今回なにより私が平野啓一郎さんに感謝したいのは、ポール・オースターの『幽霊たち』(新潮文庫)を紹介していただいたことです。
もちろん著名な作家だということくらいは知っていたのですが、なぜかこれまでまったく縁がなく、手に取る機会がありませんでした。『小説の読み方 感想が語れる着眼点』(PHP新書)での平野さんの解説からはこの小説の魅力が十分に伝わってきましたから、読み終えてからすぐに購入しました。
かんたんにあらすじを紹介しますと、私立探偵のブルーがホワイトという謎の人物からブラックという人物を監視するように依頼され、ホワイトが用意したアパートの一室からちょうど向かいにあるブラックの部屋を監視し続けるという話です。しかしいくら監視していてもブラックの日常にはなんら不審なところはなく、ブラックはだんだん自分の仕事に対する疑問を募らせていきます。
この小説の見どころは、なんといっても自分が置かれた不可解な状況に耐えられなくなったブルーの思考がだんだんと常軌を逸していくところです。そこまでの心理の流れが非常にリアルに描かれていますから、読んでいてどんどん引き込まれます。
たとえば、ブルーは変装してはじめて接触したブラックの印象を次のように振り返ります。
話の内容自体は当面の事態と何も関係なかったにもかかわらず、実はブラックは終始、まさに当面の事態について語っていたのではないか。そうブルーは感じずにはいられない。ブルーに何かを伝えようとしたのだけれど、直接口に出すわけにもいかず、遠回しのたとえ話をした、そんな感じなのだ。ブラックは実に友好的だったし、この上なく気持ちよい態度でブルーに接してくれた。それでもなおブルーは、相手がはじめからこっちの意図に感づいていたのではないかという思いを捨て去ることができない。
(ポール・オースター『幽霊たち』柴田元幸訳 新潮文庫 1995年3月 p.85)
モノローグはこれで終わりではなく、このあとも延々とブルーの自問自答は続き、さらに常軌を逸していきます。そしてついにはそれが行動にまで表れるようになっていくのですが、これ以上は直接小説に当たってみてください(ちなみに平野さんが紹介しているシーンはこれよりかなりあとの場面です)。
カフカやベケットに似ているという感想は訳者の柴田元幸先生が「訳者あとがき」で書いておられますので、もうちょっと気の利いたことを言うと(笑)、作中のブルーとブラックのやり取りはドストエフスキーの『罪と罰』(新潮文庫など)のラスコーリニコフとポルフィーリイの対決を彷彿とさせますし、ストーリー全体の構造はファウルズの『魔術師』(河出文庫)によく似ています(特に後者とは直接的な影響関係を勘ぐりたくなります)。
平野さんの解説によれば、この作品はポストモダン文学と目されているそうです。ファウルズの『魔術師』もそうですが、ストーリーを動かす事件の秘密になんらかの重大な意味が隠されているように思わせておいて肩透かしを食わせるところにこういうタイプの小説の共通点があるようです。
もちろんこの事件自体の不可解さは私たちにさまざまな寓意的解釈を許します。ポストモダン的なテーマと関連づけるなら、「主体性とはなにか」、「他者とはなにか」といったテーマをこの作品から読み取ることは可能です。このほかにも読む人によっていくらでも異なったとらえ方ができるでしょう。
本文自体は120ページ程度と非常に短い小説ですが、まだまだ汲み尽くせない魅力を秘めた作品です。ポストモダン文学入門として、たくさんの人にお薦めしたい一冊です。

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