今回は池田信夫さんのブログで紹介されていたアーレントの思想を手がかりに、正義について考えてみたいと思います。
「人間が生まれながらに等しく人権をもっている」という思想がフランス革命の暴力を生み出し、のちのロシア革命などの原因となった、とアーレントは批判する。バークも指摘したように、人間は生まれたときにはどんな権利ももっていない。「悲惨な人々」の救済を人権として絶対化する党派は、権力を握ると敵の人権を弾圧する最悪の独裁者になるのだ。アメリカ建国の父はこのようなリスクを警戒し、連邦政府の暴走をチェックして自由を構成する制度として憲法(constitution)を策定した。
(今こそアーレントを読み直す - 池田信夫 blog)
アーレントが提示したliberty(自然的な自由)とfreedom(人為的な自由)の区別も興味深いですが、ここで注目したいのは権利と暴力の関係です。
権利は、それが取り戻されたものであるにせよ、人為的に構築されたものであるにせよ、なんらかの外的な保護によってのみ保障されうるものです。ですから獲得された権利は必ず「守られるべきもの」「保障されるべきもの」という性質を帯びることになり、この性質は必然的にそれに敵対する者を抑圧しますから、暴力との関係においてはその来歴よりも重要であるように思われます。
また、デリダは『法の力』(法政大学出版局)のなかで権利と暴力の関係を次のように説明しています。
法/権利を基礎づけ、創始し、正義にかなうようにすることになる作用、つまり掟をつくる/場を支配する(中略)ことになる作用を成り立たせるのは、実力行使、つまり行為遂行的でありそれゆえ解釈をする暴力であろう。この暴力そのものは、正義にかなっているとも正義にかなっていないとも言えない。いかなる正義をもってしても、すなわちいかなる法/権利があらかじめあってかつ前もって基礎づけをなしていようとも、また既存のいかなる基礎づけ作用をもってしても、定義からして、その暴力に保証を与えることはできないし、かといってそれに抗弁したり、妥当でないとして否定することもできないであろう。正義にかなうようにする言説はどれもみな、創出的言語活動の行為遂行性やその支配的な解釈との関係で、メタ言語の役割をやりこなすことはできないし、やりこなすべきでもない。
(傍点略。ジャック・デリダ『法の力』堅田研一訳 法政大学出版局 1999年12月 p.31)
権利は「掟を定める暴力」と「掟を守る暴力」によってはじめて可能になります。法は私たちに服従を命じるものであり、言うまでもなく服従を強いる権力と不可分の関係にあります。「従わなくてもよい正義」は無意味ですから、法のこの抑圧性は正義を可能とする条件であり、それ自体は善いものでも悪いものでもありません。問題は「法が正義にかなうものであるかどうか」です。
正義にかなわない法がただの抑圧装置とならないために、法としての正義は絶えず再検討されなければなりません。そして正義は、法を再検討する審級としてあらゆる法を超えたところに存在し続けます。
法/権利の、または――こう言ってよければ――法/権利としての正義の、この脱構築可能な構造こそが、脱構築の可能性の保証者にもなっている。正義それ自体はというと、もしそのようなものが現実に存在するならば、法/権利の外または法/権利のかなたにあり、そのために脱構築しえない。脱構築そのものについても、もしそのようなものが現実に存在するならば、これと同じく脱構築しえない。脱構築は正義である。(傍点略。同書 p.34)
ふたたび池田さんの記事に戻れば、「人々が討論によって選択する」正義は、そのような討論を可能とする空間を必要としますが、この空間はなにによって基礎づけることができるのでしょうか?
それを自然権と呼ぶことは適切ではないとしても、この「正義のための空間」は、慣習や契約によって、あるいは討論や合意によって与えられたり奪われたりしてはならないものであり、あらゆる抑圧に抗して尊重されるべきものであることは疑いえないように思われます。