最近読んだノンフィクションライターの藤井誠二氏の対談集『重罰化は悪いことなのか 罪と罰をめぐる対話』(双風舎)のなかに、死刑制度に関する考えさせられるエピソードを見つけた。
テレビカメラのまえで加害者の少年をみずからの手で殺すと宣言し、犯罪被害者運動の象徴となった光市母子殺害事件の被害者遺族の本村洋氏は、あるテレビ番組の企画により、アメリカで死刑囚の黒人少年と対話する機会を得た。本村氏との対話のなかで、白人男性を射殺したその少年は、死刑が確定して自分は変わり、もう決して罪を犯すことはないと伝えたという。
本村さんはその黒人少年との対話を経て、自分の主張はまちがっていなかったと確信します。加害者には反省してもらい、死刑を受けいれてほしいと思っているわけです。
(藤井誠二『重罰化は悪いことなのか』双風舎,2008年,p.125)
本村氏の真意は想像するしかないが、私なりの理解をここに書きとめておきたい。
反省とは、過去にみずからが行った行為によって苦しみ、みずからを責めることである。この想起にともなう苦悩と自責こそが、反省を、たた過去の記憶を思い出すことや、過去のちょっとした失敗を後悔することから区別している。そして、被害者が加害者に要求する反省とは、加害者が被害者に苦痛や損害を与えたことによって苦しむことにほかならない。したがって、加害者に対する反省を態度で示せという要求は、加害者が苦しんでいる証拠を見せろという命令と同じことを意味するのだ。
ニーチェにならい、ここで加害者が苦しんでいる姿を見ることが被害者にどのような利益をもたらすのかと詮索してみるのも悪くはない。とはいえ、それは決して偽善を告発するためではない。問われるべきは、むしろ加害者の苦しみが被害者の復讐心を慰撫するとして、そのことがなぜ被害者の要求の正当性を否定しうると考えるのかだ。この問いは、われわれはなぜ復讐心を軽蔑するのかというさらなる問いを喚起するだろう。
たしかに、復讐心はそれを向けられる者ばかりでなく、それに駆られる者にとっても忌まわしい感情であるにちがいない。だが、それは必ずしも軽蔑されるべきものではない。われわれは、復讐心がしばしば愛の表現であったり、共感や同情の表現であったりすることを知っている。たとえそれがだれ一人として幸福にしないとしても、復讐心は尊い感情でありうるのだ。
少年法改正に反対する人々が「厳罰化では被害者は癒されない」とか、死刑制度に反対している弁護士さんらが「死刑では被害者は癒されない」とか、殺された側の人々の心情をあたかも「代弁」するような理屈を述べられています。この薄っぺらで紋切り型の言葉に対して、たとえば妻と子どもを少年に惨殺された山口県光市の本村洋さんは、記者会見で「よけいなお世話です」と語気を強めていらした。あたりまえの気持ちだと思います。
(同書,p.62)
「復讐したところで殺された家族や恋人は戻ってこない」、「殺されたあなたの家族や恋人は復讐など望んでいない」。ほかにも無数にあるこの種のゴミのような決まり文句を口にする人々は、ただみずからが理想とする陳腐な人間観を押しつけているだけで、じつのところ、被害者と遺族の心情など慮ってはいないのだ。
こうした言説の欺瞞について、比較文学者の小谷野敦氏が極めて重要な指摘をしている。
自分がもし不条理に殺されたら、その犯人を死刑にしてほしい、と言う。仮に私に「遺族」がいたとして、それがイエーガーのように、加害者を許す、などと言われたら、たまらん、と思う。そもそも、被害者は七歳のスージーであって、母のマリエッタではない。いったい母親に、強姦され殺された娘を代弁する権利があるのだろうか?
(小谷野敦『なぜ悪人を殺してはいけないのか』新曜社,2006年,p.32)
厳密に言えば、被害者の遺族でさえ被害者本人の代弁者となることはではない。代弁できる者など、どこにもいないのだ。できることはただ、個々の被害当事者の声を聴くことだけである。

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