人間の本質は、個々の個人に内在する抽象物ではない。人間の本質とは、現実には、社会的諸関係の総和である。
(マルクス「フォイエルバッハにかんするテーゼ」 エンゲルス『フォイエルバッハ論』松村一人訳 岩波文庫 1960年 p.89)
2009年が終わる前に、内田樹先生の新著『日本辺境論』(新潮新書)の書評を書いておきたいと思います。
タイトルのとおり、本書は、日本の地政学的位置が日本人の文化的・民族的性格形成に決定的な影響を与えているという説を、先行する著名な日本人論や、さまざまな歴史上の事件を引き合い出しつつ論じた本です。冒頭で内田先生自身が断っているとおり、本書で論じられている個々の論点は「おなじみ」のものがほとんどですが、それらの料理の仕方にはいつもの内田節がきいています。
たとえば、日本人的習性として以前に丸山眞男が指摘していた「きょろきょろする」という態度は、内田先生の手にかかると次のように料理されます。
「オレはきょろきょろなんかしてない。自分のスタイルを貫いている」と目を三角にして抗議する方がいるかも知れませんけれど、あのですね、そういうふうに「日本人とは……」というふうに誰かが言うとすぐにぴりぴり反応してしまう態度のことを「きょろきょろ」と言うのです。ほんとうに「自分のスタイルを貫いている」人はきょろきょろあたりを見回して「まわりの人はオレが『自分のスタイルを貫いている』ことをちゃんと見てくれているかな」と自己点検するようなことはしません。そもそも、自分の生き方についての他人の考えになんか何の興味もないので、こんな本読んでないし。
(内田樹『日本辺境論』新潮新書 2009年 pp.24-25)
小飼弾さんの言うように、たしかに「納得感」はあります。私自身もなん度も頷きながら本書を読みました。しかし、この「納得感」は本書の主張が正しいことの裏づけにはなりません。本書によって確認できるのは、せいぜい私たちがこのような日本人観を信仰しているという事実だけです。
内田先生の挙げる日本人の「民族誌的奇習」が日本人に特有のものであることの挙証はどう考えても十分ではありません。本書の論述スタイルには、高野陽太郎先生が『「集団主義」という錯覚 日本人論の思い違いとその由来』(新曜社)で紹介している日本人論の3つの問題点がすべて当てはまります。
杉本とマオアは、「日本人論は、方法がまちがっている」という批判もしている。(中略)
かれらの批判は多岐にわたるが、三点ぐらいにまとめることができるだろう。第一は、多くの場合、比較がなされていないこと。第二は、比較がなされている場合でも、その比較が適切なものであるとはいいがたいこと。第三に、研究データによる裏づけが乏しいこと。この三点である。
(高野陽太郎『「集団主義」という錯覚』新曜社 2008年 p.29)
最後の「研究データ」とは、個人主義的ないしは集団主義的行動に関する調査研究による統計データや、同調行動や協力行動に関する心理学的な実験データのことです。同書で比較されているのは主に日本とアメリカについての研究データですが、いずれの比較においても、日本人とアメリカ人のデータのあいだに顕著な差は確認されていません。
同書が検証しているのはあくまで個人主義的ないし集団主義的傾向の日米差のみですから、同書によって内田先生の主張のすべてが覆されるとまでは言えないものの、その大部分が修正を余儀なくされるでしょう。その意味で、内田先生の立論の信憑性は血液型性格判断とほとんど変わりません。ですから『日本辺境論』は、あくまで自分たちのふるまいや考え方を反省するための方便としてとらえるべきでしょう。
これから読んでみようとお考えの方は、あまり真に受けすぎないようにご注意ください。

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