道徳的な悪と責任の問題についての考察を深めるには、「Lecture2 サバイバルのための殺人」で議論されていたもう1つの事例について考えてみることが有意義でしょう。
サンデル教授は、19世紀の有名な訴訟事件「ヨットのミニョネット号の遭難事件」から授業を始める。それは、19日間、海上を遭難の後、船長が、乗客が生き残ることができるように、一番弱い給仕の少年を殺害し、その人肉を食べて生存した事件だった。君たちが陪審員だと想像して欲しい。彼らがしたことは道徳的に許容できると考えるだろうか?
(NHK ハーバード白熱教室|講義詳細)
私は、こうした「究極の場面における選択は、倫理的に正当化されるべきことではない」という野崎泰伸さんの意見に基本的には賛成です。その上で私は、「道徳的に正しいか否か」と「道徳的に許されるか否か」という問題は区別して考えるべきだと考えています。ですから、1つの行為に対する「正当化すべきではない」という道徳的価値判断と「許されるべきである」という道徳的価値判断は矛盾なく両立します。
こうした区別から「必要悪」という概念を導くことができます。必要悪というと、善とも悪とも判定しかねる行為を適当に放り込んでおくためのグレーゾーンのように考えている人もいるかもしれませんが、私の考えでは、必要悪とは「許されるべき悪」のことであり、その成立要件と適用範囲が厳格に定義されるべき実践的な概念です。ミニョネット号事件よりもシンプルな例を挙げるなら、たとえば拳銃を突きつけられて強要された殺人はそれ自体としては悪ですが、殺人を強要された当人の責任を問うことはできないという意味で、その悪は許されなければならないと考えるべきでしょう。
もちろんその人は人を殺すことをあくまで拒否し、脅迫者によって殺されることを選ぶこともできたでしょう。しかし、それをまさに殺されようとしている側の人が要求するならともかく(この要求も必要悪でしょう)、それを第三者が要求することを正当化できるでしょうか? font-daさんの言うように、非当事者が当事者に対して言えることには、配慮すべき固有の限界があるはずです。
私たちは、船に乗っておらず、死刑執行人ではない。そして、殺されていく人々も、<私>ではない。倫理とは、現場にいる人に成り代わり、シュミレーションして、ベストソリューションを出すことではない。現場にいる人に対し、現場ではない場所から、何を言い、どうするのかを考えることである。
(船には乗っていません、という話。 - キリンが逆立ちしたピアス)
ただ、こうした「だれに対する・なんのための」という問題を考慮すると、道徳的価値判断の意義自体を問う必要が生じます。先ほどの必要悪という概念も、当事者にしてみれば、無関係の第三者が自己満足するための無意味な屁理屈にすぎないかもしれません。その意味で、道徳的な価値判断には、一方的な評価を押しつける暴力に転落する危険性がつねにともないます。
しかし、「だれに対する・なんのための」という観点は、「だれに対する・なんのための道徳的価値判断が善い道徳的価値判断なのか?」というかたちで、ふたたび普遍化された道徳的問題領域に包摂することが可能ではないでしょうか? そこにさらに「だれに対する・なんのための」という観点を導入しようとすると、無限後退に陥ることは避けられないでしょう。
道徳的価値は、このように個別的観点を無限に内在化してゆく「われわれ」の共同性の内部において成立しています。その意味で、道徳哲学とは、そうした個別的観点の上位に成立する共同性を可能にする普遍性の追究にほかなりません。

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