山元訳 光文社古典新訳文庫 2006年9月 pp.45-46)


 カントが人類の進歩の最終局面に思い描いた法秩序の完成には、「正しき法」をすべての人間に押しつける支配者が必要となります。しかし、自らも法に従うべき存在でしかない人間がこの支配者となることは本来不可能なことです。ですから戦争の禁止という「正しき法」をすべての人間に押しつける存在も人間であってはならないことになります。
 
 ともあれ、イオリアの計画はヴェーダが人間のアクセスを必要とするシステムであったために破綻します。計画の遂行に人間の意志を介する必要があった以上、歪みが生じるのは不可避であったのかもしれません。計画がより完全なものとなるためには、ヴェーダが自律思考可能なシステムとして構築されている必要があったようです。
 
 しかし、それは真の意味で人間が自らの手で神を創り出すことにほかなりません。

作成者 平岡公彦 : 2009年2月3日(火) 19:54

崇高なるものとしての戦争――『ガンダム00』とカント3

 人類が戦争を克服することを困難にしている障害は政治的なものばかりではなく、人間の感性のなかにも存在しています。
 
 戦争は私たちにとって忌まわしいばかりのものではありません。
 
 カント自身が戦争を憎んでいたことには疑いの余地はないように思われますが、そのカントでさえ戦争に次のような美点があることを否定しません。


 戦争すら、秩序を保ちまた国民法の神聖を認めてこれを尊重しつつ遂行される限り、やはり何かしら崇高なものを具えているし、またそれと同時に、このような仕方で戦争を遂行する国民が、数多の危険にさらされながらもそれに屈することなく戦い抜くことができたならば、その国民の心意をそれだけますます崇高なものにするのである。これに反して長期に亙る平和は、商人気質をこそ旺盛にするが、しかしそれと共に卑しい利己心、怯懦や懦弱の風をはびこらせて、国民の心意を低劣にするのが一般である。
(カント『判断力批判(上)』篠田英雄訳 岩波文庫 1964年1月 p.177)


 後半部分はともかく、前半部分については『ガンダム00』のファンであれば同意できるのではないかと思います。これを読むだけでもカントが決してただの空疎な理想主義者ではなかったことがわかります。
 
 私たちは戦争の悲惨さや世界の現実に苦悩するために『ガンダム00』を見るわけではありません。ガンダムが圧倒的な性能によって次々と敵のモビルスーツを撃ち落していくさまにはやはり視聴者を魅了する美しさや爽快感があるのであり、たとえそれによって粉々になった敵のパイロットや墜落したモビルスーツの下敷きになって命を落とす民間人に想像力が及んだとしても(むしろ『ガンダム00』はそれを直視することを視聴者に要求しています)、それが消えることはありません。
 
 私たちにとって戦争は憧憬や歓喜の対象ですらあります。たとえ現実の世界から戦争が消滅したとしても、私たちの文化と歴史に刻印された戦争が消えてなくなることはありません。人類の歴史が続く限り、私たちは戦場を舞台とした英雄物語や同胞愛の物語を愛し続けるでしょう。
 
 スタンダールを愛読したボードレールも次のように言っています。


 尊敬に値する存在は三つしか存在しない。
 司祭、戦士、詩人。知ること、殺すこと、創ること。
(シャルル・ボードレール「赤裸の心」『ボードレール批評4』阿部良雄訳 ちくま学芸文庫 1999年5月 p.93)


 倫理の名の下にこのような感性に悪の烙印を捺すことはかんたんですが、それによってこの感性が消えてなくなるわけではありません。
 
 私たちのうちに喚起される戦争への欲求は、私たちの感性のうちに固有の位置を占め、充足への渇望を生じさせます。それらは生じうる限りにおいて不可避なものであり、外的強制によって抑圧したとしても、必ずなんらかの形で再帰するものです。
 
 私たちはこのような感性ともつき合っていくほかなく、そのためにはこれをなんとか無害な形で社会秩序のなかに回収し、適切な位置を与える必要があります。
 
 だからこそカントの次の認識は正しい。


 悪魔たちであっても、知性さえそなえていれば国家を樹立できるのだ。(中略)ここで求められているのは、人間を道徳的に改善することではなく、自然のメカニズムを機能させることだからだ。この課題で明らかにする必要があるのは、民族の内部にひそむ敵対的な心情の矛盾を解決して、たがいに強制的な法に服させ、法が効力を発揮できるような平和な状態をもたらすためには、人間にこの自然のメカニズムをどのように利用させればよいかということなのである。
(カント「永遠平和のために」『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』中山元訳 光文社古典新訳文庫 2006年9月 pp.205-206)


 では次に、カントが利用すべきだと考える自然のメカニズムについて見てみましょう。

作成者 平岡公彦 : 2009年2月4日(水) 19:28

エゴイズムによる均衡――『ガンダム00』とカント4

 ファーストシーズンの最終話で主人公刹那・F・セイエイがアザディスタン王国第一皇女マリナ・イスマイールに宛てて書いた手紙に次のような問いがあります。


なぜ、世界はこうも歪んでいるのか。
その歪みはどこからきているのか。
なぜ、人には無意識の悪意というものがあるのか。
なぜ、その悪意に気づこうとしないのか。
なぜ、人生すら狂わせる存在があるのか。
なぜ、人は支配し、支配されるのか。
なぜ、傷つけ合うのか。
なのになぜ、人はこうも生きようとするのか。
(日経エンタテインメント!編『新・大人のガンダム』日経BPムック 2009年2月 p.15)


 刹那の問いに、カントならば「自然が望んだからだ」と答えるでしょう。
 
 カントは人間が集団から離れて自分だけで利益を独占しようとする傾向を非社交的な社交性と呼んでいます。これが悪の起源であり、また社会秩序形成の原動力となるものです。


 自然が人間のすべての素質を完全に発達させるために利用した手段は、社会においてこれらの素質をたがいに対立させることだった。やがてこの対立関係こそが、最終的には法則に適った秩序を作りだす原因となるのである。対立関係という言葉はここでは人間の非社交的な社交性という意味で理解していただきたい。これは、人間が一方では社会を構築しようとする傾向をもつが、他方では絶えず社会を分裂させようと、一貫して抵抗を示すということである。この素質が人間の性質に内在しているのは明らかである。
(ルビ、傍点略。カント「世界市民という視点からみた普遍史の理念」『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』中山元訳 光文社古典新訳文庫 2006年9月 p.40)


 カントは、各人の非社交性(=エゴイズム)が互いに足を引っ張り合い、誰かが突出した利益を得ることを許さないことによって生じる均衡をモデルに社会秩序を考察します。


 森ではすべての樹木は、隣の樹木から奪ってできるかぎり多くの空気と太陽を自分のものにしようと、たがいに競って伸びようとする。こうしてどの樹木も、真っ直ぐな幹を上に伸ばすことができるのである。このように、隣の樹からいわば〈強制〉されることがないと、どの樹も自由なままに、枝を好きなところに勝手に伸ばしていくだろう。そして幹は曲がり、いびつに屈曲したまま成長することになるのである。人間にとっての〈飾り〉であるすべての文化と芸術と、きわめて美しい社会的な秩序は、こうした非社交性のもたらした成果なのである。この非社交性は人間に、みずからに規律を課すように強制し、強制されて獲得した技を通じて、自然の萌芽を完全に発展させるのである。(同前 p.45)


 人間は、ほかならぬエゴイズムから他者のエゴイズムに制限を求めずにはいられません。非常に窮屈な思想のようにも思えますが、このメカニズムによってこそ逆説的に各人が互いに最大限の自由を尊重し合う市民社会が可能になるとカントは考えます。


 この社会において市民たちには最大の自由が与えられる。そして市民たちはどこでも敵対的な関係のもとにありながらも、他者の自由が守られるようにする。そして各人の自由の限界は厳密に規定され、確保されるのである。(中略)だからこれは、だれも抵抗することのできない権力のもとで外的な法律に守られている自由が、できるかぎり最大限に実現されるような社会である。(同前 p.44)


 カントのこの課題は現在も変わらず重要な問題であり続けています。
 
 自由についての生産的な議論は結局のところ「社会秩序の維持のために私たちはどの程度の不自由を甘受する必要があるか」に集約されます。これはなんらかの社会問題が発生するたびに争点となり、必要に応じて調整が繰り返され続けなければならない問題です。
 
 カント自身は人類全体が現在よりも道徳的に高級な存在になることを期待していなかったわけではありませんが、それは永遠平和を保障するシステムが完成したあとの課題であると考えていたようです。

作成者 平岡公彦 : 2009年2月6日(金) 20:54

汝の敵を愛せよ――『ガンダム00』とカント5

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
(『新約聖書』「マタイによる福音書」第5章43節より48節 新共同訳)


 ここで再び先の問題に戻りますと、戦争が崇高であったり、憧憬や歓喜の対象であったりしうるのは、私たちが復讐の正統性を認めていることに一因があります。
 
 ドストエフスキーの不朽の名作『カラマーゾフの兄弟』で、無神論者の次男イワン・カラマーゾフは修道士の弟アレクセイに次のように言い放ちます。


 結局のところ俺は、母親が犬どもにわが子を食い殺させた迫害者と抱擁し合うなんてことが、まっぴらごめんなんだよ! いくら母親でも、その男を赦すなんて真似はできるもんか! 赦したけりゃ、自分の分だけ赦すがいい。母親としての測り知れぬ苦しみの分だけ、迫害者を赦してやるがいいんだ。しかし、食い殺された子供の苦しみを赦してやる権利なぞありゃしないし、たとえ当の子供がそれを赦してやったにせよ、母親が迫害者を赦すなんて真似はできやしないんだよ! もしそうなら、もしその人たちが赦したりできないとしたら、いったいどこに調和があるというんだ? この世界じゅうに、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか? 俺は調和なんぞほしくない。人類への愛情から言っても、まっぴらだね。それより、報復できぬ苦しみをいだきつづけているほうがいい。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(上)』原卓也訳 新潮文庫 1978年7月初版 2004年1月改版 p.617)


 ここで拒否された神の国の調和に代わり、人類愛の名において肯定されているものこそが憎悪であり、復讐心です。
 
 ユダヤ人のナチスドイツに対する憎しみやパレスチナ人のユダヤ人に対する憎しみを不当だと考える人はおそらくほとんどいないでしょう。私たちは無辜の市民を虐殺したナチスドイツやイスラエルの兵士が、いかなる償いもすることなく、罪の意識に苦悩することさえなく、なにごともなかったようにその後の人生を幸せに過ごすことを決して承服できません。
 
 私たちが求める正義とは悪を行った者がそれにつり合った(あるいはそれ以上の)苦痛を受けることであり、そのような形で正義が実現されることに対して私たちがなにがしかの満足感(あるいは充実感や爽快感)を得るとすれば、私たちは他人の苦しみから快感を得ることが場合によっては肯定されうることを認めなくてはいけません。
 
 他人の苦しみから快感を得ることを悪とすれば(もはやそのように断定する根拠は存在しないようですが)、私たちが社会を必要とする以上、私たちの正義は常に悪と一体をなしており、このような悪から逃れることはできません。
 
 憎悪や復讐心は愛であるばかりでなく正義でさえありうる。

 しかし、だからといってこれらの感情が人間にとって好ましいものであるとは言えません。それ自体が苦痛であるからこそ、快癒を求めることに正当性を認めうるのです。

 私たちには別の答えが必要なようです。
 
『ガンダム00』の視聴者が刹那・F・セイエイとアリー・アル・サーシェスが、あるいはルイス・ハレヴィとネーナ・トリニティが笑顔で抱擁し合う結末を認めることは不可能であるように思います。
 
『ガンダム00』は敢えてこの不可能に挑戦するのか否か?
 
 今後の展開に注目していきたいと思います。

作成者 平岡公彦 : 2009年2月7日(土) 20:58

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