平岡公彦のボードレール翻訳日記

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ
退屈について語りあうことに退屈することはできない(オビ1グランプリ落選作)。

書くことは抵抗すること。書くことは生成すること。書くことは地図を作ること。
(ジル・ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳,河出文庫,2007年,p.87)

2009年12月30日(水)

トンデモ本にご用心――内田樹『日本辺境論』を読む

 人間の本質は、個々の個人に内在する抽象物ではない。人間の本質とは、現実には、社会的諸関係の総和である。
(マルクス「フォイエルバッハにかんするテーゼ」 エンゲルス『フォイエルバッハ論』松村一人訳 岩波文庫 1960年 p.89)


 2009年が終わる前に、内田樹先生の新著『日本辺境論』(新潮新書)の書評を書いておきたいと思います。
 
 タイトルのとおり、本書は、日本の地政学的位置が日本人の文化的・民族的性格形成に決定的な影響を与えているという説を、先行する著名な日本人論や、さまざまな歴史上の事件を引き合い出しつつ論じた本です。冒頭で内田先生自身が断っているとおり、本書で論じられている個々の論点は「おなじみ」のものがほとんどですが、それらの料理の仕方にはいつもの内田節がきいています。
 
 たとえば、日本人的習性として以前に丸山眞男が指摘していた「きょろきょろする」という態度は、内田先生の手にかかると次のように料理されます。


「オレはきょろきょろなんかしてない。自分のスタイルを貫いている」と目を三角にして抗議する方がいるかも知れませんけれど、あのですね、そういうふうに「日本人とは……」というふうに誰かが言うとすぐにぴりぴり反応してしまう態度のことを「きょろきょろ」と言うのです。ほんとうに「自分のスタイルを貫いている」人はきょろきょろあたりを見回して「まわりの人はオレが『自分のスタイルを貫いている』ことをちゃんと見てくれているかな」と自己点検するようなことはしません。そもそも、自分の生き方についての他人の考えになんか何の興味もないので、こんな本読んでないし。
(内田樹『日本辺境論』新潮新書 2009年 pp.24-25)


 小飼弾さんの言うように、たしかに「納得感」はあります。私自身もなん度も頷きながら本書を読みました。しかし、この「納得感」は本書の主張が正しいことの裏づけにはなりません。本書によって確認できるのは、せいぜい私たちがこのような日本人観を信仰しているという事実だけです。
 
 内田先生の挙げる日本人の「民族誌的奇習」が日本人に特有のものであることの挙証はどう考えても十分ではありません。本書の論述スタイルには、高野陽太郎先生が『「集団主義」という錯覚 日本人論の思い違いとその由来』(新曜社)で紹介している日本人論の3つの問題点がすべて当てはまります。


 杉本とマオアは、「日本人論は、方法がまちがっている」という批判もしている。(中略)
 かれらの批判は多岐にわたるが、三点ぐらいにまとめることができるだろう。第一は、多くの場合、比較がなされていないこと。第二は、比較がなされている場合でも、その比較が適切なものであるとはいいがたいこと。第三に、研究データによる裏づけが乏しいこと。この三点である。
(高野陽太郎『「集団主義」という錯覚』新曜社 2008年 p.29)


 最後の「研究データ」とは、個人主義的ないしは集団主義的行動に関する調査研究による統計データや、同調行動や協力行動に関する心理学的な実験データのことです。同書で比較されているのは主に日本とアメリカについての研究データですが、いずれの比較においても、日本人とアメリカ人のデータのあいだに顕著な差は確認されていません。
 
 同書が検証しているのはあくまで個人主義的ないし集団主義的傾向の日米差のみですから、同書によって内田先生の主張のすべてが覆されるとまでは言えないものの、その大部分が修正を余儀なくされるでしょう。その意味で、内田先生の立論の信憑性は血液型性格判断とほとんど変わりません。ですから『日本辺境論』は、あくまで自分たちのふるまいや考え方を反省するための方便としてとらえるべきでしょう。
 
 これから読んでみようとお考えの方は、あまり真に受けすぎないようにご注意ください。

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作成者 平岡公彦 : 2009年12月30日(水) 20:45

「国民性」とはなにか――高野陽太郎『「集団主義」という錯覚』を読む

 内田樹先生は、『日本辺境論』(新潮新書)において日本人論を展開するにあたり、「学術的厳密性ということは一切顧慮しておりません」(p.8)と明言しています。その理由として、学術的厳密性を無視して大雑把な見取り図を描くことがいかなる意味で有効だと考えたのかについては一応の説明がなされているものの、それがいかなる意味で「正しい」と言えるのかについては不明確です。
 
 内田先生の言うところの「辺境性」が、たんなる思い込みや錯覚、もっと強い言い方をすれば人種偏見でないかどうかは、やはり適切な方法で検証されなければなりません。それにはどうしても調査や実験といった実証的研究の助けを借りる必要があります。
 
 高野陽太郎先生の『「集団主義」という錯覚 日本人論の思い違いとその由来』(新曜社)は、「日本人は集団主義的、アメリカ人は個人主義的」という通説がじつはただの迷信にすぎないことを、さまざまな国際比較研究を参照しながら明らかにしています。
 
 たとえば、本書が紹介する同調行動の実験では、被験者に数人のサクラとともにクイズに答えさせ、他のサクラ全員がまちがった回答をした場合に、被験者がそのまちがった答えに同調するかどうかが試験されます。異なる研究者が行ったいくつかの実験結果の同調率の平均を比較すると、日本人(23%)とアメリカ人(25%)の差はほとんどなく、むしろアメリカ人のほうがやや集団主義的であるという結果になります。つまり、日本人よりもアメリカ人のほうが「きょろきょろ」しているということです(笑)。
 
 なかでも注目すべきは、日系アメリカ人の心理学者デイヴィド・マツモトの調査研究です。調査内容は「重要な決定をするときにだれかの意見に従うか否か」というタイプのアンケートで、この調査でも平均値の比較では日米に差はみられなかったものの、質問項目別の比較では有意な差が確認できたそうです。高野先生は次のようにまとめています。


 マツモトは、日本とアメリカのあいだに、はっきりとした平均値の差が認められた調査データをつかい、文化、個人、状況という三つの要因について、回答にたいする影響力の大きさを比較した。文化と個人の影響力は、ほぼ1対9の比率だった。個人と状況の影響力は、ほぼ2対8の比率だった。(中略)
 この結果から、文化差がはっきりしている場合でも、その文化差の影響力は、個人差の影響力とは比べものにならないほど小さいということがわかる。その個人差の影響力も、状況の影響力よりは、はるかに小さい。ということは、文化は、状況と比べれば、ほんの僅かな影響力しかもっていないということなのである。
(高野陽太郎『「集団主義」という錯覚』新曜社 2008年 pp.286-287)


 もちろん、ここで挙げられている数字を盲信すべきではないでしょう。この実験結果を信頼するには、なおも「質問の内容は適切であるか否か」や「結果の解釈は適切であるか否か」が問われなければなりません。ここでそれを検討する余裕はありませんが、いずれにせよ、国民性について論じるのならば、まずは以上のような実証的研究の成果に挑むべきであることには疑問の余地はないでしょう。
 
 たとえば、聖徳太子の親書にはじまり、憲法九条と自衛隊の問題にいたるまで一貫する日本独特の政治的狡知であると内田先生が主張する「知らないふり」を例に取るなら、個々の事例においてはたしかにそのような狡知がはたらいているように見えなくはないとしても、それが不変の辺境人的本質の発露であると主張するためには、同様の事例がほんとうに他国に存在しないかどうかを検証しなければならないのはもちろんのこと、それが10%にすぎない文化差による影響なのかどうかについても慎重な検討が必要となるはずです。
 
 内田先生の議論にそのような慎重さはなく、むしろ人種偏見を背景に誕生した旧弊な日本人論と共犯関係にあります。その意味で、『日本辺境論』は血液型性格判断よりも悪質な偏見の流布に加担していると言わねばならないでしょう。

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作成者 平岡公彦 : 2010年1月10日(日) 20:00

2009年12月23日(水)

歴史と召命――TBSドラマ『JIN -仁-』を観る

 今年の秋はずっとTBSドラマJIN -仁-にハマっていました。日曜の夜9時といえば、いつもブログを更新している時間帯なので、最初はブログの更新をしながらチラチラ見ていたのですが、途中からは完全にブログそっちのけになってしまいました(笑)。
 
 まずはかんたんにストーリーを紹介しましょう。幕末の江戸にタイムスリップした脳外科医・南方仁(大沢たかお)は、手術で命を救った武士・橘恭太郎(小出恵介)の妹・咲(綾瀬はるか)とともに、当時猛威をふるったコレラや梅毒などの伝染病や、当時の医療技術では治療不可能だった急性硬膜外血腫などの難病に次々と立ち向かっていきます。
 
 そうした病との戦いをつうじて、南方は坂本龍馬(内野聖陽)勝海舟(小日向文世)緒方洪庵(武田哲矢)といった錚々たる歴史上の偉人たちと出会い、行動をともにすることになります。そして坂本龍馬とともに登楼した吉原の遊郭で、南方は現代に残した恋人・友永未来(中谷美紀)と生き写しの運命の女性、花魁・野風(中谷美紀)との邂逅を果たします。
 
 満足な薬も医療器具もない状況のなかで、大工道具や焼け火箸や焼酎などのありあわせの道具を駆使し、なんとか最先端の医療技術を再現しようと悪戦苦闘しながら、南方は注射針や点滴用の器具などが当時の職人たちの技術によって再現できることを発見します。そして、ついには青カビから抗生物質ペニシリンを精製することに成功します。
 
 こうした医学の歴史の針を進める「発明」の数々は、歴史と、未来を生きる人々の運命を否応なく左右することになるでしょう。目の前の救うべき命と、運命が変わることによって生まれなくなる命との狭間で南方は苦悩しますが、最後には医師としてのみずからの召命に忠実に生きることを選びます。南方の苦悩はそれを観る私たちをも動揺させずにはおきません。しかし、それでもペニシリンの誕生のシーンには胸が熱くなりました。
 
 この南方の苦悩にさらなる重みを与えていたのが、ドラマ版オリジナルの登場人物である南方の恋人・未来です。彼女の存在は、南方の「歴史を変えてはならない」という、それ自体も重大な問題ではあるもののやや抽象的な義務の意識に、「恋人の生まれる未来を変えたくない」という個人的な心情による動機を加え、それによって、南方は救いたい未来の恋人と救うべき目の前の人とのあいだで引き裂かれることになりました。この決して両立しえない利他的動機の狭間で苦悩する南方の姿は非常に美しかったです。
 
 そして最終話においてその運命的な瞬間は到来し、決断はくだされます。しかしそれによって回答が与えられたわけではありません。南方の決断は「よかった」とも「悪かった」とも言い切れませんし、「正しかった」とも「まちがっていた」とも言い切れません。
 
 その「答え」を、さまざまな謎とともに宙吊りにしたまま、そしてそれぞれの「とどかない想い」をすれ違わせたまま、ドラマは幕を閉じます。ラストには賛否両論あるようですが、私はとてもいい幕切れだったと思います。もちろん続編は期待していますが(笑)。
 
 最後にどうしても書いておきたいのは、坂本龍馬役の内野聖陽さんと野風役の中谷美紀さんの演技のすばらしさについてです。
 
 内野さんの龍馬は、今まで見たどの龍馬よりも豪快で奔放で(暑苦しいとも言えますが)、その強烈な存在感に圧倒されました。このあとで龍馬を演じなければならない福山雅治さんには相当のプレッシャーだろうと思います。中谷さんの野風についてはもう「美しい」の一言です。セリフの一つひとつ、表情や身のこなしの一つひとつが厳粛なまでの美意識に貫かれており、吉原の桃源郷と万華鏡のイマージュが織りなす幽玄の美とあいまって、久々に純和風の様式美にすっかり魅了されてしまいました。
 
 不幸にも見逃してしまった気の毒な方は、村上もとかさんの原作コミック『JIN―仁―』(集英社 ジャンプ・コミックス デラックス 既刊16巻)を読みながら、DVD-BOXの発売をお待ちください(笑)。


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作成者 平岡公彦 : 2009年12月23日(水) 21:10

2009年12月6日(日)

差異と強度――ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』を読む

 私たちは芸術作品の魅力には具体的な特徴と程度の差があり、なおかつ人為的な加工によってその表象を操作することができるという信念をもっています。この信念はあらゆる芸術家の創作を根底で支えるものですが、どうしてこのような操作が可能なのでしょうか?
 
 前回の記事を準備していて気がついたのですが、最近私は当然のようにドゥルーズ差異強度という概念を援用して記事を書いてきましたけれども、ふり返ってみると、私が依拠するドゥルーズのテクストを主題的に論じた記事をまだ書いていませんでした。ということで、今回は私自身の理解の確認も兼ねて、この二つの概念について考えてみたいと思います。
 
 まずはドゥルーズの『ニーチェと哲学』(1962年)のテクストを見てみましょう。


 ニーチェの関心はけっして量の質への還元不可能性ではない。あるいはむしろ、このことは二次的に徴候としてしか彼の関心を引かない。主に彼の関心は、量そのものの観点から言うと、〈量の差異〉の均等性への還元不可能性である。質は量と区別されるが、しかしそれは、単に質が量のうちに存在する均等化不可能なもの、量の差異において存在する取り消し不可能なものであるからにすぎない。したがって、〈量の差異〉は或る意味で量の還元不可能な要素であり、別の意味で量そのものへの還元不可能な要素である。質は量の差異以外の何ものでもなく、また関係するそれぞれの力における量の差異に対応している。
(傍点略。ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳 河出文庫 2008年 pp.96-97)


 一見して私たちは、テクスト中の質を差異、量を強度と解釈してしまいそうになりますが(現にそのようにも読めますが)、質における量的なものをそのまま強度と解釈するのは適切ではありません。測定値として示しうる測定量と抽象的にしかとらえられない抽象量は区別して考える必要があるでしょう。
 
 ここで論じられているのは質と測定量相互の還元不可能性であり、これら相互に還元不可能な二つの表象は、同一の差異の異なる表象としてとらえなおされています。つまり差異一元論です。そして差異は引用部の最後に登場する「力における量」、つまり抽象量としての強度に対応するという形で、相互に還元不可能な二元論的対応関係が新たに提示されることになります。
 
 抽象的な概念としての量は「均質的なものの大小」を意味し、通常私たちはそのような尺度として量をとらえていますが、ドゥルーズ=ニーチェはそのような尺度は存在しないと考えます。
 
 円を例に考えるならば、たとえば直径10cmの円と直径1mの円からそれぞれ同じ長さで切り取った円周の「丸さ」は同じではありません。この切り取られた同じ長さの円周の形状は、円の直径が大きくなればなるほど直線に近づきます。この円周の「丸さ」が「均質的なものの量的な大小は存在しない」と言うときの質にあたるものです。このような質と量の関係は、あらゆる量的に変化しうるものにあてはまるでしょう。
 
 しかし、均質的なものの量的な大小という尺度の存在が否定されたとしても、量的な変化には、その増減に質的な変化をともないつつも、なんらかの不変の性質による一貫性が維持されています。ドゥルーズの用語ではありませんが、このような性質を同質性と呼ぶことができるでしょう。先ほどの円の例で言うなら、「ある一点から等距離にある点の集合」というあらゆる円に共通する性質がこの同質性にあたります。
 
 強度は、この均質性なき同質性の質量的延長によって展開される可能性の空間の、ある限定された領域として特定できるでしょう。そしてこの領域の頂点において、強度は量的には均衡、質的には完全性として定義できます。しかし、私たちは完全な均衡というものを現象において示すことはできませんし、実際にそれを目にすることもありません。可能性の表象は方法によって限界づけられており、現象はつねに近似的なものです。
 
 ここに冒頭の問いの答えを見出すことができるでしょう。

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作成者 平岡公彦 : 2009年12月6日(日) 20:25

2009年12月5日(土)

芸術と真理――リュディガー・ブプナー『美的経験』を読む1

 ドイツは、人も知る通り、知らなかったとしても容易に察せられるであろう通り、哲学的芸術という錯誤に陥ること最も多かった国である。
(シャルル・ボードレール「哲学的芸術」『ボードレール批評1』阿部良雄訳 ちくま学芸文庫 1999年 p.346)


 つい最近、リュディガー・ブプナー『美的経験』(法政大学出版局)という本が出ているのを書店で見つけて驚きました。最近の当ブログのテーマとも深く関連する本ですので、今回はこの本を紹介することにしましょう。
 
 本書において、美学はカント主義的な美学ヘーゲル主義的な美学に大きく区別されます。ブプナーが依拠するのは前者の立場であり、彼が批判的に検討しているハイデガー、ベンヤミン、ルカーチ、アドルノの美学は後者の系列に属します。検討の過程ではカント以降の芸術哲学の思想史が手際よくまとめられており、美学の入門書としても有益です。
 
 ヘーゲル主義的な美学では、芸術作品を哲学的思索がいまだ到達していない哲学的真理が先駆的に具現したものと考えます。ヘーゲルにとって芸術とは絶対精神の直接的な現象形式であり、ハイデガーにとって芸術とは存在の自己開示にほかなりません。このような芸術観では、芸術はそこに反映された真理が完全に開示されたあかつきにはその役目を終えることになりますが、ブプナーはそのような思想に引導をわたしています。


 哲学的反省はその窮状ゆえに、芸術という手本を自分自身の問題設定の具現として捉えることで、芸術との関連を設定してしまう。けれども、反省がとりわけ現代芸術を構成する場合、その構造的契機が現に反省に備わっているということを理由にして、現代芸術が哲学の侍女になるということはない。現代芸術が進歩的なイデオロギー批判の難点を反映していなくても、われわれは現代芸術を完全に理解することができる。
(傍点略。リュディガー・ブプナー『美的経験』竹田純郎監訳 法政大学出版局 2009年 p.126)


 それに対し、本書がそのアクチュアリティを強調するカント美学は、芸術現象を理論によっては決して解明しえないものと考えます。本書の基本テーゼは次のテクストに要約されるでしょう。


 芸術の本質は、言い当てられるものではない。というのは、その本質はまさしく、みずからがあるのとは別なふうにつねに現われるからである。どのような名称も芸術の核心を的中してはいない。芸術の本質は繰り返し現われ、新しい側面を表わし、さらに次の解釈へと駆り立てる。芸術の固有の構造は白日にさらされることはなく理解に身を顕わにすることはないという事情は、外面的にいわゆる芸術作品の意味充実ということしか表わさず、内容について絶えず問いつづけ、解釈の積み重ねを誘うなかでしか表わされない。
(同書 p.45)


 以上の観点から、本書の考察は、美的経験の認識論的な分析、つまり「芸術はどのように経験されるか」の分析に重点がおかれます。ただ、この分析における本書の難点として、美的現象と芸術現象が明確に区別されずに扱われている印象を受けます。自明の前提としてあえて厳密に区別しなかっただけかもしれませんが、この区別は重要です。
 
 美的感銘は芸術的感銘に含まれますが、芸術的感銘は美的感銘に限定されません。芸術的感銘には、ほかにも倫理的感銘や宗教的法悦、カント的崇高やバタイユ的エロティシズム、あるいはたんに恐怖をかきたてるものや欲情をそそるものなども含まれるでしょう。これらにはいずれも衝撃として経験されるという共通点があります。芸術とはそのような意味の強度の人為的な創造にほかなりません。
 
 私の考えでは、芸術的感銘は意味としてそれらをともないつつも、それらとは決定的に区別されます。芸術的感銘の純粋形式というものがあるとすれば、それはそれらを表現する方法の巧みさに対する感銘にほかなりません。したがって芸術の理論には、意味論とともに技術論がともなわねばならないでしょう。
 
 続いての記事では、芸術と理論の関係をもう少し掘り下げてみたいと思います。

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作成者 平岡公彦 : 2009年12月5日(土) 20:25

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