池田信夫さんのブログの記事「希望を捨てる勇気」が大きな反響を呼んでいます。
こういう将来を合理的に予測すれば、それに適応して生活を切り詰め、質実で「地球にやさしい」生活ができる。(中略)「明日は今日よりよくなる」という希望を捨てる勇気をもち、足るを知れば、長期停滞も意外に住みよいかもしれない。幸か不幸か、若者はそれを学び始めているようにみえる。
(希望を捨てる勇気 - 池田信夫 blog)
この記事を読んで思い出したのが、カミュの『シーシュポスの神話』(新潮文庫)のなかの次の部分です。
天のない空間と深さのない時間とによって測られるこの長い努力のはてに、ついに目的は達せられる。するとシーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下のほうの世界へところがり落ちてゆくのをじっと見つめる。その下のほうの世界から、ふたたび岩を頂上まで押し上げてこなければならぬのだ。かれはふたたび平原へと降りてゆく。
(中略)この男が、重い、しかし乱れぬ足どりで、いつ終りになるかかれ自身ではすこしも知らぬ責苦のほうへとふたたび降りてゆくのを、ぼくは眼前に想い描く。いわばちょっと息をついているこの時間、かれの不幸と同じく、確実に繰返し舞い戻ってくるこの時間、(中略)かれは自分の運命よりたち勝っている。かれは、かれを苦しめるあの岩よりも強いのだ。
(カミュ『シーシュポスの神話』清水徹訳 新潮文庫 1969年7月初版 2006年9月改版 pp.212-213)
カミュはこの勝利に人間の尊厳を見出します。しかし「ふたたび平原へと降りてゆく」ことのできない敗者を救う言葉はこの美しいエッセイにはありません。それは私たちに別の困難な問題を提示していますが、ここではカミュの言う「強さ」について考えてみたいと思います。
ニーチェがどれほど口をきわめて罵ろうと、おそらく人間は「なにかに縋りつきたい」という弱さから自由になることはできません。私たちはつねにカミュの言う「強さ」の、つまり「不条理を引き受ける意志」のよりどころを求めてしまいます。しかし人生において人がなしうるいかなる努力も究極的には決して報われないものである以上、不条理は私たちに「なにも受け取ることなく人生を肯定せよ」と命じています。「肯定すること」は私たちが人生を意義あるものと感じるための不可欠の条件ですが、その意味でそれは希望にも絶望にも根拠を求めることのできないものです。
ここで背理に陥ることを警戒しつつ、カミュ的な「強さ」を「無償の肯定」と定義するなら、この「強さ」はたんなる肯定性を超えて限りなくオプティミズムに接近することになります。しかしfromdusktildawnさんの言うとおり、オプティミズム自体は無条件に肯定されるべきものではなく、つねにペシミズムとの緊張関係において選択される必要があります。
希望の可能性を十分に吟味せずにペシミズムの殻に閉じこもることが不健康であるのと同じように、絶望しきっていないオプティミズムには、軽薄臭が漂う。
(なんでも悲観的に考える人と、なんでも努力すれば何とかなるという人 - 分裂勘違い君劇場)
かつて梅田望夫さんはオプティミズムを次のように定義していました。
オプティミズムとは、まったくもって「意志」の問題なのである。死や病を免れ得ない人間にとって、悲観主義こそ「自然」で「生来」なものなのであって、オプティミズムとはそれを超えていく意志のことなのである。「これから直面する難題を創造的に解決する」ためには、我々一人ひとりがオプティミズムという「意志」を持つことがどうしても必要不可欠なのだ、ということを、僕はいまも相変わらず言い続けたいのである。
(悲観主義とオプティミズム - My Life Between Silicon Valley and Japan)
逆説的に言えば、あらゆる明るい見通しが凋落した現在こそ、真のオプティミズムの時代であると言えるかもしれません。