村上春樹さんに心から拍手を送りたい。
小飼弾さんと同じく私も村上文学の良き理解者ではありませんでしたが、このスピーチには快哉を叫びました。池田信夫先生の手放しの賞賛はガザの悲劇に心を痛めていた多くの日本人の心情を代弁しているでしょう。
イスラエル人の前でこのようなスピーチを行うことは、受賞を拒否するよりはるかに困難な決断だ。彼の小説はデビュー作が『群像』に載ったときからすべて読んでいるが、このスピーチは彼の最高傑作だ。よくやったよ、君は日本人の誇りだ。
(壁と卵 - 池田信夫 blog)
私は村上さんに日本人を代表するつもりがあったとは思いません。しかし、村上さんが好むと好まざるとにかかわらず、日本人の代表という立場を背負わされることになるだろうという自覚はあったでしょう。それを承知の上でこの唯一無二の舞台で発言しようと決断したとき、村上さんは日本などよりもっとパブリックなものを背負っていたはずです。
テレビニュースで見た村上さんの姿は、私がこれまで目にしたいかなる日本人にも似ていませんでした。賞賛する人々が拍手で迎える舞台の上で、村上さんの表情は終始厳しかった。あらゆる違いを超えて尊重されるべきものへの責任の自覚が、村上さんに微笑を浮かべることさえ禁じていたのだろうと私は思います。
村上さんの用いた壁と卵というメタファーが曖昧であるという批判もあります。しかし、mojimojiさんの言うとおり、それらの比喩がなにを意味しているかは明白です。
私たちは、イスラエルがパレスチナに対して占領し、排除し、入植しているという事実を知っており、そこに非対称性があることを知っている。また、そこで行使されている軍事力の大きさにも、圧倒的な非対称性があることを知っている。私たちは、知っている事実を前提に、このスピーチを読めばよい。そうすれば、「どっちもどっち」に読むことは絶対にできない。
(村上春樹、エルサレム賞授賞式でイスラエルを批判 - モジモジ君の日記。みたいな。)
とはいえ、村上さんのスピーチは集まった700人の聴衆や、メディアを通して彼のスピーチを聴いた多くのイスラエル人を多少なりとも不快にさせたかもしれませんが、彼らに反省を促すほどの力はなかったかもしれません。hokusyuさんの言うように、結局のところ彼らの都合のいいように利用されただけだという見方もできるかもしれません。
しかし、言葉の力を信じ、彼らに壁を取り払うよう語りかけようとする人が、ほかならぬ彼らからの招待を拒むことができたでしょうか?
ただし、この村上氏の講演は、結局は予定調和の枠を出ませんでした。「約700人の聴衆が大きな拍手を送った」というのがそれを証明しています。スーザン・ソンタグと同じく、村上春樹の講演も結局はイスラエルの「寛容さ」をアピールする以上の衝撃を与えませんでした。
(「制度」の中の倫理 - 過ぎ去ろうとしない過去)
それでも彼らの拍手は私たちに尊ばれるべきものがどこにあるかを告げています。それは大量殺戮に賛成した人たちでさえ、たとえポーズであったとしても、それに賛成しているそぶりを見せることで、自分たちがそちらの側にいることをアピールしなければならないほど重要なものであったはずです。
現実にはここで尊重されているものは無力です。しかし、少なくともそれ――普遍的な人間性において一致しうる可能性はまだ軽蔑されてはいません。
そして、もちろんこれで問題が解決されたわけではありません。ここから始まるものが実り多きものとなることを祈りつつ、私自身にできることを考え続けていきたいと思います。
最後になりましたが、村上春樹さん、エルサレム賞受賞、おめでとうございます。