実践における哲学の役割とは、目的を肯定する根拠を組織し、体系化することです。ですから、実践哲学においては、目的を肯定する根拠となりうる価値を枚挙するだけでは十分ではなく、ある目的を実現するための方法とその有効性、さらにはそれがいかなる価値の実現に貢献するのかが問われなければならないでしょう。
私の理解する方法とは、山脇直司さんの『グローカル公共哲学』(東京大学出版会)の議論に則して例示するなら、共感したり共苦したりする能力を人に生じさせる効果のある行為や技術のことです。言うまでもなく、そういうものが存在するのなら具体例を示すことができるはずですが、本書の議論はそうしたことを問題にできる水準にさえ達していません。
本来ならば、そこからさらに、共感や共苦の能力はそもそも教育によって引き起こしたり増減させたりすることができるものなのかというソクラテスが問うたような問題や、もしそれが可能であったとしても、そうした訓練によって身につけることのできる能力の水準がすべての人に均一ではなく個人差があるとすれば、すべての人が一定水準以上のそうした能力を身につけられることを前提にして制度を設計していいのかといった問題が議論されてしかるべきでしょう。
こうした議論の不備による欠陥は、本書の「宗教的公共感情の育成」についての主張にも見て取ることができます。
そうした育成は,政府の公と異なる「民の公共性」や「活私開公」に固執する公共哲学としては,政府の公によって強制的になされるのではなく,どこまでも,人々の自発性を前提とする形でなされるべきことであると主張したい。
(山脇直司『グローカル公共哲学』東京大学出版会,2008年,p.207)
このように、それ自体可能であるかどうか疑わしい前提の上に議論が組み立てられていては、議論そのものが信頼のおけないものとなってしまいます。ちなみに山脇さんが平和論の典拠として挙げているスピノザの『国家論』では、山脇さんの希望はたんなる空想物語として全否定されています。
民衆なり、国務に忙殺される人々なりが、もっぱら理性の掟だけに従って生活するように導かれうると信ずる者は、詩人たちの歌った黄金時代もしくは空想物語を夢みているのである。
(スピノザ『国家論』畠中尚志訳,岩波文庫,1976年改版,p.15)
民の公共性が、人々の自発性にはたらきかけることによってそこから発生させるべきものであるとするならば、そうした公共性を喚起するための公共善が必要であり、それは「同意されるべきもの」として人々の同意に先行し、またそれとは別の根拠によって正当化されていなければならないでしょう。
公共善に同意する能力には学力と同じように個人差があり、すべての人が等しくもつものではありません。そしてそれは、山脇さんの危惧するとおり、各人のおかれた状況や環境によって操作されたり捻じ曲げられたりしうるものです。
現代ではメディアの操作などによって,公共感情がエモーショナルで非合理的なものに,また想像力が空想に化す危険性も存在する。そうした事態を避けるためにも,公共的感情や社会的想像は,公共的理性や討議的理性を伴わなければならない。
(山脇前掲書,p.53)
グローカル市民教育には、当然ここで批判されている「メディアの操作」や「非合理性」の排除が含まれるでしょう。それを人々の自発性のみに委ねることなどできませんから、そこには強い方向づけが必要となるはずです。「だれがそれを行うべきか」という難問はひとまずおくとしても、こうした方向づけを強制によらずに行うことが可能だとは私には思えません。特定の方針を強要することは不適当だとしても、少なくともその前段階にある「方向づけを受けること」は強制されざるをえないはずです。
制度設計は、こうした意味での「強制すべき正義」と不可分の関係にあります。私は本書にこうした問題についての議論の深まりを期待していたのですが、残念ながらそれは不十分なものであったと言わざるをえません。

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