平岡公彦のボードレール翻訳日記

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ
退屈について語りあうことに退屈することはできない(オビ1グランプリ落選作)。

書くことは抵抗すること。書くことは生成すること。書くことは地図を作ること。
(ジル・ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳,河出文庫,2007年,p.87)

2009年4月29日(水)

殉教なきパッション――ジャック・デリダ『パッション』を読む

 前回の記事を池田信夫さんのブログにトラックバックしたところ、格別のご紹介をいただき感激しています。感謝の意味も込めて、今回も池田さんの記事にお答えする形で再度デリダとともに希望について考えてみたいと思います。


あまりにも救いのない状況が20年近く続いたため、若者は希望を求めることも忘れ、終身雇用に回帰しはじめている。しかし実は、もう会社にも帰るべき共同体はない。すべての対立軸が溶解したいま必要なのは、ニーチェが説いたように、希望が存在しないという根源的不安に向き合うことかもしれない。パンドラの箱が開いてあらゆる災厄が出たあと、残ったのは希望だったが、むなしい希望こそゼウスが人間に与えた最悪の災厄だったのである。
メシアニズムなきメシア的なもの - 池田信夫 blog


 前回の繰り返しになりますが、私たちには決して「なにも望まないこと」はできません。ですからいわゆる「大きな物語」の凋落は決してメシアニズムの終焉を意味することはなく、すでに限界の明らかな「終身雇用」や「社会福祉」や「共同体」のような「よりましなもの」、「対症療法的なもの」、「回帰すべきもの」としての既存の諸メシアニズムに対する期待はむしろ大きくなります。私たちはたとえまったく希望がないとしても、少なくともこの有限性の悪循環によって社会が今よりも悪い方向に向かわないように、絶えずそれを超えた打開策を模索し続けざるをえません。
 
 またほかの方も指摘しているように、池田さんが「希望を捨てる勇気」と語るとき、それはいつも同時に「希望を捨てる」ことは「よい」ことだというメッセージ、つまりある種の救済の約束、肯定の福音として受け取られる可能性があります。この「絶望についての言説も希望のディスクールに従う」というパラドックスは、肯定を求める無限運動のうちに私たちを幽閉します。再び繰り返しになりますが、人間は自らを肯定するためには「無」すら利用しようとするものです。
 
 この2つの絶望、有限性の絶望と無限性の絶望は、ともに私たちを絶望に安住することを許さない絶望、ある脱構築された絶望、「絶望することができない絶望」へと導きます。そして「メシア的なもの」の可能性は、この有限性と無限性という2つの限界によって、この宙吊り状態、私たちがつねに「約束の地」を奪われた状態にあることによって開かれ、それはこの否定の無限運動の彼方へ向けて絶えず私たちを誘惑し続けます。


 シミュラークル〔模擬〕がある一つの可能性を証言している、つまりその模擬をのり超える可能性を証言しているとすれば、こういうのり超えはずっと残る(中略)のである。こののり超えは(中略)そのままであり続ける(中略)。たとえ、まさしくひとはここで、いかなる証人、そうと規定しうる証人にも信を置くことができないとしても、また証言の価値、どんな保証された価値にも信を置くことができないとしても、つまり言い換えれば、いかなる殉教(中略)の歴史も信用することができないとしても、そうなのである(中略)。なぜなら、ある一つの証言の価値を、知の価値、もしくは確信の価値と和解させるようなことはありえないから。それは不可能だし、そうしてはならない。
(ジャック・デリダ『パッション』湯浅博雄訳 未來社 2001年3月 pp.70-71)


 メシアニズムはなんらかの決断、飛躍、創造(「のり超え」)に属する問題を、たんなる選択、反復、模倣(シミュラークル)の問題へと後退させることによって逆説的にその可能性を開示します。私たちを「メシア的なもの」から遠く隔てつつ駆り立てるこの構造を、デリダは「殉教なきパッション」(同書p.71)と呼んでいます。この受難、この情熱は、私たちにあらゆる絶望、あらゆるメシアニズムに抗して前に進むことを命じています。ここからデリダの有名な「脱構築は正義である」という思想が導かれることになります。
 
 その意味で「メシア的なもの」とは希望であると同時に絶望なのであり、私たちは「問題は選択することではない」と囁くデーモンの顔をしたメシアに永遠に悩まされ続けるでしょう。

作成者 平岡公彦 : 2009年4月29日(水) 20:47

2009年4月26日(日)

希望とはなにか――東浩紀『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』を読む

 引き続き希望について考えてみたいと思います。


そのキーワードは「希望」のようだ。救いのない状況に置かれたとき、人は「今ここにないもの」に希望を求める。古代ユダヤ教が故郷をもたないユダヤ人に信じられたのも、ウェーバーが指摘したように「救いは地上ではなく天上にある」という徹底した現世否定的な性格のゆえだった。キリスト教が激しい弾圧に耐えてローマ帝国の貧民に広がったのも、この世の終わりがまもなくやってきて、現世で救われない者ほど神の国で救われるという終末論のためだった。
希望について - 池田信夫 blog


 かつて希望の問題とはもっぱら幸福追求の問題だと考えられていた時代がありました。しかし現在はそれが私たちの基本的な生存条件の問題にまで後退してしまっています。池田信夫さんの記事で問題となっているのも後者に近い幸福追求の条件の問題です。ですから今ある水準以上の生活条件の享受を前提とする「満たされなさ」の問題を考えることは少々的はずれかもしれません。それでも希望の問題とともに「幸福とはなにか」について考察することには意味があるだろうと思います。
 
 幸福の問題の最大の困難は、私たちは「自分の人生をどうにかしたい」と望みながらも、究極的には「自分がなにを望んでいるのかわからない」ことにあります。
 
 幸福は「予測可能な幸福」と「予測不可能な幸福」の2つに大きく分類することができます。予測可能な幸福とは私たちの望みが実現することであり、予測不可能な幸福とは私たちの興味を引くなにか新鮮で刺激的で快適なできごとが起こることです。どちらも私たちの人生において重大な関心事であり、どちらかが一方よりも重要だというようなことは言えません。
 
 とはいえ予測可能な幸福はその限界をかんたんに画定できてしまうため、それはつねに絶望と紙一重です。それがどれほど私たちの意に適ったものであっても、定義可能なもの、予測可能なもの、限界画定可能なものは私たちに虚しさや閉塞感をもたらします。たとえ死が存在せず、永遠にそのような幸福を享受できることが約束されたとしても、この限界は私たちを窒息させるでしょう。従来の希望の問題は、この閉塞感をどのように解消するかについての試行錯誤でした。
 
 ですから希望はそのような限界を超えた未知のもの、予測不可能なものと関係している必要があります。希望とはそのような「なにか」が到来する可能性であり、その限りにおいていかなる具体性も持つことはありません。
 
 以上のような2つの幸福と希望との関係を、ジャック・デリダ「メシアニズム」「メシア的なもの」という区別で説明しています。ここでは東浩紀さんの『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』(新潮社)の解説を見てみましょう。


 九三年の講演『マルクスの亡霊たち』において、デリダは「メシアニズム」と「メシア的なもの(中略)」という区別を導入している(中略)。予測可能な、もしくはすでに予測された未来を希求する終末論的な「メシアニズム」と、予測不可能な未来に曝され、むしろ現在の自分が脅かされる経験としての「メシア的なもの」。(中略)現在への批判は予測不可能な未来への希望、デリダが言う「約束(中略)」の観念なしには実行不可能であり、マルクス主義もまたその「約束」を保持するかぎりで革新的影響力を保ってきたと彼は考える。
(東浩紀『存在論的、郵便的』新潮社 1998年10月 p.105)


 デリダの用語法が象徴しているように、希望はつねに救済と関連づけられています。ニーチェ『道徳の系譜』(木場深定訳 岩波文庫)の末尾で「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである」(傍点略 p.208)と述べているとおり、私たちに不可能なのは「なにも望まないこと」です。
 
 池田さんが危惧するように、不在の表象としての希望は絶えずニーチェ的な「無」が君臨する玉座となる危険性に曝されています。私たちは絶えず偽りのメシアニズムを警戒しなくてはなりません。希望をどのように扱うかは私たちの社会の切実な課題であり続けるでしょう。

作成者 平岡公彦 : 2009年4月26日(日) 22:56

2009年4月25日(土)

オプティミズムについて――カミュ『シーシュポスの神話』を読む

 池田信夫さんのブログの記事「希望を捨てる勇気」が大きな反響を呼んでいます。


こういう将来を合理的に予測すれば、それに適応して生活を切り詰め、質実で「地球にやさしい」生活ができる。(中略)「明日は今日よりよくなる」という希望を捨てる勇気をもち、足るを知れば、長期停滞も意外に住みよいかもしれない。幸か不幸か、若者はそれを学び始めているようにみえる。
希望を捨てる勇気 - 池田信夫 blog


 この記事を読んで思い出したのが、カミュ『シーシュポスの神話』(新潮文庫)のなかの次の部分です。


 天のない空間と深さのない時間とによって測られるこの長い努力のはてに、ついに目的は達せられる。するとシーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下のほうの世界へところがり落ちてゆくのをじっと見つめる。その下のほうの世界から、ふたたび岩を頂上まで押し上げてこなければならぬのだ。かれはふたたび平原へと降りてゆく。
(中略)この男が、重い、しかし乱れぬ足どりで、いつ終りになるかかれ自身ではすこしも知らぬ責苦のほうへとふたたび降りてゆくのを、ぼくは眼前に想い描く。いわばちょっと息をついているこの時間、かれの不幸と同じく、確実に繰返し舞い戻ってくるこの時間、(中略)かれは自分の運命よりたち勝っている。かれは、かれを苦しめるあの岩よりも強いのだ。
(カミュ『シーシュポスの神話』清水徹訳 新潮文庫 1969年7月初版 2006年9月改版 pp.212-213)


 カミュはこの勝利に人間の尊厳を見出します。しかし「ふたたび平原へと降りてゆく」ことのできない敗者を救う言葉はこの美しいエッセイにはありません。それは私たちに別の困難な問題を提示していますが、ここではカミュの言う「強さ」について考えてみたいと思います。
 
 ニーチェがどれほど口をきわめて罵ろうと、おそらく人間は「なにかに縋りつきたい」という弱さから自由になることはできません。私たちはつねにカミュの言う「強さ」の、つまり「不条理を引き受ける意志」のよりどころを求めてしまいます。しかし人生において人がなしうるいかなる努力も究極的には決して報われないものである以上、不条理は私たちに「なにも受け取ることなく人生を肯定せよ」と命じています。「肯定すること」は私たちが人生を意義あるものと感じるための不可欠の条件ですが、その意味でそれは希望にも絶望にも根拠を求めることのできないものです。
 
 ここで背理に陥ることを警戒しつつ、カミュ的な「強さ」を「無償の肯定」と定義するなら、この「強さ」はたんなる肯定性を超えて限りなくオプティミズムに接近することになります。しかしfromdusktildawnさんの言うとおり、オプティミズム自体は無条件に肯定されるべきものではなく、つねにペシミズムとの緊張関係において選択される必要があります。


 希望の可能性を十分に吟味せずにペシミズムの殻に閉じこもることが不健康であるのと同じように、絶望しきっていないオプティミズムには、軽薄臭が漂う。
なんでも悲観的に考える人と、なんでも努力すれば何とかなるという人 - 分裂勘違い君劇場


 かつて梅田望夫さんはオプティミズムを次のように定義していました。


 オプティミズムとは、まったくもって「意志」の問題なのである。死や病を免れ得ない人間にとって、悲観主義こそ「自然」で「生来」なものなのであって、オプティミズムとはそれを超えていく意志のことなのである。「これから直面する難題を創造的に解決する」ためには、我々一人ひとりがオプティミズムという「意志」を持つことがどうしても必要不可欠なのだ、ということを、僕はいまも相変わらず言い続けたいのである。
悲観主義とオプティミズム - My Life Between Silicon Valley and Japan


 逆説的に言えば、あらゆる明るい見通しが凋落した現在こそ、真のオプティミズムの時代であると言えるかもしれません。

作成者 平岡公彦 : 2009年4月25日(土) 19:02

2009年4月12日(日)

『巡音ルカ』にボードレールの詩を朗読させてみた

『巡音ルカ』によるボードレールの訳詩の朗読が完成しました。
 
 今回の朗読は『悪の華[1857年版]』75番目の詩「月の哀しみ」です。
 
 そろそろ『がくっぽいど』の朗読ばかりではなく女声の朗読も試してみたいなと思っていたところに、今年1月、ちょうどいいタイミングでクリプトンのキャラクター・ボーカル・シリーズ第3弾『巡音ルカ』が発売となりました。
 
 声を担当なさった声優の浅川悠さんの声は、ハスキーななかにも透明感のある落ち着いた声質で、『初音ミク』や『鏡音リン・レン』のようなアニメっぽさもなく、ボードレールの詩のイメージともうまくマッチします。
 
 しかし、実際に使ってみると思った以上に苦戦させられました。
 
 使ってみる前は『がくっぽいど』で作ったファイルをちょっといじればうまくいくだろうと思っていたのですが、実際に『がくっぽいど』のファイルのキーを上げただけのものを読ませてみると、驚くほどおかしな朗読になってしまい、結局はほぼすべての音を最初から検討し直さなくてはならなくなりました。
 
 たとえば、「平岡公彦のボードレール翻訳日記へようこそ!」の楽譜を比較すると、こんな感じになります。


『がくっぽいど』楽譜
ひ(D2)ら(E2)お(E2)か(F2)き(D2)み(Eb2)ひ(C#2)こ(C2)の(C#2)ぼ(D2)お(Eb2)ど(E2)れ(E2)え(C#2)る(B1)ほ(D2)ん(Eb2)や(E2)く(D2)に(D2) き(C2)え(B1)よ(D2)お(Eb2)こ(C2)そ(A1)
 
『巡音ルカ』楽譜
ひ(Bb2)ら(C3)お(C#3)か(C#3)き(C3)み(B2)ひ(A2)こ(A2)の(G#2)ぼ(Bb2)お(C3)ど(C#3)れ(C#3)え(B2)る(G#2)ほ(Bb2)ん(B2)や(C#3)く(C3)に(C#3) き(B2)え(A2)よ(C3)お(D3)こ(B2)そ(G2)


 ボーカロイドを使ったことのない人にはまったく意味不明だと思いますが(笑)、カッコ内のアルファベットと数字の組み合わせが音符にあたり、音はA1、Bb1、B1、C2、C#2…D3の順に高くなります。小さい「つ」は一字空きです。
 
 ボーカロイドをお持ちの方は再現してみていただければ、音の高さだけではなく、音符の配置が描く波線もぜんぜん違うことがわかると思います。この違いは声質の違いによるもので、性差よりも、それぞれのボーカロイドの個性によるところが大きいように思います。
 
 ただ、『がくっぽいど』と比べると、『巡音ルカ』はやや不安定さが目立つような気がします。
 
 バイルンガルであることと関係があるかどうかはわかりませんが、『巡音ルカ』はサ行とハ行の発音にクセがあり、それらの音が文の頭に来ると、発声の前に「!」が入っているように聴こえます。話し方も『がくっぽいど』よりたどたどしいので、帰国子女みたいなしゃべり方になってしまいます(笑)。もっとも、朗読がたどたどしいのは私の技術不足のせいかもしれませんが(笑)。
 
 朗読ではできるだけ目立たないようにしたつもりですが、うまくいっているかどうかはみなさんの判断におまかせします。『巡音ルカ』とボードレールの150年の時を超えたコラボレーションをお愉しみください。
 
 次の記事「月の哀しみ(『巡音ルカ』朗読)」の一番下にある「聴く」というボタンをクリックすると聴くことができます。『がくっぽいど』の朗読のほうにもリンクを張っておきおますので聴き比べてみてください。
 
 みなさんの感想とアドバイスをお待ちしております。


 最後に非常に残念なお知らせがあります。
 
 4月末をもってジオログのポッドキャストサービスが終了することになってしまったため、新しい朗読の公開は今回が最後となります。サービス終了後も音声ファイルは引き続き聴くことができるそうなので、これからも気が向いたときに聴きに来ていただければ幸いです。



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作成者 平岡公彦 : 2009年4月14日(火) 21:25

月の哀しみ(『巡音ルカ』朗読)

月の哀しみ(1857年版)
             シャルル・ボードレール


今宵 月はひときわもの憂げに夢を見ている
いくつものクッションの上に横たわる美女が
眠りにつく前のひととき その胸の膨らみを
ぼんやりと軽やかな手つきで愛撫するように
 
その柔らかに雪崩を打つ繻子の背を下にして
消え入るような長き昏睡に身をゆだねたまま
空の蒼のうちへと花開くかのように立ち昇る
いくつもの白き幻影に その瞳を彷徨わせる
 
時折この地上へと 無為のもの憂さのあまり
その人知れぬ涙をただひと雫 こぼしたなら
眠りとは相容れぬ ひとりの敬虔なる詩人は
 
猫眼石の破片のように虹色に煌めく光を映す
その蒼白き涙を 手のひらのくぼみに受けて
太陽の眼のとどかぬ 心の奥へとしまい込む



(平岡公彦訳『悪の華[1857年版]』文芸社 2007年6月 p.144)


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作成者 平岡公彦 : 2009年4月14日(火) 21:08

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