平岡公彦のボードレール翻訳日記

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ
退屈について語りあうことに退屈することはできない(オビ1グランプリ落選作)。

書くことは抵抗すること。書くことは生成すること。書くことは地図を作ること。
(ジル・ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳,河出文庫,2007年,p.87)

2011年10月23日(日)

殺された側の倫理――藤井誠二『重罰化は悪いことなのか』を読む1

 最近読んだノンフィクションライターの藤井誠二氏の対談集『重罰化は悪いことなのか 罪と罰をめぐる対話』(双風舎)のなかに、死刑制度に関する考えさせられるエピソードを見つけた。
 
 テレビカメラのまえで加害者の少年をみずからの手で殺すと宣言し、犯罪被害者運動の象徴となった光市母子殺害事件の被害者遺族の本村洋氏は、あるテレビ番組の企画により、アメリカで死刑囚の黒人少年と対話する機会を得た。本村氏との対話のなかで、白人男性を射殺したその少年は、死刑が確定して自分は変わり、もう決して罪を犯すことはないと伝えたという。


 本村さんはその黒人少年との対話を経て、自分の主張はまちがっていなかったと確信します。加害者には反省してもらい、死刑を受けいれてほしいと思っているわけです。
(藤井誠二『重罰化は悪いことなのか』双風舎,2008年,p.125)


 本村氏の真意は想像するしかないが、私なりの理解をここに書きとめておきたい。
 
 反省とは、過去にみずからが行った行為によって苦しみ、みずからを責めることである。この想起にともなう苦悩と自責こそが、反省を、たた過去の記憶を思い出すことや、過去のちょっとした失敗を後悔することから区別している。そして、被害者が加害者に要求する反省とは、加害者が被害者に苦痛や損害を与えたことによって苦しむことにほかならない。したがって、加害者に対する反省を態度で示せという要求は、加害者が苦しんでいる証拠を見せろという命令と同じことを意味するのだ。
 
 ニーチェにならい、ここで加害者が苦しんでいる姿を見ることが被害者にどのような利益をもたらすのかと詮索してみるのも悪くはない。とはいえ、それは決して偽善を告発するためではない。問われるべきは、むしろ加害者の苦しみが被害者の復讐心を慰撫するとして、そのことがなぜ被害者の要求の正当性を否定しうると考えるのかだ。この問いは、われわれはなぜ復讐心を軽蔑するのかというさらなる問いを喚起するだろう。
 
 たしかに、復讐心はそれを向けられる者ばかりでなく、それに駆られる者にとっても忌まわしい感情であるにちがいない。だが、それは必ずしも軽蔑されるべきものではない。われわれは、復讐心がしばしば愛の表現であったり、共感や同情の表現であったりすることを知っている。たとえそれがだれ一人として幸福にしないとしても、復讐心は尊い感情でありうるのだ。


 少年法改正に反対する人々が「厳罰化では被害者は癒されない」とか、死刑制度に反対している弁護士さんらが「死刑では被害者は癒されない」とか、殺された側の人々の心情をあたかも「代弁」するような理屈を述べられています。この薄っぺらで紋切り型の言葉に対して、たとえば妻と子どもを少年に惨殺された山口県光市の本村洋さんは、記者会見で「よけいなお世話です」と語気を強めていらした。あたりまえの気持ちだと思います。
(同書,p.62)


「復讐したところで殺された家族や恋人は戻ってこない」、「殺されたあなたの家族や恋人は復讐など望んでいない」。ほかにも無数にあるこの種のゴミのような決まり文句を口にする人々は、ただみずからが理想とする陳腐な人間観を押しつけているだけで、じつのところ、被害者と遺族の心情など慮ってはいないのだ。
 
 こうした言説の欺瞞について、比較文学者の小谷野敦氏が極めて重要な指摘をしている。


 自分がもし不条理に殺されたら、その犯人を死刑にしてほしい、と言う。仮に私に「遺族」がいたとして、それがイエーガーのように、加害者を許す、などと言われたら、たまらん、と思う。そもそも、被害者は七歳のスージーであって、母のマリエッタではない。いったい母親に、強姦され殺された娘を代弁する権利があるのだろうか?
(小谷野敦『なぜ悪人を殺してはいけないのか』新曜社,2006年,p.32)


 厳密に言えば、被害者の遺族でさえ被害者本人の代弁者となることはではない。代弁できる者など、どこにもいないのだ。できることはただ、個々の被害当事者の声を聴くことだけである。

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作成者 平岡公彦 : 2011年10月23日(日) 22:30

死刑と人間の尊厳――藤井誠二『重罰化は悪いことなのか』を読む2

 藤井誠二氏は、対談集『重罰化は悪いことなのか 罪と罰をめぐる対話』(双風舎)のなかで、ある少年犯罪をテーマとした映画に対する少年犯罪被害者遺族の感想を紹介している。


 ある少年犯罪の被害者遺族は、この映画を観て、「遺族は加害者をゆるさなければならない、と強制されているようだった」と厳しい意見をおっしゃっていました。加害者にゆるしを与える被害者が、あたかもいい被害者のように思えてしまった、と。一生、加害者をゆるさないで生きていくことを選択せざるをえない。被害者家族にはそういう人が多い。
(藤井誠二『重罰化は悪いことなのか』双風舎,2008年,p.105)


「赦し」や「共生」といった一見美しく見える理念にも、このような暴力性が秘められている。そしてそれは、あたかもみずからを裏切るように、抑圧と排除の原理として機能するだろう。思えば、長らく犯罪被害者を黙殺し続けた制度を支えてきたのもまた、こうした「美しい理念」だったのかもしれない。藤井氏は言う。


 被害者の権利と加害者の権利は両立するという意見を耳にすると、「現実を知らない机上の空論だなあ」と思ってしまいます。現実には、被害者と加害者がおたがいに権利を「削り合っている」のです。
(同書,p.61)


 こうした被害者側の主張と好対照をなすのが、現在の日本社会における犯罪不安の高まりと、それにともなう加害者の処遇の厳罰化に警鐘を鳴らし続けている社会学者の芹沢一也氏の主張である。


 ごく普通の人たちの声と制度設計の問題は、別次元にあります。制度設計は、俗情におもねるべきではありません。
 僕は、国家権力が合法的に人を殺すというルートは、ふさいだほうがいいと思っています。日本の支配者層を、僕はまったく信用していないので。暴力を合法的にコントロールする能力についてはかなり疑問です。現在は、被害者の応報感情をもとに、死刑が当然の制度のごとく受けとられていますが、両者は切りはなして考えるべきです。被害者の応報感情を慰撫するために、死刑や厳罰化が正当化されるといった現在の論理は、無用に国家権力を大きなものにするだけです。
(同書,pp.31-32)


 こうした空気に迎合した議論からは、刑事政策についての議論が抜け落ちていると芹沢氏は続ける。芹沢氏の言う刑事政策の議論とは、刑罰そのものの犯罪抑止効果や、加害者の社会復帰支援のことである。たしかにそうした議論は重要だろう。ただし、「俗情」と制度設計を区別して考えるべきだと言うのならば、日本の支配者層の資質と制度設計の問題もまた区別して考えるべきである。ただ口がすべっただけかもしれないが、日本の政治家や官僚が信用できないから死刑や厳罰化には反対だというのでは、あまりにも稚拙すぎる。
 
 芹沢氏が「俗情」と唾棄する厳罰化を後押しする世論は、ただやみくもに犯罪を恐れているのではない。もちろんそれもあるだろうが、おそらくそれ以上に大きいのは、「加害者を許せない」という世論の感情である。こうした世論を批判する人々は、明らかに「いつかは加害者を赦すべきである」という信念を自明の前提としている。だが、それはほんとうに正しいのだろうか。
 
 冒頭の死刑の問題に戻れば、被害者遺族にとって、死刑に値する罪を犯した加害者の反省とは、加害者が「自分は殺されても仕方がないほど悪いことをした」と痛感することだと言えるだろう。そして、加害者が心の底からそれを反省しているのなら、無論、みずからに科された死刑という刑罰にも異存はないはずだ。そのときはじめて、加害者は真の意味でみずからの罪の重さを理解したと言えるだろう。
 
 ここにいたって死刑は、被害者の応報感情の問題ではなく、人間の尊厳の問題となる。こうした観点に立つなら、加害者がその死を悼むに値する一人の人間として死ぬためにこそ、死刑は必要なのだという見方さえできるかもしれない。
 
 もっとも、それもまた、われわれがそうであってほしいと願うただの夢想にすぎないのかもしれないが。


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作成者 平岡公彦 : 2011年10月23日(日) 22:20

2011年10月9日(日)

欲望の統治と虚構――スタンリー・キューブリック監督映画『時計じかけのオレンジ』を観る5

 暴力は、おのずからそれをふるう者にとっては快楽である。それが悪であり、醜い行為であるとされるのは、暴力を受ける者にとってはそれが苦痛だからでしかない。
 
 アンソニー・バージェスによる原作『時計じかけのオレンジ〔完全版〕』(ハヤカワepi文庫)の解説で映画評論家の柳下毅一郎氏が評しているとおり、洗練された暴力にはわれわれを魅惑する美しささえある。


 語弊をおそれずに言うならば、『時計じかけのオレンジ』は暴力の楽しさを教えてくれた。スタイリッシュに磨き上げられた暴力はすばらしく魅力的なのだとキューブリックは見せてくれたのだ。
(柳下毅一郎「時計じかけのオレンジみたいに不思議」,アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ〔完全版〕』乾信一郎訳,ハヤカワepi文庫,2008年,pp.311-312)


 非難に恐れをなして口をつぐむ必要はない。この評価は、歴史がこの作品に与えた破格の地位によっても裏づけられている。必要とあらば、われわれはアレックスのほかにも暴力と死を愛する映画史に冠たる殺人鬼たちの名をいくらでも挙げることができる。人が暴力に魅せられることがなかったならば、彼らの栄光もまた決してありはしなかっただろう。
 
 ところで、表現の自由に敵対するポピュリストたちが信じるように、過激な暴力表現や猥褻表現は人を凶悪にするのだろうか? SF作家の山本弘氏は、日本ではマンガの性描写や残酷描写が過激化しはじめた1960年代以降凶悪犯罪が激減していること、アメリカでは逆にマンガに非常に厳しい規制が導入された1954年を境に凶悪犯罪が急増していることを根拠に、規制推進派の迷信を否定している。


 マンガの表現と青少年の犯罪の間には、規制推進派が主張するような正の相関関係ではなく、負の相関関係(表現が過激になれば犯罪が減る)があるのだ。
 無論、相関関係があるからといって因果関係があるとは断言できない。相関関係はあっても因果関係のない事例はいくらでもある。
 だが、少なくとも、相関関係が存在しないところに因果関係を求めるのは無茶だということは、子供でも分かるだろう。
山本弘のSF秘密基地BLOG:「非実在青少年」規制:目に見える形で反論を提示する


 こうした批判もむなしく、東京都の青少年健全育成条例改正案は2010年12月に可決されてしまったが、ここで注目したいのは、過激な暴力・性表現と犯罪件数とのあいだの負の相関である。
 
 両者の因果関係を立証することはむずかしい。性犯罪が増えるかどうかを確かめるために、実際に大勢の人をポルノづけにしてみるわけにはいかないからだ。だが、欲望と虚構との関係をめぐっては、興味深い実験結果が報告されている。


チョコレートの『M&M’s』を食べるところを想像してみよう。自分の前にボールいっぱいのM&M’sがあり、そのひとつを口に入れて噛み、味わい、飲み込む。次のひとつも。その次も――『Science』に昨年12月10日付けで発表された論文によると、30個の想像上のM&M’sを食べたあとに実際のM&M’sを食べる場合、想像しない場合よりも、消費が少なくなるのだという。
「想像上の行為」も現実的影響:食べ物で実証 | WIRED VISION


 欲望の対象を想像のなかで味わうことは、現実の対象への欲望を抑制する。もしもこの性質があらゆる人間の欲望にあてはまるものだとすれば、通念に反し、卑猥な妄想を事細かに繰り広げる性癖をもつ人物のほうが、性犯罪者になる危険性は低いということになるだろう。そして、そうした想像力の貧困な社会では、現実に引き起こされる悪はより大きくなるのだ。
 
 人間の欲望は抑圧によって消えてなくなりはしない。塞き止められた流れは、むしろ出口を求めて荒れ狂うだろう。社会の安全のために必要なのは、欲望を禁圧することではなく、それをしかるべく管理することである。


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作成者 平岡公彦 : 2011年10月10日(月) 20:00

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