平岡公彦のボードレール翻訳日記

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ
退屈について語りあうことに退屈することはできない(オビ1グランプリ落選作)。

書くことは抵抗すること。書くことは生成すること。書くことは地図を作ること。
(ジル・ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳,河出文庫,2007年,p.87)

2010年5月30日(日)

正義を基礎づける――マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を読む1

 NHK教育ハーバード白熱教室でおなじみのマイケル・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(早川書房)を読みました。
 
 本書のなによりの魅力は、アリストテレス、ロック、カント、ベンサム、ミル、ロールズ、ノージックといった哲学者たちの提示した道徳的原理を検証するために集められたバラエティに富んだ事例の数々です。そうした事例の提起する道徳的な難問の検討をつうじて、彼らの道徳的原理の有効性がテストされていきます。そして最後に、そうした哲学者たちの思想を批判的に乗り越える理論として、サンデル教授自身のコミュニタリアニズム(共同体主義)が提唱されます。
 
 本書の第1章で、サンデル教授は道徳哲学の方法を次のように説明しています。


 新たな状況に出会って、自分の判断と原則のあいだを行きつ戻りつし、たがいを参照しつつ判断や原則を修正する。この心の動き、つまり行動の世界から理性の領域へ移り、そしてまた戻る動きのなかにこそ道徳についての考察が存在するのだ。
(中略)
 道徳についての考察が、自分の下す判断と支持する原則の一致を追求することだとすれば、そうした考察はいかにしてわれわれを正義、つまり道徳的真理へ導くのだろうか。(中略)その結果がつじつま合わせの偏見以上の何かであると、どれほどの自信をもって言えるだろうか。
 その答えはこうだ。道徳をめぐる考察は孤独な作業ではなく、社会全体で取り組むべき試みなのである。
(マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』鬼澤忍訳 早川書房 2010年 p.41)


 そして、社会全体で取り組む道徳をめぐる考察がなんらかの合意に達するためには、そうした一致を可能にするような社会の成員すべてに共通したなにかが存在している必要があります。サンデル教授は「それは理性(純粋実践理性)である」と考えるカントの思想を採用しているようですが、理性の一致とは、言語や文法や論理といった私たちの思考方法の形式的な一致のことです。ここから「同じような条件のもとで、同じように考えれば、おのずと同じ結論に達するはずだ」という楽観的な見通しが生まれます。
 
 それに加え、道徳的探求によって到達する原則は、普遍的かつ無矛盾でなくてはなりません。言い換えれば、ある事例と、ほとんど条件の同じ別の事例とに適用される判断の原則が異なっていてはならないということです。よく似た事例であるにもかかわらず適用される原則が異なる場合には、その区別を正当化しうるなんらかの条件の違いが存在しなければなりません。ですから、それぞれの事例を検討する際には、なにが個々の事例の個別性を超えて本質的な共通点であり、なにがその事例の特異性を特徴づける重要な相違点なのかをつねに見極める必要があるでしょう。
 
 では、道徳的原理は、私たちすべてがもつ理性によって、普遍的かつ無矛盾なものとして定立されていれば十分な正当性をもつのでしょうか? もちろんそれだけでは十分ではありません。サンデル教授の議論に従えば、道徳的原理は、それによって保護されるに値する美徳に、それにふさわしい地位を与えるものでなくてはなりません。つまり、道徳的原理には、そうした美徳の体系的整理と序列化が含まれるということです。
 
 ここから道徳的な価値をめぐる果てしない価値観の対立が幕を開けることになるでしょう。しかしサンデル教授は、この古くて新しい戦場に果敢に一歩を踏み出すことを提案しています。


あなたは「正しさ」について、共に考え行う不安に耐える覚悟があるのか?
 
それこそが、著者のつきつけたRed Pillなのだ。
404 Blog Not Found:理の不安 - 書評 - これからの「正義」の話をしよう


 小飼弾さんのようにカッコよく締めて終わりにするのではなく(笑)、以下の記事では、サンデル教授自身の提唱するコミュニタリアニズムについて考えてみることにしましょう。

¤ˤۤó¥֥�¼ Ëܥ֥� ½ñɾ¡¦¥ì¥ӥ塼¤Ø
にほんブログ村

作成者 平岡公彦 : 2010年5月30日(日) 22:10

義務を基礎づける――マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を読む2

 ここからは、マイケル・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(早川書房)の第9章と第10章で議論されているコミュニタリアニズムについて考えてみたいと思います。
 
 サンデル教授の主張の検討に入る前に、まずは単純な定義的事実を確認しておきたいのですが、道徳とは、すべての人が例外なく従わなくてはならない規則のことです。ですからそれがだれであれ、その人だけがそうすべきだと信じている規則はたんなる信念であって道徳ではありません。したがって、「自分さえよければいい」というようなきわめて利己的な考えも、それが道徳として主張されるなら、「みんなそう考えるべきだ」という主張を含んでしまうわけです。
 
 道徳の定義のなかにはすでに道徳の共同体主義的性質が埋め込まれています。共同体なき道徳など存在しません。道徳的共同体に帰属し、その規則に服従することは、道徳というものが成立するための条件であり、またそうした道徳的共同体の必要性を認めるならば、その維持のために必要な禁止を受け容れ、必要な奉仕を提供することにも同意せざるをえないでしょう。そしてそれらを強制することもまた、道徳的共同体の維持という目的によって正当化されることになります。
 
 ですからリバタリアン的な義務論を持ち出すまでもなく、義務とは、強制すべき服従と奉仕のことです。裏を返せば、義務にはそれを強制することを正当化しうるような必然性がなければならないとも言えます。そうした必然性のない義務は抑圧にほかなりません。だからこそ、なにが私たちの義務なのかという問題は、最大限慎重に検討されなければなりません。
 
 以上を踏まえた上で、サンデル教授の考える道徳的責任の3つのカテゴリーについて検討してみましょう。


道徳的責任の三つのカテゴリー
1 自然的義務:普遍的。合意を必要としない。
2 自発的責務:個別的。合意を必要とする。
3 連帯の責務:個別的。合意を必要としない。
(マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』鬼澤忍訳 早川書房 2010年 p.291)


 第2の「自発的責務」とは「自分からした約束を守る義務」のことですから脇においておくとして、ここで問題にすべきなのは、第1の「自然的義務」と第3の「連帯の責務」を区別することの妥当性です。
 
 道徳的義務とは、道徳的共同体への義務にほかなりません。ですから私は、第3のカテゴリーの責務は第1のカテゴリーの義務にはじめから含まれていると考えます。しかし、サンデル教授の提案する第3のカテゴリーの責務は、それよりもさらに各人の自由の制限に踏み込んだ義務を要求しています。


 もし、道徳的行為の物語的な考え方のほうが説得力を持つとすれば、アリストテレスの正義についての考え方は再考の価値があるかもしれない。私の善についての熟考に、私のアイデンティティが結びついたコミュニティの善についての反省が含まれるとすれば、中立性を求めるのは間違っているかもしれない。善良な生活について熟考せずに正義について熟考することはできないし、望ましくさえないかもしれない。
(同書 p.313)


 ここにはいくつもの熟慮すべき問題が含まれています。そのうちの中立性について考えてみるなら、たとえばリベラリストやリバタリアンが重視する自由は、規則として共同体の成員に課せられれば、他者に対する寛容や不干渉、場合によっては「自分と意見の異なる人の不愉快なふるまいを大目に見ること」を強制することになります。その意味で、道徳的原則は「善良な生活」についての判断を下すことを避けられません。したがって、中立的な道徳的原則はありえないと言えるでしょう。
 
 しかし、どのような道徳的価値が「善良な生活」において保護されるに値するかは、明らかに普遍性の水準においても吟味されるべき問題です。では、連帯の責務における個別性とは、いったいなにを意味するのでしょうか?

¤ˤۤó¥֥�¼ Ëܥ֥� ½ñɾ¡¦¥ì¥ӥ塼¤Ø
にほんブログ村

作成者 平岡公彦 : 2010年6月6日(日) 22:16

連帯を基礎づける――マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を読む3

『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(早川書房)において展開されているマイケル・サンデル教授のコミュニタリアニズムの議論では、読んでいて困惑するほど明確にナショナリズムの意義が称揚されています。


 家族や同胞の行動に対する誇りや恥の度量は、集団の責任についての度量に関連する。どちらも、みずからを位置ある自己として見ることを要する。位置ある自己とは、みずから選んだのではない道徳的絆に縛られ、道徳的行為者としてのアイデンティティを形づくる物語にかかわりを持つ自己だ。
(中略)
 帰属には責任が伴う。もしも、自国の物語を現在まで引き継ぎ、それに伴う道徳的重荷を取り除く責任を認める気がないならば、国とその過去に本当に誇りを持つことはできない。
(マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』鬼澤忍訳 早川書房 2010年 p.304)


 私はfinalventさんが危惧しているほどナショナリズムを危険な偏見だとは思っていませんが、それが必要以上に強化される方向に進んでしまうと、私たちにとって好ましくない結果をもたらすことはもちろん理解しています。そのさじ加減を人為的に調節できると考えるのもあまりに楽観的すぎるでしょう。


 私はサンデル教授の思想に違和感を覚える。私は、ナショナリズムが生み出した罪責はナショナリズムの解体を志向する方向で償わなければ、それ自身がナショナリズムを強化するし、また被害の側に転倒されたナショナリズムを強化することになると考える。歴史的不正がないとは言わない。だが、サンデル教授の理路は、違うのではないか。
[書評]これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル): 極東ブログ


 家族や祖国に対する愛着や帰属意識の重要性を情熱的に説くとき、サンデル教授はそれ以前にみずから解説したカントの思想を忘れてしまってはいないでしょうか。


 カントは、他者を助けるという行為の動機(善行をなすことで喜びを感じること)と、義務の動機を区別している。そして義務の動機だけが、行動に道徳的な価値を与えると述べている。利他的な人間の思いやりは「称賛と奨励に値するが、尊敬には値しない」。
(サンデル前掲書 p.150)


 私は家族や祖国に対する愛着や帰属意識は、この意味での「思いやり」と同じもの(傾向性)であり、義務とは別のものであると考えています。それはもちろん克服されなければならない偏見などではありませんが、また逆に普遍的な美徳よりも優先的に尊重されなければならないような道徳的意義があるとも思えません。
 
 サンデル教授は、こうした共同体主義的美徳が普遍的美徳に優先しうることを示すために、第二次世界大戦で故郷の爆撃を拒否したフランスのレジスタンスや、南北戦争で州のためにみずからの信念を曲げて南軍の司令官となったロバート・E・リーなどの傾聴すべき事例を紹介する一方で、飢饉に喘ぐエチオピアからユダヤ人だけを救出したイスラエルや、殺人容疑で指名手配されている兄の捜査への協力を拒否した弟といったまずい事例を挙げてしまっています。こうした議論は確かに私たちの道徳的感情に訴えはするものの、成功しているとは言いがたいでしょう。
 
 たとえば、アメリカで大地震が起きて大きな犠牲者が発生したときに、日本から救援に駆けつけた自衛隊が、現地に住んでいた日本人ばかりを選択的に救助し、それ以外の人たちを見殺しにしたとすれば、アメリカはもちろんのこと、世界中から非難を浴びることになるでしょう。この場合、先の事例によってサンデル教授がその正当性を根拠づけようとしていた「国家には国民の面倒を見る特別な責任がさらにある」(p.295)などという主張が受け容れられるとはとても思えません。
 
 だとすれば、共同体主義的美徳が正当化されうるのは、やはりそれを超えた普遍的美徳に合致し、それを賦活する場合に限られるのではないでしょうか。

¤ˤۤó¥֥�¼ Ëܥ֥� ½ñɾ¡¦¥ì¥ӥ塼¤Ø
にほんブログ村

作成者 平岡公彦 : 2010年5月30日(日) 22:15

2010年5月23日(日)

道徳的行為の条件とはなにか――NHK教育『ハーバード白熱教室』を観る1

 ハーバード大学の政治哲学者マイケル・サンデル教授の人気講義を紹介したNHK教育ハーバード白熱教室は、私も毎回欠かさず聴講しています。昨日刊行されたサンデル教授の本がまだうちに届かないので(笑)、今回は、第1回「殺人に正義はあるか」で議論されていた問題について考えてみたいと思います。
 
「Lecture1 犠牲になる命を選べるか」では次のような事例が提示されます。


あなたは時速100kmのスピードで走っている車を運転しているが、ブレーキが壊れていることに気付きました。前方には5人の人がいて、このまま直進すれば間違いなく5人とも亡くなります。横道にそれれば1人の労働者を巻き添えにするだけですむ。あなたならどうしますか?
NHK ハーバード白熱教室|講義詳細


 最初に確認しておくべきなのは、この事例は「5人を殺すか、1人を殺すか」の選択ではないということです。なにもしなくても絶対に死者が発生する状況下で「どちらを死なせないか」を選択することと、「どちらを殺すか」を選択することとのあいだには、無視できない大きな隔たりがあります。そして、運転手はたとえその場で自殺したとしてもどちらかを選んでしまうことなる以上、犠牲を最小限に止めるために1人を犠牲にするほうを選ぶしかないように思われます。
 
 もちろんこうした状況が「どちらを殺すか」の選択に変化することはあります。たとえば、運転手が横道の1人がじつは離婚した元妻の浮気相手の男であることを発見し、明確な殺意をもって車の進路を変更した場合がそうです。この場合、殺意があったことを理由に運転手の行為を悪と決めつけてしまえれば話はとてもかんたんなのですが、ちょっと待ってください。運転手は、自分の殺意の発生に対して責任があると言えるでしょうか?
 
 そもそも、運転手がブレーキの故障した車を運転していたことも、行く手の道路上に元妻の浮気相手がいたこともただの偶然にすぎません。そして、このような状況におかれなければ、運転手は元妻の浮気相手を殺そうなどとは夢にも思わなかったかもしれません。このような不幸な偶然によらなければ決して生じえなかった殺意を責めるのは、あまりにもアンフェアではないでしょうか?
 
 整理すると、運転手の殺意は、この事例の帰結に対して明らかに構成的に作用しているとは言えるものの、事例全体としてみれば偶然的なものにすぎず、その意味では副次的な重要性しかないとも言えます。一般に、行為の結果に対する有効性は、その結果への貢献度によって判定されなければならないように、こうした場合における行為者の有責性も結果に及ぼした効果によって判定されるべきでしょう。以上を総合すると、この事例における運転手の殺意は、「犠牲を最小限にするための選択」に付随するノイズにすぎないとも考えられるわけです。
 
 ではその結果、運転手は自分の選択によって事故の犠牲者を最小限に止めることができ、その上憎むべき男を殺すことができたことに心から満足するとしたらどうでしょうか? そうなると、彼がおかれた不幸な事情を最大限考慮したとしても、「結果として生じたそのような感情を容認できるのか?」と問わずにはいられなくなります。
 
 こうした問題を解決するには、「道徳的な悪」と「責任」という2つの概念を分けて考える必要がありそうです。


 こうしてみると、サンデル教授の講義内容からはずいぶんと脱線した記事になってしまいました(笑)。実際の講義がどのようなものだったかを知りたい方には、以下の2つの記事が参考になるでしょう。


¤ˤۤó¥֥�¼ ů³ء¦»×Áۥ֥�¤Ø
にほんブログ村

作成者 平岡公彦 : 2010年5月30日(日) 20:00

たんなる生存の限界内の道徳――NHK教育『ハーバード白熱教室』を観る2

 道徳的な悪と責任の問題についての考察を深めるには、「Lecture2 サバイバルのための殺人」で議論されていたもう1つの事例について考えてみることが有意義でしょう。


サンデル教授は、19世紀の有名な訴訟事件「ヨットのミニョネット号の遭難事件」から授業を始める。それは、19日間、海上を遭難の後、船長が、乗客が生き残ることができるように、一番弱い給仕の少年を殺害し、その人肉を食べて生存した事件だった。君たちが陪審員だと想像して欲しい。彼らがしたことは道徳的に許容できると考えるだろうか?
NHK ハーバード白熱教室|講義詳細


 私は、こうした「究極の場面における選択は、倫理的に正当化されるべきことではない」という野崎泰伸さんの意見に基本的には賛成です。その上で私は、「道徳的に正しいか否か」と「道徳的に許されるか否か」という問題は区別して考えるべきだと考えています。ですから、1つの行為に対する「正当化すべきではない」という道徳的価値判断と「許されるべきである」という道徳的価値判断は矛盾なく両立します。
 
 こうした区別から「必要悪」という概念を導くことができます。必要悪というと、善とも悪とも判定しかねる行為を適当に放り込んでおくためのグレーゾーンのように考えている人もいるかもしれませんが、私の考えでは、必要悪とは「許されるべき悪」のことであり、その成立要件と適用範囲が厳格に定義されるべき実践的な概念です。ミニョネット号事件よりもシンプルな例を挙げるなら、たとえば拳銃を突きつけられて強要された殺人はそれ自体としては悪ですが、殺人を強要された当人の責任を問うことはできないという意味で、その悪は許されなければならないと考えるべきでしょう。
 
 もちろんその人は人を殺すことをあくまで拒否し、脅迫者によって殺されることを選ぶこともできたでしょう。しかし、それをまさに殺されようとしている側の人が要求するならともかく(この要求も必要悪でしょう)、それを第三者が要求することを正当化できるでしょうか? font-daさんの言うように、非当事者が当事者に対して言えることには、配慮すべき固有の限界があるはずです。


 私たちは、船に乗っておらず、死刑執行人ではない。そして、殺されていく人々も、<私>ではない。倫理とは、現場にいる人に成り代わり、シュミレーションして、ベストソリューションを出すことではない。現場にいる人に対し、現場ではない場所から、何を言い、どうするのかを考えることである。
船には乗っていません、という話。 - キリンが逆立ちしたピアス


 ただ、こうした「だれに対する・なんのための」という問題を考慮すると、道徳的価値判断の意義自体を問う必要が生じます。先ほどの必要悪という概念も、当事者にしてみれば、無関係の第三者が自己満足するための無意味な屁理屈にすぎないかもしれません。その意味で、道徳的な価値判断には、一方的な評価を押しつける暴力に転落する危険性がつねにともないます。
 
 しかし、「だれに対する・なんのための」という観点は、「だれに対する・なんのための道徳的価値判断が善い道徳的価値判断なのか?」というかたちで、ふたたび普遍化された道徳的問題領域に包摂することが可能ではないでしょうか? そこにさらに「だれに対する・なんのための」という観点を導入しようとすると、無限後退に陥ることは避けられないでしょう。
 
 道徳的価値は、このように個別的観点を無限に内在化してゆく「われわれ」の共同性の内部において成立しています。その意味で、道徳哲学とは、そうした個別的観点の上位に成立する共同性を可能にする普遍性の追究にほかなりません。

¤ˤۤó¥֥�¼ ů³ء¦»×Áۥ֥�¤Ø
にほんブログ村

作成者 平岡公彦 : 2010年5月23日(日) 22:25

前の記事  |  次の 2 記事   
2010年5月

            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
バックナンバー

2012年4月

2012年3月

2012年2月

2012年1月

2011年12月

2011年11月

2011年10月

2011年9月

2011年8月

2011年7月

2011年6月

2011年5月

2011年4月

2011年3月

2011年2月

2011年1月

2010年12月

2010年11月

2010年10月

2010年9月

2010年8月

2010年7月

2010年6月

2010年5月

2010年4月

2010年3月

2010年2月

2010年1月

2009年12月

2009年11月

2009年10月

2009年9月

2009年8月

2009年7月

2009年6月

2009年5月

2009年4月

2009年3月

2009年2月

2009年1月

2008年12月

2008年11月

2008年10月

2008年9月

2008年8月

2008年7月

2008年6月

2008年5月

2008年4月

2008年3月

2008年2月

2008年1月

2007年12月

2007年11月

2007年10月

2007年9月
新着記事一覧

プラトンの偉大さ――プラトンの倫理学1

ハイデガー超入門――『暇と退屈の倫理学』をめぐる國分功一郎さんとの質疑応答2

ハイデガーと決断――『暇と退屈の倫理学』をめぐる國分功一郎さんとの質疑応答1

國分功一郎さんへ――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』についての質問2

消費をどう見るか――宇野常寛/國分功一郎「個人と世界をつなぐもの」を読む2

宇野常寛について――宇野常寛/國分功一郎「個人と世界をつなぐもの」を読む1

概念の創造の実践――國分功一郎『スピノザの方法』を読む

概念の創造の方法――國分功一郎「ドゥルーズの哲学原理(1)」を読む

トップページ(音声ガイダンス:『がくっぽいど』)

知の公共圏の構築――今こそ梅田望夫『ウェブ時代をゆく』を読み返す

2011年のバックナンバー(下半期)

2011年のバックナンバー(上半期)

記号の消費と疎外――ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』を読む1

記号の秩序と主体――ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』を読む2

環世界論への疑問――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』についての疑問1
リンク

平岡公彦の読書日記
   新ブログ

にほんブログ村
   バックナンバーはこちらから

プロフィール
   Amazonで公開中のプロフィール

L'Invitation @ Baudelaire

ボードレール語録

池田信夫 blog

404 Blog Not Found

極東ブログ

内田樹の研究室

平野啓一郎公式ブログ
My Yahoo!に追加 RSS


Counter


プライバシーポリシー - 利用規約 - ガイドライン - 特定商取引法の表示 - サイトマップ - ヘルプ・お問い合わせ
Copyright (C) 2012 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.