『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(早川書房)において展開されているマイケル・サンデル教授のコミュニタリアニズムの議論では、読んでいて困惑するほど明確にナショナリズムの意義が称揚されています。
家族や同胞の行動に対する誇りや恥の度量は、集団の責任についての度量に関連する。どちらも、みずからを位置ある自己として見ることを要する。位置ある自己とは、みずから選んだのではない道徳的絆に縛られ、道徳的行為者としてのアイデンティティを形づくる物語にかかわりを持つ自己だ。
(中略)
帰属には責任が伴う。もしも、自国の物語を現在まで引き継ぎ、それに伴う道徳的重荷を取り除く責任を認める気がないならば、国とその過去に本当に誇りを持つことはできない。
(マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』鬼澤忍訳 早川書房 2010年 p.304)
私はfinalventさんが危惧しているほどナショナリズムを危険な偏見だとは思っていませんが、それが必要以上に強化される方向に進んでしまうと、私たちにとって好ましくない結果をもたらすことはもちろん理解しています。そのさじ加減を人為的に調節できると考えるのもあまりに楽観的すぎるでしょう。
私はサンデル教授の思想に違和感を覚える。私は、ナショナリズムが生み出した罪責はナショナリズムの解体を志向する方向で償わなければ、それ自身がナショナリズムを強化するし、また被害の側に転倒されたナショナリズムを強化することになると考える。歴史的不正がないとは言わない。だが、サンデル教授の理路は、違うのではないか。
([書評]これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル): 極東ブログ)
家族や祖国に対する愛着や帰属意識の重要性を情熱的に説くとき、サンデル教授はそれ以前にみずから解説したカントの思想を忘れてしまってはいないでしょうか。
カントは、他者を助けるという行為の動機(善行をなすことで喜びを感じること)と、義務の動機を区別している。そして義務の動機だけが、行動に道徳的な価値を与えると述べている。利他的な人間の思いやりは「称賛と奨励に値するが、尊敬には値しない」。
(サンデル前掲書 p.150)
私は家族や祖国に対する愛着や帰属意識は、この意味での「思いやり」と同じもの(傾向性)であり、義務とは別のものであると考えています。それはもちろん克服されなければならない偏見などではありませんが、また逆に普遍的な美徳よりも優先的に尊重されなければならないような道徳的意義があるとも思えません。
サンデル教授は、こうした共同体主義的美徳が普遍的美徳に優先しうることを示すために、第二次世界大戦で故郷の爆撃を拒否したフランスのレジスタンスや、南北戦争で州のためにみずからの信念を曲げて南軍の司令官となったロバート・E・リーなどの傾聴すべき事例を紹介する一方で、飢饉に喘ぐエチオピアからユダヤ人だけを救出したイスラエルや、殺人容疑で指名手配されている兄の捜査への協力を拒否した弟といったまずい事例を挙げてしまっています。こうした議論は確かに私たちの道徳的感情に訴えはするものの、成功しているとは言いがたいでしょう。
たとえば、アメリカで大地震が起きて大きな犠牲者が発生したときに、日本から救援に駆けつけた自衛隊が、現地に住んでいた日本人ばかりを選択的に救助し、それ以外の人たちを見殺しにしたとすれば、アメリカはもちろんのこと、世界中から非難を浴びることになるでしょう。この場合、先の事例によってサンデル教授がその正当性を根拠づけようとしていた「国家には国民の面倒を見る特別な責任がさらにある」(p.295)などという主張が受け容れられるとはとても思えません。
だとすれば、共同体主義的美徳が正当化されうるのは、やはりそれを超えた普遍的美徳に合致し、それを賦活する場合に限られるのではないでしょうか。

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