われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである。
(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳,岩波文庫,1967年,p.52)
闇が光の欠如であるというのは迷信である。闇とは、殊に人間精神の闇とは、その器官なき身体の開花を待つ豊穣な潜勢力の地帯を指し示す徴である。
人は反抗する犬を怖れることはない。人を真に畏怖させるのは享楽する闇である。未知の享楽を狂気と区別することはむずかしい。そしてそのような享楽だけがポエジーと呼ばれるに値する。この決して飼い馴らすことのできない無尽蔵の闇にこそ人は戦慄するのだ。
highfashionparalyzeの1st single「spoiled/蟻は血が重要である/形の無い 何よりも 愛したのは お前だけが」がわれらに見せてくれるものもまたそのような闇にほかならない。 価値あるものはすべてこの闇から生まれる。みずからの、みずからの本質にのみ由来する法則を享楽しつつ生成する闇。この血のかよった闇は、蟻が巣を作るようにわれらの器官なき身体を侵食し、血管を張りめぐらせ、新たな器官を形成する。この器官は舌であり、触角であり、性器である。いまやわれらの身体の一部となったこの歪な器官をめぐるリビドーの比類なき恍惚。この闇を享受しうる者は幸いである。
hfpのアンセムと呼ぶべき「蟻は血が重要である」でkazumaは咆哮する。しかしその叫びは、一見そう見えるような怒りでも悲しみでもなく、憎悪でも絶望でもないだろう。そのような安易な翻訳はあらかじめ拒まれている。それは言葉や感情に翻訳されればこぼれ落ちてしまう純粋なポエジーの産声にほかならない。それはドゥルーズの言う、みずからを享楽する生成の志向性なき攻撃性である。それはaieのギターとともに空間を軋ませながらもろもろの器官機械を駆逐し、剥き出しとなったわれらの器官なき身体を覚醒させる。
器官は彼の肉に打ちこまれる釘、数々の拷問に等しい。もろもろの〈器官機械〉にむけて、器官なき身体はすべすべした不透明な、はりつめた自分の表面をこれらの器官機械に対抗させる。結びつけられ、接続され、また切断されるもろもろの流れに、器官なき身体は、自分の未分化な不定形の流体を対抗させる。音声学的に明瞭なことばに、器官なき身体は、分節されない音のブロックに等しい息吹や叫びを対抗させる。
(G・ドゥルーズ/F・ガタリ『アンチ・オイディプス(上)』宇野邦一訳,河出文庫,2006年,p.28)
その純潔ゆえに、比類なき肯定はあらゆるものを否定し、拒絶する。そしてその純潔ゆえに、その享楽は最も純粋な強度の形にギリギリまで近づいていく。
最高度において体験される独身状態の悲惨と栄光、つまり生と死の間に宙づりになった叫び声、強度の移動の感覚、形象も形式もはぎとられた純粋で生々しい強度の状態。ひとは、しばしば幻覚と錯乱について語る。ところが幻覚の所与(私は見る、私は聞く)と錯乱の所与(私は考える…)は、より一層深い次元の〈私は感ずる〉ということを前提とし、まさにそれが幻覚に対象を与え、思考の錯乱に内容を与えるのである。
(同書,p.44)
merrygoroundとSmellsの楽曲が〈幻覚と錯乱〉を表現していたとするならば、hfpの楽曲は、まさにこの〈私は感ずる〉という次元を暴き出そうとしている。この幻覚と錯乱の質料、このロゴスなきポエジーを、多くの人は狂気と呼んで眉を顰めるにちがいない。だが、この狂気に魅せられた者にとっては、それは新たな約束を予感させる希望でさえある。まだこれほどの自由が、これほどの解放が、これほどの芸術が可能なのだ。
ゆえにわれらはこの比類なき実験の彼方までついていこう。至高の芸術を知りたければ、highfashionparalyzeを聴きたまえ。

にほんブログ村