平岡公彦のボードレール翻訳日記

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ
退屈について語りあうことに退屈することはできない(オビ1グランプリ落選作)。

書くことは抵抗すること。書くことは生成すること。書くことは地図を作ること。
(ジル・ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳,河出文庫,2007年,p.87)

2010年9月19日(日)

ベーシック・インカムは理想的な社会保障か――ベーシック・インカムについて考える1

 ここしばらく、ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』(日経BP社)を読んで関心を持った負の所得税との関連で、ベーシック・インカムについて勉強していました。
 
 ベーシック・インカム(以下、BI)とは、子供から老人まですべての個人に一定の額の現金を無条件に給付する制度です。ネット上の主な賛同者の意見はベーシック・インカム研究所の記事(参照)に、BIに関する文献はウラゲツ☆ブログの記事(参照)にまとめられていますので参考にしてください。
 
 BIのなにより特筆すべきメリットは、受給資格の審査が必要ないので、生活保護とは比較にならないほどスムーズかつ広範に生活困窮者を救済することができることです。それに加え、生活保護や失業給付や各種公的年金をBIに一元化することにより、審査等の人件費をはじめ、非常に大規模に行政コストを削減できます(浮いたお金はすべて給付にあてられます)。また、すべての個人が同じ額を受け取るのですから、受給への心理的な抵抗感もまったくなくなるでしょう。
 
 給付される額は論者によってまちまちですが、日本の人口を1億3000万人とすれば、BIを月5万円(年間60万円)給付すると78兆円、月6万円(年間72万円)給付すると約94兆円、月7万円(年間84万円)給付すると約109兆円の予算があれば実現できる計算になります。こうしてみるとあまりに非現実的な額に思えますが、小沢修司先生の試算(参照)や小飼弾さんの試算(参照)などをみる限りでは、月6万円くらいまでなら財源はなんとかなりそうです。
 
 と、ここまで好意的に紹介してきましたが、私はBIには反対です。
 
 理由は大きく2つあります。1つは、BIを導入すれば、たしかにたくさんの生活困窮者を救うことができるとはいえ、収入に非常に高率のBI税が課されることによって、逆に低所得者層を固定化し、どんなに働いても低水準の生活から抜け出せない社会になってしまうおそれがあるからです。のちほど試算しますが、BIが導入されれば、給与の約半分が税金として徴収されることになります。
 
 もう1つは、労働へのインセンティブの問題です。山崎元さんをはじめ、BIに賛成する人の多くは、BIは労働へのインセンティブを阻害するおそれはないと言っていますが、ほんとうにそうでしょうか?


 おバカさんが分からないらしいのはこの点。BIは無条件且つ定額なので、所得水準の如何に関わらず「より稼ぐと、より多くのお金を得ることが出来る」。現実的な額(一人月5万円とか)なら、労働意欲を削ぐことはないだろう。「働かなくてもカネを貰える」のは、生活保護も一緒。だが、生活保護は、稼ぎが増えると貰えなくなる。BIの方が労働インセンティブに対して中立。
ベーシックインカム7つの長所 - 評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」


 たしかに、自分の好きな仕事ややりがいのある仕事に就いている人なら、BIがあるからといって仕事を辞めたりはしないでしょう。しかし、だれもやりたがらないつらい仕事に就いている人はそうとは限りません。そして、そうしたつらい仕事に従事する人が減れば、それに依存するモノやサービスの価格は高騰するでしょう。
 
 そのなかには、ごみ収集や屎尿処理のように、私たちの生活に欠かせないものもあります。そうしたサービスへの負担が増えれば、BI支給額に占めるそのための費用の割合もどんどん大きくなり、せっかくBIによって救済されたはずの貧困層の生活がふたたび困窮することにもなりかねません。
 
 以下の記事では、こうしたBIの問題点について、さらに踏み込んで考えてみたいと思います。

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作成者 平岡公彦 : 2010年9月20日(月) 20:22

ベーシック・インカムは貧困層を固定化する――ベーシック・インカムについて考える2

 新田ヒカルさんと星飛雄馬さんによる『やさしいベーシック・インカム 貧困のない社会を実現する理想の社会保障』(サンガ)では、ベーシック・インカム(以下、BI)によって家計所得が増加する3つのモデルケースが提示されていますが、これはほんとうに正しいのでしょうか?
 
 同書の試算は以下の条件に基づいています。


ベーシック・インカム支給額 月額8万円
ベーシック・インカム税率 45%
ベーシック・インカム税制の場合、医療、介護などの現物給付部分の社会保険を残すと仮定し、その維持のために社会保険料(収入の4%相当)を徴収してその部分は非課税とする。
(新田ヒカル/星飛雄馬『やさしいベーシック・インカム』サンガ,2009年,p.146)


 まず気になるのはBI税率45%でしょう。国税庁民間給与実態統計調査参照)によると、日本の民間企業が国内で一年間に支払う給与の総額は約200兆円です。その45%を徴収すれば90兆円ですから、国民全員にBIを毎月6万円給付するために必要な約94兆円をほぼ賄えます。
 
 では残る月2万円分の財源約31兆円はどうするのかという疑問が生じますが、それはのちほど検討することにして、まずは年収300万円のサラリーマンを例に、大まかに試算してみましょう。
 
 現行税制では、給与に所得税を課税する際に、給与収入から必要経費相当分である給与所得控除を差し引いて所得を算出します。この例では、計算式は300万円×70%−18万円で、192万円が所得となります。
 
 そこから現行の所得税5%と、それから忘れてはならない住民税(市区町村民税と都道府県民税)10%を算出すると(住民税は翌年の給与から引かれますが、計算上はこれでも問題ないでしょう)、合計約29万円になります。年収からこれらの税金と社会保険料(健康保険と雇用保険と年金)36万円(便宜上年収の12%とします)を差し引くと、手元に残るのは約235万円です。
 
 続いてBI導入後を試算してみましょう。BIが導入されれば、必要経費相当分はBIで補填されるとみなされますから、給与収入にそのままBI税が課税されます。年収300万円からBI税45%と住民税5%(行政の効率化の結果半額になったとします)を算出すると、合計150万円になります。年収からこれらの税金と年間の健康保険料(雇用保険と年金はBI税に一元化)12万円(年収の4%)を差し引くと、手元に残るのは138万円です。
 
 BI導入前後を比較すると、年間約97万円、月では約8万円実質的な収入が減ることがわかります。BIが月6万円では赤字になるので、ここでふたたび足りない月2万円分をどうするかが問題になります。
 
 この不足分を消費税の増税で補うと、前出の新田さんの試算のとおり(参照)、消費税によって物価が上がった分を穴埋めすることになるだけですから、実質的な生活水準は向上しません。では、それ以外の財源はどうでしょうか。平成22年度一般会計予算参照)によると、所得税と国債を除いた歳入は約35兆円です。ここから国債費20兆円を引くと残りは15兆円ですが、これをBIにあてるのはどう考えても無理でしょう。
 
 したがって、BI支給額は月6万円が限界です。しかしそれを給付すると、144万円(年間BI給付額の2倍)以上年収のある人すべての実質収入が減少します。ですから、BIによって最底辺の貧困層の生活はたしかに改善されるものの、独身のワーキング・プアの生活はむしろ悪くなる可能性があります。
 
 そしてなにより最悪なのは、高率のBI税のせいで、働いても働いても生活水準が向上しなくなることです。

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作成者 平岡公彦 : 2010年9月20日(月) 20:18

ベーシック・インカムは社会保障を破壊する――ベーシック・インカムについて考える3

 山森亮先生は、『ベーシック・インカム入門 無条件給付の基本所得を考える』(光文社新書)のなかで、「ベーシック・インカム(以下、BI)が導入されると、いわゆる3K仕事に従事する人がいなくなるのではないか」という疑問に次のように答えています。


従事したいという人がいれば、それこそそこで市場の需要と供給の原則の出番である。仕事が同じ状態のままならば賃金が上がるだろう。3K仕事の賃金の方が大学教員の給料より高くて当然かもしれない。また「きつい」仕事や「汚い」仕事は労働時間を短縮したり、またきつくなくするような技術革新に投資したり、「危険」な仕事は危険度を低くする工夫がなされたり、といったことがなされるようになるだろう。
(山森亮『ベーシック・インカム入門』光文社新書,2009年,p.276)


 たしかに、だれもやりたがらない仕事でも、高額の賃金をもらえるならやりたいという人は出てくるでしょう。しかし賃金の増額は、そのまま商品やサービスの価格の高騰に繋がります。逆に言うと、賃金を上げることができなければ、現在後継者不足の問題をかかえている分野は軒並み壊滅するということを意味するでしょう。
 
 モノであれば全面的に輸入に頼るという方法もあるかもしれませんが、サービスはそうはいきません。たとえばごみ収集や屎尿処理のような私たちの生活に欠かせないサービスへの費用負担は避けることができませんから、そうした仕事に就く人が減ることは、確実に家計を圧迫することになります。それをBIによって埋め合わせようとしても、インフレの悪循環がもっとひどくなるだけです。
 
 特に心配なのは医療・介護の分野でしょう。それについては、『現代思想』2010年6月号「特集=ベーシックインカム――要求者たち」に、渡邉琢さんの「ベーシックインカムがあったら、介助を続けますか?」という貴重なインタビュー記事があります。


 一一名の方にインタビューしてみた。そのうち、七名が続けるといい、四名がやめちゃうかも、と言っていた。(中略)ただし、続けるという人の声にも社交辞令的な部分もあるかもしれない。学生介助者で、大学を辞めて、介助も辞めるとき、だいたいの人はまた来ますね、と言って去っていくが、その大半はほとんど来なくなってしまう。(中略)
 また、続けると言った人の多くに共通しているのが、ベーシックインカムがあったら介助は続けるけど、ペースは減らす、と言っていたことだ。大勢の介助者がペースを減らしたら、介助がまわんなくなっちゃうんじゃないか、という一抹の不安を感じた。
(渡邉琢「ベーシックインカムがあったら、介助を続けますか?」『現代思想』2010年6月号,青土社,p.151)


 サンプル数が少なすぎるので、この結果を介護の現場全体の声を反映したものとみなすべきではないでしょうが、それでもこの悲観的な見通しは注目に値するでしょう。そしてこの見通しは、現在の介護現場の現実によって十分に裏づけられています。


報道等によれば、介護に関わる人々の給料は低い水準であり、しかも、熟練度に見合う所得増が見込めないことから、「将来性がない」ということで介護従事者が職場を去っていく人が多いと聞きます。そのため、今のような不況期でも介護現場では慢性的な労働者不足に陥っていて、仕事を求める人が来れば「いつでも大歓迎」という状態になっているようです。
「介護」は本当に成長分野なのだろうか?! ―前田拓生 : アゴラ - ライブドアブログ


 BIがこうした状況に拍車をかけるのは火を見るより明らかです。
 
 以上の問題点を総合すると、BIは貧困対策としても福祉政策としてもうまく機能しない可能性が大きいと結論せざるをえません。しかし、BIよりも低コストで実現可能な負の所得税ならば、こうした欠点を回避しつつ、貧困問題を解決できるのではないかと私は考えています。

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作成者 平岡公彦 : 2010年9月19日(日) 22:26

2010年9月12日(日)

人間の終焉の起源――ニーチェ『善悪の彼岸』を読む(再掲)

 人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
(ミシェル・フーコー『言葉と物』渡辺一民/佐々木明訳,新潮社,1974年,p.409)


 池田信夫さんのブログで紹介されていたクリス・フリス先生の『心をつくる――脳が生みだす心の世界』(岩波書店)を読みました。


経済学の依拠している功利主義は、独立した<私>がある財から得る<効用>を最大化すると想定しているが、このような素朴唯物論は心理学でも脳科学でも否定されている。本書もいうように、そもそも私という存在が無数のニューロンの刺激を合成した錯覚であり、それが外部の物体を直接に知覚することもありえない。脳はまず外界のモデルをつくり、その予測を経験によって修正しながら知覚するのだ。
池田信夫 blog : 心をつくる - ライブドアブログ


 同書に架空の論敵として頑迷な女性英文学教授が登場することに象徴的なように、フリス先生は人文的な知には概して批判的ですが、池田さんの指摘するとおり、本書で展開されている議論の多くは、むしろ先行する哲学者たちの思想を科学によって追認しています。

 たとえば、本書の中心である「意識とは感覚器官によって物理世界から取り入れられた知覚情報を脳が選択的にモデル化したものである」という主張の基本的なアイディアは、フロイトを俟つまでもなく、ニーチェのテクストにすでに見出すことができます。


 わたしには〈意志すること〉は何よりも複合的なもの、言葉の上だけで統一されたものであるように思える。(中略)
 ――第一に、すべての〈意志すること〉のうちには多数の感情が含まれていると言おうではないか。すなわち、そこから遠ざかっていく状態の感情と、そこへ向かっていく状態の感情が含まれる。さらにこの「遠ざかっていく」と「向かっていく」ことそのものの感情が含まれる。そしてこれに付随する筋肉の感情もある。これはある種の習慣であり、わたしたちが「腕と脚」を動かさなくても、「意志」を働かせると同時に動き始めるものである。だから意志のうちに不可欠なものとして感情が、しかもさまざまな感情が含まれることを認める必要がある。
(傍点略.ニーチェ『善悪の彼岸』中山元訳,光文社古典新訳文庫,2009年,p.54)


 感覚器官から脳内のホムンクルスの地図を経て私たちの意識の前景に浮上する内容は、それ以外のさまざまな知覚情報や他の接続可能な思考経路の非随意的な取捨選択を通過したごく限られた情報です。ニーチェはこのはたらきを忘却と呼び、その能動性を強調しています。唯物論を徹底するなら、取捨選択という表現も適切ではなく、意識内容は脳内の偶然的な強度の布置が形成する回路をただ機械的に通過するにすぎないでしょう。脳はそれらをなんらかのパースペクティブ(遠近法)によってモデル化します。

 このような意識理解のもとでは、私たちの思考もまた自動機械によって継起する言語の連鎖以上のものではなくなるでしょう。私たちの思考がいかに展開し、いかなる帰結へと導かれるかのイニシアティブを握るのは脳であり、その限りにおいて意識は自動的に生成するテクスト(あるいは音声)が投影されるスクリーンすぎません。多くの場合、私たちはこの思考の受動性を自律性と錯覚していますが、日常的経験に照らしてみても、難解な問題の解への到達や新しいアイディアの創出は、私たちの意識に受動的発見として経験されるのではないでしょうか。

 以上のような意識のとらえ方はややもするとニヒリズムに帰結しそうですが、では、この無意識のプロセスを認識することに意味はないのでしょうか? もちろんこの認識自体も入れ子構造内のループにすぎないとはいえ、この絶えざる自己認識の果てに私たちの思考がどこへ導かれるかを私たちはまだ知りません。

 私たちの意識は脳によってその可能性の果てまで進むことを宿命づけられているかのようです。


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作成者 平岡公彦 : 2010年9月13日(月) 20:00

自由意志という幻想――前野隆司『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?』を読む1(再掲)

 思想というものは、「それ」が欲するときだけにわたしたちを訪れるのであり、「われ」が欲するときに訪れるのではないということだ。だから主語「われ」が述語「考える」の条件であると主張するのは、事態を偽造していることになる。〈それ〉が考えるのである。
(ルビ,傍点略.ニーチェ『善悪の彼岸』中山元訳,光文社古典新訳文庫,2009年,pp.51-52)


 そのラディカルな中身とは裏腹に、クリス・フリス先生の『心をつくる』(岩波書店)の自由意志に対する認識は驚くほど素朴です。


 私にわかるのは、自分が自由意志というものを強く経験しているということだけだ。私は自分が動作をコントロールしていることを感じている。私に何かをさせようとするプレッシャーがどれほど強くても、最終的な決定権は私にあると感じる。
(クリス・フリス『心をつくる』大堀壽夫訳,岩波書店,2009年,p.193)


 この主張は「意識は脳が作り出した錯覚である」という認識と矛盾しないのでしょうか?

 小飼弾さんがたびたび紹介しているロボティクス研究者の前野隆司先生の受動意識仮説は自由意志を完全に否定しています。


「意識」が能動的で「無意識」がそれに従うと考えると結び付け問題は解けない。これに対し、「無意識」こそが能動的で「意識」は受動的だと考えると結び付け問題が解けるし、「意識」が受動的だと考えても何ら矛盾はない。よって、意識というシステムは受動的なはずである。意識の中に湧き上がる「知」「情」「意」は無意識下の小びとたちに従う受動的な働きにすぎない。もちろん、自由意志も。したがって、何者からも自由な意志は存在しない。
(前野隆司『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?』技術評論社,2007年,p.54)


「結び付け問題」とは、「脳はある対象を知覚情報からどのようにしてひとつのまとまりとして構成するか」という問題です。これにはトップダウン型とボトムアップ型の2つのモデルが考えられますが、脳内に知覚情報の全体を把握し、そこから必要なものを選択して全体像を構築するトップダウン型の司令塔を想定すると、今度はその司令塔の内部で受け取った情報を処理するシステムが必要になるという無限後退が生じます。この矛盾を解決するのが、意識はニューラルネットワークのボトムアップ型情報処理の結果として発生すると考える受動意識仮説です。

 もっとも、現在小飼さん自身は「否定する自由」は存在するという考えに後退してしまったようです。


心には、自由意志 = free will はない。しかし自由否定 = free won't なら、ある。
404 Blog Not Found:NOのNOは脳 - 書評 - 単純な脳、複雑な「私」


 しかし小飼さんが典拠としている池谷裕二先生の『単純な脳、複雑な「私」』(朝日出版社)は、自由否定の可否についての結論をあいまいにしています。小飼さんは速く読みすぎてうっかり読み飛ばしてしまったのかもしれませんが、大事なところなので押さえておく必要があるでしょう。


 意志はゆらぎから生まれるとしても、案外と自由否定さえも、もしかしたら、ゆらぎじゃないか、という話になってきちゃう。(中略)はて、僕らの「自由」は一体どこに行ってしまうんだろう。
(池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』朝日出版社,2009年,pp.285-286)


 ちなみに前出の前野先生は自由否定の可能性も否定しています(前野前掲書,p.165)。現在の脳科学と認知心理学は100年以上前にニーチェが思索によって到達した地点にようやく追いつこうとしています。自由否定を科学が否定するのも時間の問題でしょう。

 では、自由意志の否定は私たちの価値観にどのような変化をもたらすのでしょうか?


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作成者 平岡公彦 : 2010年9月13日(月) 20:05

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