平岡公彦のボードレール翻訳日記

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ
退屈について語りあうことに退屈することはできない(オビ1グランプリ落選作)。

書くことは抵抗すること。書くことは生成すること。書くことは地図を作ること。
(ジル・ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳,河出文庫,2007年,p.87)

2009年5月31日(日)

美の力――スーザン・ボイルとカント

 どこかしら不恰好なところのないものは、非情な様子に見える。――そこから、不規則さ、すなわち思いもうけぬもの、不意打ち、驚きが、美の本質的な一部分であり、特徴である、ということが出て来る。
(シャルル・ボードレール「火箭」『ボードレール批評4』阿部良雄訳 ちくま学芸文庫 1999年5月 p.49)


 スーザン・ボイルさんの歌声には私も度肝を抜かれました。



 そしてそれが池田信夫さんのブログで紹介されたのを見て2度驚きました(笑)。


2億2000万回も再生されてYouTube史上最大のセンセーションとなったSusan Boyleは、素人のど自慢の準決勝では音をはずしたが、無事に決勝に進出した。しかし、やはり予選の映像が圧倒的におもしろい。47歳のオバサンの意外な美声と、それに驚く審査員のリアクションが劇的だ。
Susan Boyle - 池田信夫 blog


 スーザンさんの歌はほんとうにすばらしいものでしたが、毒之助さんの言うとおり、このお祭りの背景には容姿差別や年齢差別を当然とするような空気があることは無視すべきではないでしょう。その点については毒之助さんの記事を読んでいただくとして、ここではそういった差別を覆すほどの彼女の歌声の力について考えてみたいと思います。
 
 池田さんの言うように、スーザンさんの歌声が会場全体を覆っていた冷ややかな空気を覆していくさまは確かに劇的です。審査員の3人も証言しているとおり、彼女の歌には聴く人を「恐れ入ら」せ、それを遇するにふさわしい態度を「目覚め」させる力があったことは間違いありません。美のこの力はまさに威力と呼ぶにふさわしい「強度」をそなえています。
 
 美の威力は、彼女の容姿が私たちに喚起する道徳的義務を超えて、またそれとは別次元の義務を課し、尊重するように命じます。その義務とは「優れたものへの尊敬」です。この義務はカント『実践理性批判』(1788年)のなかで「道徳法則への尊敬」と呼んだものに非常によく似ています。この義務は前者の道徳的義務ともからみ合い、それにさらなる正当性と重みを与えます。


 道徳的法則は、知性的原因性としての自由の形式であるから、この法則は我々のうちにある主観的な対立物としてのこれらの傾向性に反対して、独りよがりを貶しめると同時に、実にそれ自身が尊敬の対象となるのである。そればかりでなく道徳的法則は、独りよがりを打ちのめしてこれを遜らせることによって、最大の尊敬の対象となり、従って或る積極的感情――換言すれば、経験的起源をもたないような、そしてまたア・プリオリに認識されるような感情の根拠にもなるのである。
(ルビ、傍点略。カント『実践理性批判』波多野精一/宮本和吉/篠田英雄訳 岩波文庫 1979年12月 p.155)


 審査員たちが口にした「すばらしい」という言葉には「あなたの歌はすばらしい」と「あなたはすばらしい」という2つの賞賛がからみ合っています。この2つを区別することは困難です。この言わば技術への賞賛と一体となった彼女の人格への賞賛は、「尊敬すべき人物」とまではいかないまでも、「敬意をもって遇すべき人物」という評価が彼女に与えられたことを意味しています。
 
 この敬意によって私たちは当初の彼女への嘲笑を密かに帳消しにしてもいるわけですが、美は道徳的な当為以上の強さをもって私たちをこの敬意への義務に拘束し、この義務は普段私たちの意識に上ることすらない深層において私たちの意識のあり方を規定しています。もしも美の本質というようなものがあるとすれば、それは否応なく私たちを敬虔にさせるこの威力の謎にこそ求められるのでしょう。


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作成者 平岡公彦 : 2009年6月1日(月) 07:58

美と関心――スーザン・ボイルとニーチェ

 美は私たちに義務を課す。美のこの道徳的な側面に批判を向けたのがニーチェです。ニーチェは『道徳の系譜』(1887年)のなかで次のようにカントを批判しています。


 カントは言った、「美とは関心なしに心に適うものである」と。関心なしに! 諸君はこの定義と、一人の本当の「観賞家」、芸術家が与えたもう一つの定義とを比較してみるがよい。――スタンダールはかつて美を《幸福の一つの約束》と呼んだ。ここでは少なくとも、カントによって美的状態における唯一の著しい特性とされた当のもの、すなわち《無関心性》が拒否され、抹消されている。カントとスタンダールと、そのいずれが正しいか。――勿論わが美学者たちがカントに味方して、美の魔力のもとに一糸をも纏わぬ女の彫像をさえも「関心なしに」観照しうると言い張るならば、諸君は恐らく彼らには損な笑いをちょっぴり洩らしてよいであろう。
(ルビ、傍点略。ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 岩波文庫 1940年9月初版 1964年10月改版 p.128)


 ニーチェはカントの美学のなかに彼が理解した意味での関心、つまり性欲の否定を見出し、これをキリスト教的な禁欲主義の理想であると罵倒します。もちろんニーチェのこの理解は間違いなのですが、参考までに問題とされているカントの『判断力批判』(1790年)のテクストを見てみましょう。


 趣味とは、或る対象もしくはその対象を表象する仕方を、一切の関心にかかわりなく適意或は不適意によって判定する能力である。そしてかかる適意の対象が即ち美と名づけられるのである。
(傍点略。カント『判断力批判(上)』篠田英雄訳 岩波文庫 1964年1月 p.84)


 カントを読んだことのない方には「適意」「不適意」という表現はちょっとわかりにくいかもしれませんが、ここでは「良し悪し」程度の意味です。さらに乱暴に単純化するなら、「一切の関心にかかわりなく」とは「好き嫌いに関係なく」という意味であり、この区別がたとえば「スーザンさんの歌は美しいとは思うけれども好みではない」というような趣味判断を可能にしているわけです。ですからカントは「良し悪し」と「好き嫌い」は関係ないというごくあたりまえのことを言っているにすぎません。
 
 このように書くとただのニーチェ批判で終わってしまいそうですが、ここに認識と評価の違いという視点を導入すると、もう少し違った見方をすることができます。というのも、カントは美学的判断の主観性に留意しつつも、やはりその純粋な形式を客観的な認識をモデルに考えているからです。
 
 デリダが批判しているとおり、コンスタティブ(事実確認的)な言説パフォーマティブ(行為遂行的)な言説を厳密に区別することは不可能です。もしも純粋な認識というものがあるとすれば、それはコンスタティブにしか表明しえないはずですが、たとえば私たちがあるものが「美しい」という認識を表明した瞬間に、それは同時にあるものを「美しい」と積極的に評価するパフォーマティブな機能を持ってしまうように、純粋にコンスタティブな言説を表明することは不可能です。
 
 そして言うまでもなく評価は恣意的な関心によって大いに左右されます。スーザンさんの場合、私たちはたんに彼女の技術に感動しているわけではなく、彼女の歌声の美しさと渾然一体となったある内面的な美しさに感動しているわけです。たとえば彼女が歌ではなくピアノの腕前を披露していたならおそらくこれほどの反響は呼ばなかったでしょう。彼女の人生や選曲の巧みさが引き合いに出されるのもそのためです。声と物語と芸術の三位一体によって表象された精神性は彼女の人格への敬意にも結びついています。これらの関心はいくらか美学的判断の純粋性を損なっているでしょうが、だからと言って不当なものであるとは言えません。
 
 もちろんスーザンさんの場合、「意外な」という逆説が彼女の歌の評価を適当でない仕方で高騰させていることは間違いありません。なによりも同情を嫌悪したニーチェならば、「同情によって評価が左右されてはならない」と言われればおそらく同意したでしょう。


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作成者 平岡公彦 : 2009年5月31日(日) 21:02

2009年5月30日(土)

ノマドとメシア――ジル・ドゥルーズ「ノマドの思考」を読む

 今回は最近池田信夫さんが注目しているノマドについて考えてみたいと思います。


ドゥルーズ=ガタリもいうように資本主義は、ノマドが既存の秩序を「脱コード化」し、差異化することによってつねに変化するシステムだからです。また人類の歴史の中でも、定住生活が始まったのはここ1万年以内のことなので、定住志向は遺伝的なものではありえない(ただ類人猿にも縄張りはあるので、人類にも定住に適した遺伝子はあるでしょう)。
アゴラ  ノマドの反乱 - 池田信夫


 池田さんが援用しているドゥルーズのノマド論については、1972年に行われたシンポジウムで発表された「ノマドの思考」というテクストがありますので、まずはそちらを見てみましょう。


 農村的共同体からなる領土はその中心部において、書記や神官や役人を率いた専制君主の官僚機械に支配され、固定化しているのは確かです。しかし周辺部では、共同体はもうひとつの種類の冒険に、今度はノマド的なもうひとつの種類のまとまりに、しかるべきノマド的な戦争機械に組み込まれていて、超コード化されるままでいる代わりに脱コード化するわけです。もろもろの集団全体が旅立ち、ノマド化するわけです。
(ルビ略。G・ドゥルーズ「ノマドの思考」本間邦雄訳 J・デリダ/G・ドゥルーズ/J=F・リオタール/P・クロソウスキー『ニーチェは、今日?』林好雄/本間邦雄/森本和夫訳 ちくま学芸文庫 2002年1月 pp.185-186)


 ここでノマドに組み込まれているとされている「戦争機械」としての機能、つまり秩序破壊的な作用が「官僚機械」によって超コード化された既存の諸コードを脱コード化するのですが、では、この戦争機械はなにによって駆動されているのでしょうか? ふたたびドゥルーズの説明を見てみましょう。


 いろいろな固有名詞によって指し示されるもろもろの強度の一種のノマディスム、つまり絶えまない移動というものがあります。それらの強度は、なんらかの充実した身体の上で生きられると同時に、おたがいに浸透し合ってもいます。強度は、なんらかの身体の上に可動的に記入されるという連関がある場合のみ、そしてなんらかの固有名詞の流動的な外部性とともにのみ生きられることができます。そして、まさにそのことによって、固有名詞はつねにひとつの仮面であり、ある操作者の仮面であるわけです。(同書 p.181)


「強度」とは諸コードによって表象された世界というシステムの隙間から噴き出すエネルギーのことです。ノマドとはこの外部あるいは深層から流入する非人称的なエネルギーが噴き出す裂け目のことであり、この機械的な世界認識のもとでは定住−非定住の対立はあまり重要ではありません。裂け目から流出したエネルギーは周囲にも影響を与えます。強度のこの共振性や浸透性がノマドという「操作者の仮面」を介して脱コード化の秩序破壊的かつ秩序形成的な機能として翻訳されます。つまり脱コード化とは強度が表象の空間に拡がりをもつことです。
 
 これに対し、官僚機械のもつ再コード化の機能は、既存の諸コードを超出する「強度の拡がり」を翻訳し、転換し、偽装します。このようにノマドを去勢し、定住化させることによって吸収されたエネルギーは資本主義システムを活性化させるでしょう。エネルギーの増大、沈静化、再活性化というエネルギーの循環モデルがこのようなシステム理解の背景にありますが、システムがエネルギー循環のシミュラークル(擬制)である以上、外部へのこの応答性は必然的です。この絶えざる外部の内在化の運動はデリダの言う脱構築とほぼ同じものです。
 
 ドゥルーズ的なノマドとはジンギスカンのように外部から「襲ってくる」ものであり、既存の秩序の側が前もってそれに自由を与えたり、ましてや迎え入れたりすることはできないものです。ですから例としては堀江貴文さんよりもGoogleのほうがふさわしいでしょう。エネルギーにとって停滞性、硬直性、閉鎖性は死を意味します。ノマド的なエネルギーのうねりが発生することは資本主義に不可欠のエンジンであり、その限りにおいてノマドはメシアとして待望され続けるでしょう。

作成者 平岡公彦 : 2009年5月30日(土) 20:54

2009年5月24日(日)

正義とはなにか――ジャック・デリダ『法の力』を読む

 今回は池田信夫さんのブログで紹介されていたアーレントの思想を手がかりに、正義について考えてみたいと思います。


「人間が生まれながらに等しく人権をもっている」という思想がフランス革命の暴力を生み出し、のちのロシア革命などの原因となった、とアーレントは批判する。バークも指摘したように、人間は生まれたときにはどんな権利ももっていない。「悲惨な人々」の救済を人権として絶対化する党派は、権力を握ると敵の人権を弾圧する最悪の独裁者になるのだ。アメリカ建国の父はこのようなリスクを警戒し、連邦政府の暴走をチェックして自由を構成する制度として憲法(constitution)を策定した。
今こそアーレントを読み直す - 池田信夫 blog


 アーレントが提示したliberty(自然的な自由)freedom(人為的な自由)の区別も興味深いですが、ここで注目したいのは権利と暴力の関係です。
 
 権利は、それが取り戻されたものであるにせよ、人為的に構築されたものであるにせよ、なんらかの外的な保護によってのみ保障されうるものです。ですから獲得された権利は必ず「守られるべきもの」「保障されるべきもの」という性質を帯びることになり、この性質は必然的にそれに敵対する者を抑圧しますから、暴力との関係においてはその来歴よりも重要であるように思われます。
 
 また、デリダ『法の力』(法政大学出版局)のなかで権利と暴力の関係を次のように説明しています。


 法/権利を基礎づけ、創始し、正義にかなうようにすることになる作用、つまり掟をつくる/場を支配する(中略)ことになる作用を成り立たせるのは、実力行使、つまり行為遂行的でありそれゆえ解釈をする暴力であろう。この暴力そのものは、正義にかなっているとも正義にかなっていないとも言えない。いかなる正義をもってしても、すなわちいかなる法/権利があらかじめあってかつ前もって基礎づけをなしていようとも、また既存のいかなる基礎づけ作用をもってしても、定義からして、その暴力に保証を与えることはできないし、かといってそれに抗弁したり、妥当でないとして否定することもできないであろう。正義にかなうようにする言説はどれもみな、創出的言語活動の行為遂行性やその支配的な解釈との関係で、メタ言語の役割をやりこなすことはできないし、やりこなすべきでもない。
(傍点略。ジャック・デリダ『法の力』堅田研一訳 法政大学出版局 1999年12月 p.31)


 権利は「掟を定める暴力」と「掟を守る暴力」によってはじめて可能になります。法は私たちに服従を命じるものであり、言うまでもなく服従を強いる権力と不可分の関係にあります。「従わなくてもよい正義」は無意味ですから、法のこの抑圧性は正義を可能とする条件であり、それ自体は善いものでも悪いものでもありません。問題は「法が正義にかなうものであるかどうか」です。
 
 正義にかなわない法がただの抑圧装置とならないために、法としての正義は絶えず再検討されなければなりません。そして正義は、法を再検討する審級としてあらゆる法を超えたところに存在し続けます。


 法/権利の、または――こう言ってよければ――法/権利としての正義の、この脱構築可能な構造こそが、脱構築の可能性の保証者にもなっている。正義それ自体はというと、もしそのようなものが現実に存在するならば、法/権利の外または法/権利のかなたにあり、そのために脱構築しえない。脱構築そのものについても、もしそのようなものが現実に存在するならば、これと同じく脱構築しえない。脱構築は正義である。(傍点略。同書 p.34)


 ふたたび池田さんの記事に戻れば、「人々が討論によって選択する」正義は、そのような討論を可能とする空間を必要としますが、この空間はなにによって基礎づけることができるのでしょうか?
 
 それを自然権と呼ぶことは適切ではないとしても、この「正義のための空間」は、慣習や契約によって、あるいは討論や合意によって与えられたり奪われたりしてはならないものであり、あらゆる抑圧に抗して尊重されるべきものであることは疑いえないように思われます。

作成者 平岡公彦 : 2009年5月24日(日) 20:52

2009年5月23日(土)

コメント欄の閉鎖について

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作成者 平岡公彦 : 2009年5月24日(日) 20:24

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