平岡公彦のボードレール翻訳日記

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ
退屈について語りあうことに退屈することはできない(オビ1グランプリ落選作)。

書くことは抵抗すること。書くことは生成すること。書くことは地図を作ること。
(ジル・ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳,河出文庫,2007年,p.87)

2011年11月30日(水)

真理の配列と方法――國分功一郎『スピノザの方法』を読む1(再掲)

 真理を探究するには、生涯に一度はすべてのことについて、できるかぎり疑うべきである。
(デカルト『哲学原理』桂寿一訳,岩波文庫,1964年,p.35)


 昨年からずっと楽しみにしていた哲学者の國分功一郎さんの初の著書『スピノザの方法』(みすず書房)をようやく読み終えました。

 タイトルのとおり、本書のテーマはスピノザの方法です。スピノザの方法というと、だれもが幾何学的方法と呼ばれる『エチカ』の記述スタイルを想起するでしょうが、本書が課題としているのはもちろんそうした形式上の特徴の退屈な解説ではなく、方法に対するスピノザのどのような考え方がそのような様式を要請したのかという問題です。

 無論、それと同時に、本書はスピノザの読み方を教える本でもあります。というより、本書をつうじてはじめて真にスピノザを読めるようになると言っても過言ではないでしょう。私自身、本書に教えられるまで、理解するどころか、そこに問うべき問題があることさえ気づかずに素通りしていたところがたくさんあることに気づかされました。

 本書第一部の議論を追ってみましょう。國分さんによれば、真理に到達する方法を求める思索は、方法の逆説方法論の逆説という二つの逆説に陥ることを避けられません。

 方法の逆説とは、「真理に到達するための方法は、実際に真理に到達することによってしか知りえないので、真理を発見するまえにそれを発見する方法だけを知ることはできない」という逆説です。そして方法論の逆説とは、「真理に到達する方法は真理の発見以前には知りえないので、真理の探究を開始するまえにその方法の正しさについて論じることはできない」という逆説です。

 これら二つの逆説は、いずれも無限遡行の問題を内包しています。真理に到達する方法を求めるならは、さらにその方法を用いる方法をも求めねばならないでしょう。この方法の探求は、さらに方法の方法を用いる方法、方法の方法の方法を用いる方法へと無限に続きます。そしてその方法の正しさを証明しようとするならば、さらにその証明の正しさをも証明せねばなりません。この方法論の探究もまた同様に無限に続くことになるでしょう。

 スピノザの方法論である『知性改善論』が陥った困難を整理するため、國分さんはフランスのスピノザ研究者ヴィオレットが提示した二つの方法の区分を紹介しています。


 創出された方法とは、アドヴァイスを与え、障害物をあらかじめ知らせる方法である。対し創出的方法は、「一度かぎりこれを最後に(中略)」といった仕方でしか知られないし、描き出せない方法である。それは真理の発見に先行することができない。なぜなら両者は同時だからである。したがってそれは「アドヴァイスを与えることができない」。
(國分功一郎『スピノザの方法』みすず書房,2011年,pp.77-78)


 ソクラテスは、『メノン』篇において二つの徳(アレテー)の定義を提示しています。一つは、知識によって私たちを正しい目的地まで導く方法であり、もう一つは、知識によらずに私たちを正しい目的地まで導く方法、すなわち最初の地図を作成する方法です(97A-C)。前者は創出された方法に、後者は創出的方法に対応するでしょう。

 真理は創出的方法によってしか発見できない。ゆえに真理の探究において創出された方法に頼ることは不可能であり、創出された方法を論じるほかない『知性改善論』は失敗を宿命づけられていたとヴィオレットは結論しますが、國分さんは納得しません。ヴィオレットの論考は「正しさのうえに胡座をかいている」(國分前掲書,p.85)。なぜなら、スピノザはそれら二つの方法の役割を同時に果たす哲学を構想していたからです。

 ここで私たちはふたたび「スピノザの方法とはなにか」という問いに連れ戻されます。それを解明するには、私たちは本書第二部において、國分さんとともにスピノザの『デカルトの哲学原理』の読解に挑まなければなりません。

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作成者 平岡公彦 : 2011年12月7日(水) 21:54

國分功一郎の方法――國分功一郎『スピノザの方法』を読む2(再掲)

 スピノザは、『知性改善論』において真理探究の方法を次のように定義しています。


 真の方法は、観念の獲得後に真理の標識を求めることには存せずに、かえって、真理そのもの、あるいは事物の想念的本質、あるいは観念(これらすべては同じことを意味する)が適当な秩序で求められるための道に存するということが帰結される。
(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳,岩波文庫,1968年改版,p.33)


 國分功一郎さんは、『スピノザの方法』(みすず書房)の第一部第二章の注3において、上に引用した岩波文庫の畠中尚志訳では「秩序」と訳されているordoは「順序」とも訳しうる語であり、この箇所の訳語はそちらのほうが適切であると指摘しています。この指摘は、スピノザの『デカルトの哲学原理』を読み解く上で、きわめて重要な意味をもつことになるでしょう。

『デカルトの哲学原理』第一部においてデカルト哲学の解説をはじめるにあたり、スピノザは『哲学原理』の第一部ではなく、『省察』の「第二反論への答弁」に付された「諸根拠」と呼ばれるテクストを利用していますが、スピノザは、デカルトがそこで提示した、定義、要請、公理、定理に徹底的に手を加えています。

 とはいえ、スピノザによるデカルト哲学の再構成は、そこに潜在する論理を取り出しつつも、あくまで「デカルトの思想」を維持し、その内的整合性を強化する方向で進められています。そこで徹底されるのが、デカルト自身が順序に与えた次の規則です。


 順序なるものについてデカルトは次のように言っていた。「順序というのは、先行するものが後続するものの助けなしに知られねばならないということ、そして、後続するものは、それに先行するものによってのみ証明されるような仕方で配置されねばならないということ、ただこの二点にのみ存する」。
(國分功一郎『スピノザの方法』みすず書房,2011年,p.171)


 國分さんは、スピノザが「諸根拠」に加えた、独自の定式化、省略あるいは削除、並べ替え、書き換えという四つの操作のそれぞれが、なぜ必要だったのかを一つひとつ丁寧に解き明かしていきます。そこで導き出された解をつうじて、スピノザが再構成した命題群の配列のうちにある必然性を発見するとき、私たちはスピノザの方法まであと一歩のところまで導かれているでしょう。

 ここでその見事な読解のすべてを追うことはできません。私が特に感動した箇所を一つだけ紹介するなら、スピノザがデカルトの神の存在証明を再構成する過程の解説に挿入された、「維持」という概念の検討です。


 自己原因は自己維持ではない。有限な存在者についてと同様、無限な存在者についても「みずからを維持しうる」という表現は不適切なものとなる。この表現には放っておけば滅びていくという存在の事実と、その事実に歯止めをかける能力という二分法がこびりついている。しかし「みずからを維持しうる」のであれば、その能力は無限であるほかなく、能力が無限であるのなら存在と能力は分離しえないはずだ。
(傍点略.同書,pp.224-225)


 神はみずからを維持しはしない。神においては、ただみずからを存在させる能力がつねに作用しているだけです。有限なものとの類比によって神を定義することはできません。

 スピノザの方法の解明をつうじて國分さんが教えているのは、哲学は、なによりもまず問いを発見することからはじまるということです。問いに取り組むことによってはじめて、問いを解決する道も開けます。問いを発見できなければ、そもそもどこに道があるのかさえわからないでしょう。しかし、私たちはどのようにして問いを発見すればいいのでしょうか。

 本書の「あとがき」において、國分さんはデカルトへの共感を表明しています。本書にいたる決して平坦ではなかった道がそうさせたのでしょうが、その道中において、國分功一郎の方法をより精緻に鍛え上げたデカルト主義の精神を、私たちもまた学ばなければならないでしょう。


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作成者 平岡公彦 : 2011年12月11日(日) 21:02

思考の条件と方法――福嶋亮大「思考様式間の軋轢 『スピノザの方法』――國分功一郎」を読む(再掲)

 哲学者の國分功一郎さんのTwitter経由で知ったHowardHoaxさんのブログで酷評されていた、文芸批評家の福嶋亮大さんによる『スピノザの方法』(みすず書房)の書評を読んでみました。
 
 実際に読んでみて、HowardHoaxさんが最初に批判している「狭義の哲学的エピソード」云々については、私もずいぶん身勝手な議論だなと思いましたが、その次に引用されたテクストに対する批判には賛成ではありません。


 観念がいかに獲得されるかという問いは、平たく言えば、人間はいかに思考するかという問いと同じである。したがって、國分の試みは「そもそも思考するとはどういうことか」「思考はいかに可能か」という超越論的問題に、スピノザを手がかりにアプローチしたものだとも言い換えられるだろう。
(福嶋亮大「思考様式間の軋轢」『新潮』2011年4月号,新潮社,pp.272-273)


 福嶋さんがこの読み替えを提案しているのは、「スピノザ学周辺のテクニカルな議論も多く、門外漢がつきあうのは決して簡単でない」(同書,p.273)『スピノザの方法』も、このように読めば、門外漢でもそこで扱われている問題をより身近に感じることができると考えたからでしょう。これは必ずしも的はずれな読み方ではないと思います。こうした視点の導入は、私たちの思考のトレーニングになるでしょう。
 
 HowardHoaxさんは、「「思考はいかに可能か」という問いが、常に超越論的であるはずはない」と批判していますが、ほんとうにそうでしょうか。一般に、超越論的問題において問われるのは、経験に先立って存在し、その形式を条件づけている構造や能力ですが、思考を可能にする条件はこのような問題の一つにほかなりません。「思考はいかに可能か」という問いは、思考の条件の解明をめざすものですから、つねに超越論的です。
 
 超越的原理と超越論的原理のちがいは、前者が世界の外部に存在すると考えられるのに対し、後者は世界の内部に存在すると考えられる点にあります。スピノザはあらゆるものの超越的原因の存在を否定していますから(『エチカ』第一部定理十八証明)、その体系のうちに超越的原理が存在する余地はないでしょう。では、スピノザの体系に超越論的原理と名指しうる原理は存在するのでしょうか。
 
 私の考えでは、それこそが國分功一郎さんの言うスピノザの方法にほかなりません。スピノザの方法とは、精神の能力に内在する法則のことです。問題の書評で、福嶋さんはスピノザの方法を「「各々の精神が自動機械として作動し始める」(三五五頁)までガイドする営み」(福嶋前掲書,p.273)と説明していますが、これは明らかにミスリーディングでしょう。このプロセスを、國分さんは実体の系譜学と呼び、スピノザの方法とは区別しています。


 到達するまでの間、精神は諸様態の発生ではない、実体の系譜学に従っている。だが、この別の法則の利用が正しかったことが、原則によって正当化されると同時に、その利用はもはや必要でないこともまたこの原則によって告げられるのである。これはつまり、思惟の過程を一緒にたどってくれる教師は、方法を実現する原理にたどりついたときに消え去るということである。
(國分功一郎『スピノザの方法』みすず書房,2011年,p.355)


 とはいえ、私はこの区別には納得していません。スピノザの世界に思惟属性の様態以外の思考が存在するなどということはありえないと思います。それはさておき、この区別については、精神科医の斎藤環さんも同様の混同をしているふしがありますから、福嶋さんばかりを責めるのはアンフェアでしょう。
 
 今日の観点から見れば、超越論的問題を論じているとみなしうるテクストはプラトンにさえ見出すことができます。そうしたテクストの再発見をつうじてこそ、過去の哲学者たちの業績は正当に評価されうるのではないでしょうか。

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作成者 平岡公彦 : 2011年12月11日(日) 21:04

2011年11月23日(水)

ダメな書評の見本――阿部公彦の書評ブログ『暇と退屈の倫理学』國分功一郎(朝日出版社)を読む

 國分功一郎さんの回答を待っているあいだに『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)の書評を書き上げようと思っていたところ、英米文学者の阿部公彦さんの書評を見つけたので、プロの書評を参考にさせていただこうと思います。



 読み終えられましたか? それでは書評の内容をくわしく見ていきましょう。

 まず、冒頭部の「なぜ、こんな地味なテーマに?」から「タブーが形成されてきたのではないかという気がするのである」までの本文の約3分の1を占める記述は、『暇倫』の内容紹介ではなく、阿部さんの持論や蘊蓄を延々と披露しているだけなので、あまり参考にはなりません。中身も「退屈は大事なテーマだけど、それを論じた本はつまらなそうだ」という程度のものなので、こんなに長く書く必要はなかったのではないかと思います。それから、「退屈について語るのはタブーになっている」というのはたぶん阿部さんの気のせいです。

 やたら長い前置きが終わって、ようやく本題に入ったのかなと思うと、今度は首を傾げざるをえない解説にぶつかります。阿部さんは『暇倫』の最大のキーワードである退屈を、「心に生ずる凹みやくぼみなのであり、欠乏や不在や不可視としてしか語られえない」ものであると説明していますが、國分さん自身が提示している退屈の定義はこれとはまったくちがいます。


 退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。これは人間の能力そのものであるのだから、けっして振り払うことはできない。したがってパスカルが言っていた通り、人間はけっして部屋に一人でじっとしていられない。これは人間が辛抱強くないとかそういうことではない。能力の余りがあるのだから、どうしようもない。どうしても「なんとなく退屈だ」という声を耳にしてしまう。
(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』朝日出版社,2011年,p.244)


 國分さんとの対談で哲学者の千葉雅也さんがこの退屈をアクティブなものであると指摘しているとおり、國分さんの言う退屈とは、ありあまったエネルギーをもてあましている状態のことです。これほど明快な定義が示されているにもかかわらず、阿部さんがこのような見当外れの理解をしたとすれば見識を疑わざるをえませんが、おそらく、ここでもただ持論を披露しただけなのでしょう。

 では、そのほかの解説はどうでしょう。阿部さんは本書の文体を「「俺」を主語にしたべらんめえ調のダイナミックな文体」と評していますが、「俺」を主語にして書かれているのは「まえがき」と「あとがき」だけで、本文の議論は「私たち」を主語にして展開されています(332ページに一箇所だけ「わたしたち」になっているところがあります)。調子にも「べらんめえ調」と言われるような荒っぽさはありません。ちゃんと通読したのでしょうか。

 議論の要約もひどいものです。阿部さんは本書の議論の流れを「定住せざるを得なくなることで人類は退屈を抱え込んだのだと國分は言う。そこには無理がある、と。この無理を打開するために、今のゆがんだ消費文化が形成されたのだということで、話は経済の話に進んでいく」などと説明していますが、予備知識のない人がこの要約を読めば、「こんな議論が何十世紀も飛躍した主張をしているなんて、この著者はバカなんじゃないか」と思って買うのをやめてしまうかもしれません。

 最後に、阿部さんが本書の意義を「大事なのは、こんなに大きな声で「退屈」が語られたということなのである」とまとめていることにも十分がっかりしましたが、なにより目を疑ったのは、本文中の國分さんの名前の漢字がまちがっていたことです(2011年11月22日まで功一郎の「功」が「浩」と表記されていました)。

 どうやらこの書評は、書いたあとろくに読み返しもしていないやっつけ仕事だったようです。自分では絶対にこんな恥ずかしい書評を書かないように気をつけたいと思います。

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作成者 平岡公彦 : 2011年11月28日(月) 21:00

2011年11月11日(金)

決断について聞く――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』についての質問1

 哲学者の國分功一郎さんの新著『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)を読み終えたのですが、よくのみ込めない部分が思いのほかたくさんあり、まだうまく感想をまとめることができていません。
 
 独りで考え込んでいてもしょうがないので、書評を書くまえに國分さんに直接疑問点をぶつけてみようと思います。



 今回お聞きしてみた質問は以下のとおりです。
 
 お聞きしたいのは、第五章以降で展開されているハイデガーの決断論についてです。ハイデガーの決断を論じる際に、國分さんは第五章注60において『形而上学の根本諸概念』の次のテクストの参照を指示していらっしゃいます。


「現存在の自由というこのことは、現存在が自分を自由にするということのうちにのみある。しかし、現存在が自分を自由にするというこのことが起こるのは、そのつどただ、現存在が自分自身へと向けて、決断するときだけ、すなわち、現存在が現−存在としての自分のために自分を開くときだけである」
(傍点略.國分功一郎『暇と退屈の倫理学』朝日出版社,2011年,pp.xxviii-xxix)


 このテクストにおいて、ハイデガーは決断に「自分自身へと向けて」という条件を付していますが、本書において國分さんがハイデガーの決断に言及する際には、なぜかこの条件は終始一貫して省略されています。それだけでなく、「ハイデッガーは、退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと言っているのである。退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよ」(同書,p.243)という要約にも表れているように、本書の決断論においてこの条件が顧慮されているようにも思えません。そこで1つ目にお聞きしたいのは、ほかならぬその理由です。
 
 この「自分自身へと向けて」という強い限定をふまえるならば、ハイデガーの言う決断に、國分さんの言うような「なんでもいいから行動を起こすためのもっともらしい理由がほしい」という欲望は結びつきえないのではないでしょうか。


 人は奴隷になりたがる。第一章で見たニーチェも言っていたではないか、「若いヨーロッパ人たち」は「何としてでも何かに苦しみたいという欲望」をもっている、と。そうした苦しみから、自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引き出したいと願っているのだ、と。彼らは奴隷になりたがっていたのだ。
(同書,p.299)


 原典のテクストから明らかなとおり、ハイデガーの言う決断とは、自分自身を自由にする行為、すなわち、自分自身の能力に適合し、それを開示する行為でなければならないはずです。その意味で、ハイデガーの自由の定義は、スピノザの『エチカ』第一部定義七におけるそれと重ねて理解するべきではないかと私は考えます。


 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。
(傍点略.スピノザ『エチカ(上)』畠中尚志訳,岩波文庫,1975年改版,p.38)


 こうした意味での自由、すなわち自己の本性の自己展開に決断という勇ましい言葉が使われているのは、「周囲が反対しようが、世間から白い目で見られようが、自分のやりたいと思ったことをする」というニュアンスを強調するためでしょう。その意味ではたしかに決断には狂気と呼ぶべき危うさがありますが(國分前掲書,p.298)、自分らしく、自由に生きたいと望む人にとって、時にそれは決して避けて通ることのできないものであるはずです。
 
 本書において、決断は「奴隷への道」として全否定されているように見えるのですが、そうしたものから区別され、肯定されうるような決断は存在しないのでしょうか。これが2つ目にお聞きしたい質問です。
 
 それでは國分さんの回答を楽しみにしつつ、明日から2日間、課内旅行で大阪に行ってきます!

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作成者 平岡公彦 : 2011年11月11日(金) 20:50

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