哲学者の國分功一郎さんの新著『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)を読み終えたのですが、よくのみ込めない部分が思いのほかたくさんあり、まだうまく感想をまとめることができていません。
独りで考え込んでいてもしょうがないので、書評を書くまえに國分さんに直接疑問点をぶつけてみようと思います。
今回お聞きしてみた質問は以下のとおりです。
お聞きしたいのは、第五章以降で展開されているハイデガーの決断論についてです。ハイデガーの決断を論じる際に、國分さんは第五章注60において『形而上学の根本諸概念』の次のテクストの参照を指示していらっしゃいます。
「現存在の自由というこのことは、現存在が自分を自由にするということのうちにのみある。しかし、現存在が自分を自由にするというこのことが起こるのは、そのつどただ、現存在が自分自身へと向けて、決断するときだけ、すなわち、現存在が現−存在としての自分のために自分を開くときだけである」
(傍点略.國分功一郎『暇と退屈の倫理学』朝日出版社,2011年,pp.xxviii-xxix)
このテクストにおいて、ハイデガーは決断に「自分自身へと向けて」という条件を付していますが、本書において國分さんがハイデガーの決断に言及する際には、なぜかこの条件は終始一貫して省略されています。それだけでなく、「ハイデッガーは、退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと言っているのである。退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよ」(同書,p.243)という要約にも表れているように、本書の決断論においてこの条件が顧慮されているようにも思えません。そこで1つ目にお聞きしたいのは、ほかならぬその理由です。
この「自分自身へと向けて」という強い限定をふまえるならば、ハイデガーの言う決断に、國分さんの言うような「なんでもいいから行動を起こすためのもっともらしい理由がほしい」という欲望は結びつきえないのではないでしょうか。
人は奴隷になりたがる。第一章で見たニーチェも言っていたではないか、「若いヨーロッパ人たち」は「何としてでも何かに苦しみたいという欲望」をもっている、と。そうした苦しみから、自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引き出したいと願っているのだ、と。彼らは奴隷になりたがっていたのだ。
(同書,p.299)
原典のテクストから明らかなとおり、ハイデガーの言う決断とは、自分自身を自由にする行為、すなわち、自分自身の能力に適合し、それを開示する行為でなければならないはずです。その意味で、ハイデガーの自由の定義は、スピノザの『エチカ』第一部定義七におけるそれと重ねて理解するべきではないかと私は考えます。
自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。
(傍点略.スピノザ『エチカ(上)』畠中尚志訳,岩波文庫,1975年改版,p.38)
こうした意味での自由、すなわち自己の本性の自己展開に決断という勇ましい言葉が使われているのは、「周囲が反対しようが、世間から白い目で見られようが、自分のやりたいと思ったことをする」というニュアンスを強調するためでしょう。その意味ではたしかに決断には狂気と呼ぶべき危うさがありますが(國分前掲書,p.298)、自分らしく、自由に生きたいと望む人にとって、時にそれは決して避けて通ることのできないものであるはずです。
本書において、決断は「奴隷への道」として全否定されているように見えるのですが、そうしたものから区別され、肯定されうるような決断は存在しないのでしょうか。これが2つ目にお聞きしたい質問です。
それでは國分さんの回答を楽しみにしつつ、明日から2日間、課内旅行で大阪に行ってきます!

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