平岡公彦のボードレール翻訳日記

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ
退屈について語りあうことに退屈することはできない(オビ1グランプリ落選作)。

書くことは抵抗すること。書くことは生成すること。書くことは地図を作ること。
(ジル・ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳,河出文庫,2007年,p.87)

2010年2月21日(日)

痛みとはなにか――ジャック・ケッチャム『隣の家の少女』を読む1

 Dainさんの絶賛書評の誘惑に負けて、とうとうジャック・ケッチャム『隣の家の少女』(扶桑社ミステリー文庫)を読んでしまいました。


 心がどこにあるか知りたいならば、「隣の家の少女」を読めばいい。痛みとともに強烈な感情――吐き気や罪悪感、あるいは汚されたという感覚だろうが、ひょっとすると、"気持ちよさ"かもしれぬ――を生じたところが、あなたの「心」だ。
【劇薬指定】 隣の家の少女: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる


 ストーリーについてはDainさんの書評を参照してください。ただ、私の感想に移るまえにこれだけは書いておかなくてはならないでしょう。「読むレイプ」というのはほんとうです。サド侯爵の小説を平気で読める人でもかなりこたえるのではないか思います。残酷なシーンを読むのが好きな悪趣味な方以外は、絶対に読んではいけません。
 
『多重人格探偵サイコ』の原作者として知られる批評家の大塚英志さんは、『初心者のための「文学」』(角川文庫)のなかで、ポルノグラフィーを、「性的なものを見たい」、「私生活を見たい」、「死体を見たい」という3つの欲求に訴えるものと定義した上で、そうした欲求と文学の関係を論じています。


 かつて、「女子高生コンクリート詰め殺人」と呼ばれた事件がありました。(中略)
 実はこの事件の時、リンチ及び遺体の克明な様子、更には被害者の水着姿までもがある週刊誌に報じられました。それはやり過ぎだという批判がありましたが、その週刊誌の編集長は「読者の知る権利に応えるものだ」と主張しました。
 しかし、一体、被害者の水着姿を報じることや遺体の細部を記述することはジャーナリズムの使命なのでしょうか。
(大塚英志『初心者のための「文学」』角川文庫 2008年 p.118)


 このジャーナリズムへの批判はそのまま文学へも向けられます。こうした欲求に訴えるだけの文学はただのポルノではないのかと。『多重人格探偵サイコ』と同じように。そして、アメリカで実際に起きた悲惨極まりない少女虐待事件をおもしろ半分にエンターテインメント化した小説であるこの『隣の家の少女』は、まぎれもないポルノグラフィーです。
 
 ケッチャム自身がこの作品についてどのように語っているのか私は知りませんが、少なくともこの作品に児童虐待について真摯な問題提起をしようという意図があるとは思えませんでした。言うまでもなくこれはこの作品の良い点です。こういう趣味をいやらしい良識で糊塗されてしまっては興ざめですし、いかなる正当化も排しているからこそ、この作品の不吉な美しさが実現しうるのでしょう。
 
 そして、最低のポルノグラフィーであることと、最高にすばらしい作品であることは決して矛盾しません。
 
「最悪の読後感だ」「気分が悪くなった」と惜しみない賛辞をおくるAmazonに並ぶレビューから伝わってくるのは、まさに「ものすごいものを見た」という興奮です。そう、私たちは間違いなくドキドキハラハラしながらページをめくったはずです。それも、想像を絶するような惨たらしいシーンを期待しながら! すべてを知る語り手であるデイヴィッドは何度も警告を発していたにも関わらず。


 その最後の一度には身の毛がよだった。
(ジャック・ケッチャム『隣の家の少女』金子浩訳 扶桑社ミステリー文庫 1998年 p.311)


 それでも、いや、だからこそ多くの読者は最後まで読むでしょう。だれがそれを非難できるでしょうか? とはいえ、私たちは認めなくてはなりません。「見たかった」のだと。まさに少女が陵辱を受けるシーンを。そして「痛み」という胸が悪くなるほどのマゾヒスティックな興奮を思う存分味わいたかったのだと。少なくとも最後まで読み終えてしまった私たちには、いかなる弁解の余地も残されていません。
 
 しかし、「痛み」を感じるのは、私たちに「良心」があるからではないでしょうか?

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作成者 平岡公彦 : 2010年2月21日(日) 22:38

良心とはなにか――ジャック・ケッチャム『隣の家の少女』を読む2

『隣の家の少女』の卑劣で善良な主人公の少年デイヴィッドは、隣家のルース・チャンドラー一家によって初恋の少女メグの肉体に加えられる凄惨な虐待の光景から「力の感覚」(p.192)を享受します。
 
 これには多様な解釈が可能でしょう。虐げられる彼女に対する傍観者としての絶対的優位、「その気」になればいつでも虐待に加わることができることの自覚、そして、「むごたらしい光景にも耐えることのできるこの私」の「強さ」


 わたしの麻薬は知ることだった。なにが可能なのかを知ること。どこまでやれるのか、彼らがどこまで受けいれるつもりなのかを知ること。
(傍点略。ジャック・ケッチャム『隣の家の少女』金子浩訳 扶桑社ミステリー文庫 1998年 p.285)


 そしてこの「力の感覚」には、残酷な光景からそれを引き出す「評定する眼」を欠かすことができません。


 ニーチェはこう問うている。罪人の苦痛が、彼の引き起した損害の「等価物」として役立ちうるということは、いかに説明すべきなのか。自分のうけた損害が苦しみによって「支払われる」などということが、いかにして可能であるのか。ここで、苦しみから快楽を引きだす眼をもちださなければならない(これは復讐とは何の関係もないことである)。これはすなわち、ニーチェ自身が評定する眼と呼んでいるもの、残酷な光景を好む神々の眼のことである。「罰が大きければ、それだけ祭の気分は高まる。」それほどにも苦痛は、活動的な生とみちたりる眼差しと切り離せない。
(G・ドゥルーズ/F・ガタリ『アンチ・オイディプス(上)』宇野邦一訳 河出文庫 2006年 p.361)


 デイヴィッドの残酷で淫蕩な眼は、もちろん私たち自身の眼でもあります。私たちの眼が可能にする苦痛=快楽のエコノミーによって評定されるのは、メグの損害であり、悪人たちの負債であり、みずからの債権です。私たちは「良心」を持っているという、ただそれだけの理由から、メグに対しては債務者であると感じながらも、なぜか悪人たちに対しては債権者であるかのように感じています。では、彼ら悪人たちは私たちにどんな損害を負わせたというのでしょう?
 
 それは私たちの「不快感」です。私たちの「良心」が負ったこの「損害」によって、私たちは彼らに対して債権者であることができます。では、善良な私たちは彼らにいかなる返済を要求するのでしょうか?
 
「彼らは負債を償還しなければならない」。これは私たちのモラルの不動の原理です。では、彼らにもまったく同じ苦痛を味わわせるべきでしょうか? それとも、苦痛の等価物としての金銭や労働へと換算された債務を負わせるべきでしょうか? いずれも悪くないように思われます。しかし、それでは負債を償還し終えた彼らは私たちと「同じ」になってしまう! 私たちはそれを認めることができるでしょうか? 最も重要な意味で、私たちは彼らに対する優位を維持しなければならないのではないでしょうか?
 
 債権者としての地位を維持するために、私たちは彼らから利子を取り立て続ける必要があります。そのためには、私たちは彼らを反省させなければなりません。
 
 なぜみずからの行為を想起することが負債の償還でありうるのか? それはその記憶が彼に苦痛を与えるからにほかなりません。そう、彼はその記憶に苦しまなければならない。そしてその苦痛は絶えず反復されなければならない。みずからの行いに苦悩する人間に仕立て上げること。彼の記憶を永遠の拷問機械に仕立て上げること。これこそが反省が暗黙に意味していることがらです。そのためには「良心」を彼に植えつける必要があります。

 物語の最後で、悪人たちの負債はいくらか返済されるでしょう。私たちがそれを不十分だと感じるとすれば、彼らの味わった苦痛が不足していたからでしょうか? それとも、彼らの反省が不足していたからでしょうか?

 私たちが吐き気を催すとすれば、それは私たちの貪欲な「良心」の垂れ流す排泄物の臭気のせいではないでしょうか?

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作成者 平岡公彦 : 2010年2月21日(日) 22:25

2010年2月20日(土)

情動とはなにか――下條信輔『サブリミナル・マインド』を読む

 私たちはみずからの意識をどこまで信頼すべきでしょうか?
 
 ウィトゲンシュタインの懐疑は、私たちが直接的に体験している感覚や感情にも向けられます。「この色」はほんとうに「赤い」のか? 「この感覚」はほんとうに「痛み」なのか? そして、私の意識の「この認識」はほんとうに「正しい」のか?


 もしひとが「かれの思っていることを、わたくしはどのようにして知るべきなのか、わたくしはかれの記号しか見ていないのだ」と言うのであれば、わたくしはこう言う〔であろう〕、「かれの思っていることを、かれはどのようにして知るべきなのか、かれはかれの記号しか見ていないのだ」と。
(傍点略。ウィトゲンシュタイン『哲学探究』藤本隆志訳 大修館書店 『ウィトゲンシュタイン全集8』 1976年 §504)


 ここで思い出されるのが、下條信輔先生の『サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ』(中公新書)で解説されている情動二要因理論です。この理論によれば、私たちの情動には、生理的な喚起と認知的なラベルづけの2つの要因があり、驚くべきことに、前者の生理的喚起(興奮)は、喜びや悲しみなどの情動の種類を問わず、ほぼ同じものであると考えられています。


 生理的興奮そのものはさまざまな情動経験の間でよく似ており、どの情動経験に至るかという点ではまだ「未定」です。情動経験は、むしろそこから先の、一種の自己知覚・自己認知・自己帰属の過程に負うところが大きいのです。その際に認知的にラベルづけられる(あるいは帰属される)おおもとの生理的興奮は、あくまでも一般的で「無名」のものなのです。
(下條信輔『サブリミナル・マインド』中公新書 1996年 p.53)


 生理的興奮の無名性は、私たちにみずからの感情をたやすく取り違えさせるでしょう。本書で例として挙げられている有名な「つり橋実験」では、つり橋をわたる男性被験者の恐怖心は、橋の途中で声をかけてきた美しい女性実験者への性的欲情へとすりかわります。そしてさらに驚くべきは「偽の心音実験」です。この実験では、10枚のヌード写真のスライドとともに聞かされた偽の「自分の心臓の音」が、被験者の男子大学生自身の性的欲情の高まりへとすりかわります。
 
 後者の実験においてなにより注目すべきは、自己認知によってラベルづけされる生理的興奮は必ずしも実在する必要はないという点であり、これは私たちの意識のテクスチュアルな(記号的な)表出への信頼を揺るがすには十分すぎる事実です。


 人は自分の気持ち・行動の本当の理由を案外知りません。そこではたらく過程は非生理的できわめて認知的でありながら、それでいて意識的・自覚的ではありません。意識的過程は結局、意識的過程をしか(直接には)知り得ないのです。
(同書 p.61)


 そして、こうしたメカニズムはマーケティング理論へと着実に応用されていくでしょう。


最近注目を集めているニューロマーケティング、
ニューロエコノミクス、あるいは行動経済学をより深く
理解するためのバックボーン的知識を得たい方は、
この2冊の本をお読みになることを強くお勧めします。
サブリミナルマインド&サブリミナルインパクト


「いかにして「欲しい」と思わせるか」から「いかにして「欲しいと思っている」と思わせるか」へ。こうした操作は催眠商法のようなわかりやすいものばかりではもちろんなく、私たちが他者に対して試みる動機づけの、どこまでが穏当な勧誘で、どこからが悪質な操作にあたるかの境界線は、そうした技術が洗練されるにつれてどんどん曖昧になっていくことは間違いありません。
 
 この問題は最終的には「どのような誘導が相手の人間的尊厳を冒瀆することになるのか」という倫理的な問題に帰着せざるをえず、その先には「人間の尊厳」という幻想をめぐる神学論争の泥沼が待ち構えています。
 
「なにが操作されてはならないのか」。私たちはこの問題を決して避けて通ることはできないでしょう。

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作成者 平岡公彦 : 2010年2月20日(土) 20:55

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