思想というものは、「それ」が欲するときだけにわたしたちを訪れるのであり、「われ」が欲するときに訪れるのではないということだ。だから主語「われ」が述語「考える」の条件であると主張するのは、事態を偽造していることになる。〈それ〉が考えるのである。
(ルビ、傍点略。ニーチェ『善悪の彼岸』中山元訳 光文社古典新訳文庫 2009年 pp.51-52)
そのラディカルな中身とは裏腹に、先日紹介したクリス・フリス著『心をつくる』(岩波書店)の自由意志に対する認識は驚くほど素朴です。
私にわかるのは、自分が自由意志というものを強く経験しているということだけだ。私は自分が動作をコントロールしていることを感じている。私に何かをさせようとするプレッシャーがどれほど強くても、最終的な決定権は私にあると感じる。
(クリス・フリス『心をつくる』大堀壽夫訳 岩波書店 2009年 p.193)
この主張は「意識は脳が作り出した錯覚である」という認識と矛盾しないのでしょうか?
小飼弾さんがたびたび紹介しているロボティクス研究者の前野隆司先生の受動意識仮説は自由意志を完全に否定しています。
「意識」が能動的で「無意識」がそれに従うと考えると結び付け問題は解けない。これに対し、「無意識」こそが能動的で「意識」は受動的だと考えると結び付け問題が解けるし、「意識」が受動的だと考えても何ら矛盾はない。よって、意識というシステムは受動的なはずである。意識の中に湧き上がる「知」「情」「意」は無意識下の小びとたちに従う受動的な働きにすぎない。もちろん、自由意志も。したがって、何者からも自由な意志は存在しない。
(前野隆司『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?』技術評論社 2007年 p.54)
「結び付け問題」とは、「脳はある対象を知覚情報からどのようにしてひとつのまとまりとして構成するか」という問題です。これにはトップダウン型とボトムアップ型の2つのモデルが考えられますが、脳内に知覚情報の全体を把握し、そこから必要なものを選択して全体像を構築するトップダウン型の司令塔を想定すると、今度はその司令塔の内部で受け取った情報を処理するシステムが必要になるという無限後退が生じます。この矛盾を解決する仮説がニューラルネットワークのボトムアップ型情報処理の結果として意識が発生すると考える受動意識仮説です。
もっとも、現在小飼さん自身は「否定する自由」は存在するという考えに後退してしまったようです。
心には、自由意志 = free will はない。しかし自由否定 = free won't なら、ある。
(404 Blog Not Found:NOのNOは脳 - 書評 - 単純な脳、複雑な「私」)
しかし小飼さんが典拠としている池谷裕二先生の『単純な脳、複雑な「私」』(朝日出版社)は、自由否定の可否についての結論をあいまいにしています。小飼さんは速く読みすぎてうっかり読み飛ばしてしまったのかもしれませんが、大事なところなので押さえておく必要があるでしょう。
意志はゆらぎから生まれるとしても、案外と自由否定さえも、もしかしたら、ゆらぎじゃないか、という話になってきちゃう。(中略)はて、僕らの「自由」は一体どこに行ってしまうんだろう。
(池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』朝日出版社 2009年 pp.285-286)
ちなみに前出の前野先生は自由否定の可能性も否定しています(前野前掲書 p.165)。現在の脳科学と認知心理学は100年前にニーチェが思索によって到達した地点にようやく追いつこうとしています。自由否定の可能性を科学が否定するのも時間の問題でしょう。
では、自由意志の否定は私たちの価値観にどのような変革をもたらすのでしょうか? 次の記事ではこの問題を掘り下げてみたいと思います。

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