哲学者の國分功一郎は、スピノザの哲学を「説得を求めない哲学」と規定しているが、この原則がその『国家論』(1677年)へと適用されるとき、それは「説得を必要としてはならない」というより強い厳命へと変化する。
国家は必然的に次のように、すなわち治者ならびに被治者がみな、欲すると欲せざるとにかかわらず、公共の福利の要求するところをなすように組織されなければならぬ。言いかえれば、国家はすべての人が、自発的にせよ強制されてにせよまた内的衝動によってにせよ、とにかく理性の命令に従って生活せざるをえないように組織されなければならぬ。
(スピノザ『国家論』畠中尚志訳,岩波文庫,1976年改版,p.64)
国家の徳とは安全である。そのためには、「国事を司る者が、理性に導かれると感情に導かれるとを問わず、決して、背信的であったり邪悪な行動をしたりすることができないようなふうに国事が整えられていなくてはならない」(同書,p.16)。政治は統治者の資質や思惑に左右されてはならない。それをだれが担うにせよ、正しい政治が行われなければならないのだ。よって、統治者は正しい政治を行うように強制されなければならない。
人を信頼してはならない。とりわけ人の善意を信頼してはならない。権力を握った人間は必ず堕落する。ゆえに、統治者は絶対に買収されることがありえない規模の人員を必要とし、また、いかに有能な人物であろうと、決して定められた期間以上に統治者の地位に留まることを許してはならない。「人間は一年の任官によってさえ傲慢になる」(同書,p.109)。それは現代の心理学者たちの実験においても明らかである。
人間は大抵の場合、正しい行ないは何か(ズルは悪だということ)を知っているが、自分が権力を手にしていると感じると、倫理的な過ちを正当化しやすくなる。例えば、約束の時間に遅れてスピード違反をする行為について、両グループの被験者に評価をさせたところ、権力を想起したグループは、その行為をする当事者が自分ではなく他人であった場合に、より厳しい評価を下す傾向を一貫して示した。つまり、ほかの者は法律に従うべきだが、自分は重要な人物であり重要な行動をしているので、スピード違反にも適切な理由がある、と感じやすいというのだ。
(権力者はなぜ「堕落」するのか:心理学実験 | WIRED VISION)
人の善意の代わりにスピノザが期待を寄せるのは、ある種の自然の采配である。「その大いさの関係上少なくとも一○○人の最善者を要する国家では、その最高権力は少なくとも五○○○の貴族に委ねられることが必要である。このようにすれば、その中には、精神の力においてすぐれた人間がきっと一○○人は見いだされるだろうからである」(スピノザ前掲書,p.119)。不正と背信が不可能な体制のもとであれば、最善者はみずからの徳によっておのずと他の貴族たちを指導する地位を得るだろう。この自然の采配は、のちにドイツの社会学者ミヘルスによって寡頭制の鉄則と名指されることになる。
そして、統治者は絶えず入れ替えられ続けなければならない。なぜなら、「国家には、人間の身体と同様に、「時々清めなければならぬ何ものかが毎日溜る」」(同書,p.175)からである。老廃物を排泄し続けなければ国家もまた人体と同じく亡びることを避けられないだろう。「すべての貴族はあたかも一精神に統治される一身体を構成するように諸法律によって拘束されていることが必要である」(同書,p.133)というスピノザの言葉は、このように理解されなければならない。
もしも最善者を選出する自然の采配に誤りがあったとしても、この代謝のサイクルさえ滞らなければ身体の健康は回復されうるだろう。この、それ自身もまた自然の采配にほかならない国家を組織する法がなんであるかを探究することこそが、政治哲学の使命である。

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