平岡公彦のボードレール翻訳日記

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ
退屈について語りあうことに退屈することはできない(オビ1グランプリ落選作)。

書くことは抵抗すること。書くことは生成すること。書くことは地図を作ること。
(ジル・ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳,河出文庫,2007年,p.87)

2009年9月13日(日)

自由意志という幻想――前野隆司『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?』を読む1

 思想というものは、「それ」が欲するときだけにわたしたちを訪れるのであり、「われ」が欲するときに訪れるのではないということだ。だから主語「われ」が述語「考える」の条件であると主張するのは、事態を偽造していることになる。〈それ〉が考えるのである。
(ルビ、傍点略。ニーチェ『善悪の彼岸』中山元訳 光文社古典新訳文庫 2009年 pp.51-52)


 そのラディカルな中身とは裏腹に、先日紹介したクリス・フリス著『心をつくる』(岩波書店)の自由意志に対する認識は驚くほど素朴です。


 私にわかるのは、自分が自由意志というものを強く経験しているということだけだ。私は自分が動作をコントロールしていることを感じている。私に何かをさせようとするプレッシャーがどれほど強くても、最終的な決定権は私にあると感じる。
(クリス・フリス『心をつくる』大堀壽夫訳 岩波書店 2009年 p.193)


 この主張は「意識は脳が作り出した錯覚である」という認識と矛盾しないのでしょうか?
 
 小飼弾さんがたびたび紹介しているロボティクス研究者の前野隆司先生の受動意識仮説は自由意志を完全に否定しています。


「意識」が能動的で「無意識」がそれに従うと考えると結び付け問題は解けない。これに対し、「無意識」こそが能動的で「意識」は受動的だと考えると結び付け問題が解けるし、「意識」が受動的だと考えても何ら矛盾はない。よって、意識というシステムは受動的なはずである。意識の中に湧き上がる「知」「情」「意」は無意識下の小びとたちに従う受動的な働きにすぎない。もちろん、自由意志も。したがって、何者からも自由な意志は存在しない。
(前野隆司『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?』技術評論社 2007年 p.54)


「結び付け問題」とは、「脳はある対象を知覚情報からどのようにしてひとつのまとまりとして構成するか」という問題です。これにはトップダウン型とボトムアップ型の2つのモデルが考えられますが、脳内に知覚情報の全体を把握し、そこから必要なものを選択して全体像を構築するトップダウン型の司令塔を想定すると、今度はその司令塔の内部で受け取った情報を処理するシステムが必要になるという無限後退が生じます。この矛盾を解決する仮説がニューラルネットワークのボトムアップ型情報処理の結果として意識が発生すると考える受動意識仮説です。
 
 もっとも、現在小飼さん自身は「否定する自由」は存在するという考えに後退してしまったようです。


心には、自由意志 = free will はない。しかし自由否定 = free won't なら、ある。
404 Blog Not Found:NOのNOは脳 - 書評 - 単純な脳、複雑な「私」


 しかし小飼さんが典拠としている池谷裕二先生の『単純な脳、複雑な「私」』(朝日出版社)は、自由否定の可否についての結論をあいまいにしています。小飼さんは速く読みすぎてうっかり読み飛ばしてしまったのかもしれませんが、大事なところなので押さえておく必要があるでしょう。


 意志はゆらぎから生まれるとしても、案外と自由否定さえも、もしかしたら、ゆらぎじゃないか、という話になってきちゃう。(中略)はて、僕らの「自由」は一体どこに行ってしまうんだろう。
(池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』朝日出版社 2009年 pp.285-286)


 ちなみに前出の前野先生は自由否定の可能性も否定しています(前野前掲書 p.165)。現在の脳科学と認知心理学は100年前にニーチェが思索によって到達した地点にようやく追いつこうとしています。自由否定の可能性を科学が否定するのも時間の問題でしょう。
 
 では、自由意志の否定は私たちの価値観にどのような変革をもたらすのでしょうか? 次の記事ではこの問題を掘り下げてみたいと思います。

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作成者 平岡公彦 : 2009年10月3日(土) 20:00

意志と自発性――前野隆司『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?』を読む2

 小飼弾さんの前野隆司著『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?』(技術評論社)の書評は、自由意志を否定する思想に接した人に典型的な反応であると言えるでしょう。


なにしろ、「私」の存在は、現時点においては「神」の存在以上に人類社会の根幹を成しているのだ。法律はその好例で、そこは自由意志の存在をあまりに当然のこととして仮定している。しかし決定論を認めてしまえば、実は法律は不要、というより「物理」という理がすべて「あるがまま」にしてくれるのだから、「倫理」は余計ということになる。そこには「死」はあっても「殺」はない。その人は殺されたのではなく死ぬべき定めにあったというのであれば、刑法など不要ではないか。
404 Blog Not Found:書評 - 脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?


 このニヒリスティックな見解が「自由のないところに責任は存在しない」という思想を前提としていることは明らかですが、この前提はほんとうに正しいのでしょうか?
 
 自由意志の否定によって、外的触発に反応したり反応しなかったりする限りでの無意識の内在的自発性までもが否定されるわけではありません。自発性はつねに意志の発生に先行していますから、意志によって自発性の発生を自由にコントロールすることはできません。しかし自発性の起点である限り、人間が行為の原因であるという認識が消えることはないでしょうし、他者の行為に自発性が認められる限り、私たちがその責任を問うことをやめることもないでしょう。
 
 ところで、これまで私たちが考えてきた意識と無意識の関係には奇妙な分断と対立があります。意識は無意識に支配され、操られているという考え方がそれです。しかしこのとらえ方はまだまだ古典的な心身二元論に属しています。受動意識仮説の真に革新的な点は脳のシステム一元論を提示したところにあったはずです。
 
 意識は無意識の客体ではありません。無意識の自発性と意識の生成は連続しており、両者を分離することは不可能です。統合失調症などによって意識がなんらかの病的状態にない限り、私たちの意識はこの連続性を明瞭に認識しています。そしてまさにこの連続性こそが、行為や思考を「私」という「個体としての人間」がコントロールしているという確信の源泉にほかなりません。
 
 では、意識を無意識と連続したものと考えるなら、意識の機能とはどのようなものであると考えられるでしょうか。前出の前野隆司先生は意識はエピソード記憶のために存在するという仮説を提示していますが、意識から無意識への能動的なフィードバックの存在については否定的です。この点が私の考えと大きく異なります。


 意識から無意識へのフィードバック結合が全く存在しないと考えるよりも、多少存在すると考えるほうが妥当かもしれない。私が述べたいのは、現象的な自由意志の能動性に対応するような支配的・本質的構造であるところの大きな流れとしてのフィードバックループは存在していないであろうということである。
(前野隆司『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?』技術評論社 2007年 p.62)


 私が注目したいのはテクストとしての意識の機能です。
 
 脳に言語や数式を用いた複雑な情報処理を行う機関は意識以外には存在しません。脳を自律分散型の情報処理システムと考えるならば、意識の深層のより潜在的な領域でさらに複雑かつ本質的な記号操作が行われている可能性は否定されます(それは「結び付け問題」と同様の無限後退に陥ります)。脳は実際に記号を組み合わせてみることなしには思考することができないとすれば、アウトプットとしての意識はそれに続く自発性の生成に直接的な影響を与えているのではないでしょうか。
 
 私はこの意識からの無意識へのフィードバックが無意識の自発性に自律性を与えていると考えています。言い換えれば、テクストとしての思考の生成は事実確認的であると同時に行為遂行的であるということです。
 
 そしてこの思考の行為遂行性は、私たちの意識に「責任」を回復させるでしょう。

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作成者 平岡公彦 : 2009年9月23日(水) 20:00

2009年9月1日(火)

トップページ(『巡音ルカ』ナレーション)

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翻訳批評「あきれ顔のボードレール」
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などを公開しています。

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『悪の華』出版150周年記念出版


悪 の 華
[1857年版]

ボードレール
平岡公彦訳


同時代の詩人たちに戦慄とともに迎えられ
その後の文学史に恐るべき影響を及ぼした
背徳の聖典
あらたな世紀に花開く格調高き新訳
文芸社◎定価(本体1,200円+税)


全国の書店・オンライン書店にて発売中


このブログで公開している本書所収の訳詩は以下のとおり


  • 2009年3月25日(水)
    照応(『がくっぽいど』朗読)/CORRESPONDANCES, 1857/先行邦訳読み比べ/訳文解説

  • 2009年3月26日(木)
    夕暮れの諧調(『がくっぽいど』朗読)/HARMONIE DU SOIR, 1857/先行邦訳読み比べ/訳文解説

  • 2009年3月27日(金)
    憂鬱(『がくっぽいど』朗読)/SPLEEN, 1857/先行邦訳読み比べ/訳文解説

  • 2009年3月28日(土)
    月の哀しみ(『がくっぽいど』朗読)/TRISTESSES DE LA LUNE, 1857/先行邦訳読み比べ/訳文解説

  • 2009年3月29日(日)
    破壊(『がくっぽいど』朗読)/LA DESTRUCTION, 1857/先行邦訳読み比べ/訳文解説

  • 2009年3月30日(月)
    愛し合うふたりの死(『がくっぽいど』朗読)/LA MORT DES AMANTS, 1857/先行邦訳読み比べ/訳文解説

  • 2009年6月30日(火)
    月の哀しみ(『巡音ルカ』朗読)/TRISTESSES DE LA LUNE, 1857/先行邦訳読み比べ/訳文解説

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作成者 平岡公彦 : 2009年9月6日(日) 20:10

人間の終焉の起源――ニーチェ『善悪の彼岸』を読む

 人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
(ミシェル・フーコー『言葉と物』渡辺一民/佐々木明訳 新潮社 1974年 p.409)


 先月池田信夫さんのブログで紹介されていたクリス・フリス著『心をつくる――脳が生みだす心の世界』(岩波書店)を読みました。


経済学の依拠している功利主義は、独立した<私>がある財から得る<効用>を最大化すると想定しているが、このような素朴唯物論は心理学でも脳科学でも否定されている。本書もいうように、そもそも私という存在が無数のニューロンの刺激を合成した錯覚であり、それが外部の物体を直接に知覚することもありえない。脳はまず外界のモデルをつくり、その予測を経験によって修正しながら知覚するのだ。
心をつくる - 池田信夫 blog


 同書に架空の論敵として頑迷な女性英文学教授が登場することに顕著なように、著者フリスは人文的な知には概して批判的ですが、池田さんの指摘するとおり、本書で展開されている議論の多くは、むしろ先行する哲学者たちの思想を科学によって追認しています。
 
 たとえば、本書の中心である「意識とは感覚器官によって物理世界から取り入れられた知覚情報を脳が選択的にモデル化したものである」という主張の基本的なアイディアは、フロイトを俟つまでもなく、ニーチェのテクストのなかにすでに発見することができます。


 わたしには〈意志すること〉は何よりも複合的なもの、言葉の上だけで統一されたものであるように思える。(中略)
 ――第一に、すべての〈意志すること〉のうちには多数の感情が含まれていると言おうではないか。すなわち、そこから遠ざかっていく状態の感情と、そこへ向かっていく状態の感情が含まれる。さらにこの「遠ざかっていく」と「向かっていく」ことそのものの感情が含まれる。そしてこれに付随する筋肉の感情もある。これはある種の習慣であり、わたしたちが「腕と脚」を動かさなくても、「意志」を働かせると同時に動き始めるものである。だから意志のうちに不可欠なものとして感情が、しかもさまざまな感情が含まれることを認める必要がある。
(傍点略。ニーチェ『善悪の彼岸』中山元訳 光文社古典新訳文庫 2009年 p.54)


 感覚器官から脳内のホムンクルスの地図を経て私たちの意識の前景に浮上する内容は、それ以外のさまざまな知覚情報や他の接続可能な思考経路の無意識的な取捨選択を通過したごく限られた情報です。ニーチェはこのはたらきを忘却と呼び、その能動性を強調しています。唯物論を徹底するなら取捨選択という表現も適切ではなく、意識内容は脳内の偶然的な強度の布置が形成する回路をただ機械的に通過するにすぎないのかもしれません。脳はそれらをなんらかのパースペクティブ(遠近法)によってモデル化します。
 
 このような意識理解のもとでは、私たちの思考もまた自動機械によって継起する言語の連鎖以上のものではなくなるでしょう。私たちの思考がいかに展開し、いかなる帰結へと導かれるかのイニシアティブを握るのは脳であり、その限りにおいて意識は自動的に生成するテクスト(あるいは音声)が投影されるスクリーンすぎません。多くの場合、私たちはこの思考の受動性を自律性と錯覚していますが、日常的経験に照らしてみても、難解な問題の解への到達や新しいアイディアの創出は、私たちの意識に受動的発見として経験されるのではないでしょうか。
 
 以上のような意識のとらえ方はややもするとニヒリズムに帰結しそうですが、では、この無意識のプロセスを認識することに意味はないのでしょうか? もちろんこの認識自体も入れ子構造内のループにすぎないとはいえ、この絶えざる自己認識の果てに私たちの思考がどこへ導かれるかを私たちはまだ知りません。
 
 私たちの意識は脳によってその可能性の果てまで進むことを宿命づけられているかのようです。

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作成者 平岡公彦 : 2009年9月8日(火) 20:00

2009年のバックナンバー(5〜8月)


  • 2009年5月1日(金)
    敬称のポリティックス――池田信夫さんと内田樹先生とジャック・デリダ

  • 2009年5月10日(日)
    強さについて――ニーチェ『この人を見よ』を読む/高貴な奢侈――ニーチェ『道徳の系譜』を読む/絶望とはなにか――キルケゴール『死にいたる病』を読む

  • 2009年5月24日(日)
    正義とはなにか――ジャック・デリダ『法の力』を読む

  • 2009年5月30日(土)
    ノマドとメシア――ジル・ドゥルーズ「ノマドの思考」を読む

  • 2009年5月31日(日)
    美の力――スーザン・ボイルとカント/美と関心――スーザン・ボイルとニーチェ

  • 2009年6月1日(月)
    自己編集としての読書――松岡正剛『多読術』を読む

  • 2009年6月13日(土)
    性暴力表現は女性差別を助長し維持するという迷信

  • 2009年6月27日(土)
    やっぱり村上春樹はわからない――村上春樹『1Q84』を読む

  • 2009年7月1日(水)
    それでも村上春樹はわからない――内田樹『村上春樹にご用心』を読む

  • 2009年7月12日(日)
    『アンチ・オイディプス』の彼方に――ドクトル梅津バンド/浅田彰『1Q84』を読む1/村上春樹『1Q84』を読むためのサブテキスト?――ドクトル梅津バンド/浅田彰『1Q84』を読む2

  • 2009年7月18日(土)
    自閉症と分裂症――ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』を読む

  • 2009年7月19日(日)
    セルマの恍惚――器官なき身体と音楽1/アングラ音楽の逃走線――器官なき身体と音楽2

  • 2009年8月1日(土)
    村上春樹『1Q84』ブームの楽しみ方――『村上春樹『1Q84』をどう読むか』を読む1/Qの答えはだれにもわからない――『村上春樹『1Q84』をどう読むか』を読む2

  • 2009年8月2日(日)
    〈わたしたち〉の時代の夜明け――平野啓一郎『ドーン』を読む1/1Q84年と2036年のドストエフスキー――平野啓一郎『ドーン』を読む2

  • 2009年8月16日(日)
    哲学と反哲学――木田元『反哲学入門』を読む

  • 2009年8月23日(日)
    否定と創造性――ジル・ドゥルーズ『ニーチェ』を読む

作成者 平岡公彦 : 2009年9月6日(日) 20:15

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