『文藝春秋』4月号に掲載された村上春樹さんのインタビュー「僕はなぜエルサレムに行ったのか」を読みました。
村上さんの「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」(p.168)という発言ばかりがクローズアップされているように思いますが、私はそれよりも、私自身を含め村上さんのスピーチを絶賛した人たちの想いと村上さん自身の想いとのギャップのほうに強い引っ掛かりを感じました。
たとえば、自身のブログでいち早く村上さんのスピーチを讃えた池田信夫先生は、その意義を次のように評価していました。
不思議に人を感動させる文章ですね(みんなそう書いている)。それは彼の置かれた立場(空爆を命じたペレス首相が目の前に座っている)を想像することによる「非文学的」な感動なので、村上氏は拒否するでしょうが。
(壁と卵 - 池田信夫 blog)
私自身も大量虐殺を命じた張本人を目の前で毅然と批判した村上さんの姿になによりも感動しましたし、同じように感動した方も多かったのではないかと思いますが、そのときの心情を村上さん自身は次のように語っています。
ただ、シモン・ペレス大統領には今でも申し訳なかったなと思っています。授賞式の始まるまえに彼に、「僕は十四年前に『ノルウェイの森』を読んだ。君の本は気に入っているよ」と言われました。確かに十年ほど前、彼が演説で『ノルウェイの森』を引用して驚いたことがあります。外交辞令ではなしに、ちゃんと読んでくれているんですね。
ところが、スピーチの途中から最前列に座っている大統領の表情がこわばってきました。スピーチが終わっても席から立とうとしなかった。みなが立って拍手するので、仕方なく立ち上がりましたが、そのあともう和やかという空気はなかった。もちろん推測に過ぎないけど、おそらく彼には彼の立場があったのでしょう。
(村上春樹「僕はなぜエルサレムに行ったのか」『文藝春秋』2009年4月号 文藝春秋 pp.160-162)
村上さんが自身の本の愛読者からの好意を裏切ったことを残念に思うことを咎める資格は誰にもないのかもしれませんし、単純にイスラエルを敵視すべきではないという村上さんのメッセージも十分に理解できるのですが、それでもガザで行われた大量虐殺の最大の責任者に対してあまりにも無防備に表明された村上さんの好意には戸惑わざるをえません。
インタビューで村上さんが繰り返し強調しているのは「割り切れなさ」という感覚です。システムの正義に捕らわれているように見える人たちが感じている「割り切れなさ」に村上さんは期待を寄せています。
ウェストバンクでは有刺鉄線と監視塔のある壁が、ハイウェーに沿って延々と続いています。この壁はイスラエル全土で六百キロ以上あります。ためしに運転手に「この壁は何のためなの」と聞いたら、「動物がハイウェーに出てこないように囲っている」と言う。(中略)
でもそういう発言に対して僕はあえて反論しませんでした。どうしてかというと、そういう主張をする人も、心の底では何か割り切れないものを感じているという雰囲気を強く感じたからです。(同前 p.164)
イスラエルの人たち一人ひとりが感じている「割り切れなさ」に訴えたいという想いを村上さんはあの「壁と卵」というメタファーに託していたのでしょう。
そしてこのインタビューでもシステムではなく個人の側に立つという村上さんのスタンスは強調されています。「大事なのは総論ではなく、一人ひとりの人間です。個人というのがすべての出発点だというのが僕の信念です」(p.162)という言葉に示されているとおり、村上さんが突破口を見出そうとしているのは個人と個人のあいだに築かれる友好関係です。
そこから拓ける道がどれだけ狭く頼りないものであったとしても、それを信頼することだけは放棄してはならない。それが村上さんのスピーチから私たちが受け取るべき一番大切なメッセージだったのかもしれません。