私たちはみずからの意識をどこまで信頼すべきでしょうか?
ウィトゲンシュタインの懐疑は、私たちが直接的に体験している感覚や感情にも向けられます。「この色」はほんとうに「赤い」のか? 「この感覚」はほんとうに「痛み」なのか? そして、私の意識の「この認識」はほんとうに「正しい」のか?
もしひとが「かれの思っていることを、わたくしはどのようにして知るべきなのか、わたくしはかれの記号しか見ていないのだ」と言うのであれば、わたくしはこう言う〔であろう〕、「かれの思っていることを、かれはどのようにして知るべきなのか、かれはかれの記号しか見ていないのだ」と。
(傍点略。ウィトゲンシュタイン『哲学探究』藤本隆志訳 大修館書店 『ウィトゲンシュタイン全集8』 1976年 §504)
ここで思い出されるのが、下條信輔先生の『サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ』(中公新書)で解説されている情動二要因理論です。この理論によれば、私たちの情動には、生理的な喚起と認知的なラベルづけの2つの要因があり、驚くべきことに、前者の生理的喚起(興奮)は、喜びや悲しみなどの情動の種類を問わず、ほぼ同じものであると考えられています。
生理的興奮そのものはさまざまな情動経験の間でよく似ており、どの情動経験に至るかという点ではまだ「未定」です。情動経験は、むしろそこから先の、一種の自己知覚・自己認知・自己帰属の過程に負うところが大きいのです。その際に認知的にラベルづけられる(あるいは帰属される)おおもとの生理的興奮は、あくまでも一般的で「無名」のものなのです。
(下條信輔『サブリミナル・マインド』中公新書 1996年 p.53)
生理的興奮の無名性は、私たちにみずからの感情をたやすく取り違えさせるでしょう。本書で例として挙げられている有名な「つり橋実験」では、つり橋をわたる男性被験者の恐怖心は、橋の途中で声をかけてきた美しい女性実験者への性的欲情へとすりかわります。そしてさらに驚くべきは「偽の心音実験」です。この実験では、10枚のヌード写真のスライドとともに聞かされた偽の「自分の心臓の音」が、被験者の男子大学生自身の性的欲情の高まりへとすりかわります。
後者の実験においてなにより注目すべきは、自己認知によってラベルづけされる生理的興奮は必ずしも実在する必要はないという点であり、これは私たちの意識のテクスチュアルな(記号的な)表出への信頼を揺るがすには十分すぎる事実です。
人は自分の気持ち・行動の本当の理由を案外知りません。そこではたらく過程は非生理的できわめて認知的でありながら、それでいて意識的・自覚的ではありません。意識的過程は結局、意識的過程をしか(直接には)知り得ないのです。
(同書 p.61)
そして、こうしたメカニズムはマーケティング理論へと着実に応用されていくでしょう。
最近注目を集めているニューロマーケティング、
ニューロエコノミクス、あるいは行動経済学をより深く
理解するためのバックボーン的知識を得たい方は、
この2冊の本をお読みになることを強くお勧めします。
(サブリミナルマインド&サブリミナルインパクト)
「いかにして「欲しい」と思わせるか」から「いかにして「欲しいと思っている」と思わせるか」へ。こうした操作は催眠商法のようなわかりやすいものばかりではもちろんなく、私たちが他者に対して試みる動機づけの、どこまでが穏当な勧誘で、どこからが悪質な操作にあたるかの境界線は、そうした技術が洗練されるにつれてどんどん曖昧になっていくことは間違いありません。
この問題は最終的には「どのような誘導が相手の人間的尊厳を冒瀆することになるのか」という倫理的な問題に帰着せざるをえず、その先には「人間の尊厳」という幻想をめぐる神学論争の泥沼が待ち構えています。
「なにが操作されてはならないのか」。私たちはこの問題を決して避けて通ることはできないでしょう。

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