真理を探究するには、生涯に一度はすべてのことについて、できるかぎり疑うべきである。
(デカルト『哲学原理』桂寿一訳,岩波文庫,1964年,p.35)
昨年からずっと楽しみにしていた哲学者の國分功一郎さんの初の著書『スピノザの方法』(みすず書房)をようやく読み終えました。
タイトルのとおり、本書のテーマはスピノザの方法です。スピノザの方法というと、だれもが幾何学的方法と呼ばれる『エチカ』の記述スタイルを想起するでしょうが、本書が課題としているのはもちろんそうした形式上の特徴の退屈な解説ではなく、方法に対するスピノザのどのような考え方がそのような様式を要請したのかという問題です。
無論、それと同時に、本書はスピノザの読み方を教える本でもあります。というより、本書をつうじてはじめて真にスピノザを読めるようになると言っても過言ではないでしょう。私自身、本書に教えられるまで、理解するどころか、そこに問うべき問題があることさえ気づかずに素通りしていたところがたくさんあることに気づかされました。
本書第一部の議論を追ってみましょう。國分さんによれば、真理に到達する方法を求める思索は、方法の逆説と方法論の逆説という二つの逆説に陥ることを避けられません。
方法の逆説とは、「真理に到達するための方法は、実際に真理に到達することによってしか知りえないので、真理を発見するまえにそれを発見する方法だけを知ることはできない」という逆説です。そして方法論の逆説とは、「真理に到達する方法は真理の発見以前には知りえないので、真理の探究を開始するまえにその方法の正しさについて論じることはできない」という逆説です。
これら二つの逆説は、いずれも無限遡行の問題を内包しています。真理に到達する方法を求めるならは、さらにその方法を用いる方法をも求めねばならないでしょう。この方法の探求は、さらに方法の方法を用いる方法、方法の方法の方法を用いる方法へと無限に続きます。そしてその方法の正しさを証明しようとするならば、さらにその証明の正しさをも証明せねばなりません。この方法論の探究もまた同様に無限に続くことになるでしょう。
スピノザの方法論である『知性改善論』が陥った困難を整理するため、國分さんはフランスのスピノザ研究者ヴィオレットが提示した二つの方法の区分を紹介しています。
創出された方法とは、アドヴァイスを与え、障害物をあらかじめ知らせる方法である。対し創出的方法は、「一度かぎりこれを最後に(中略)」といった仕方でしか知られないし、描き出せない方法である。それは真理の発見に先行することができない。なぜなら両者は同時だからである。したがってそれは「アドヴァイスを与えることができない」。
(國分功一郎『スピノザの方法』みすず書房,2011年,pp.77-78)
ソクラテスは、『メノン』篇において二つの徳(アレテー)の定義を提示しています。一つは、知識によって私たちを正しい目的地まで導く方法であり、もう一つは、知識によらずに私たちを正しい目的地まで導く方法、すなわち最初の地図を作成する方法です(97A-C)。前者は創出された方法に、後者は創出的方法に対応するでしょう。
真理は創出的方法によってしか発見できない。ゆえに真理の探究において創出された方法に頼ることは不可能であり、創出された方法を論じるほかない『知性改善論』は失敗を宿命づけられていたとヴィオレットは結論しますが、國分さんは納得しません。ヴィオレットの論考は「正しさのうえに胡座をかいている」(國分前掲書,p.85)。なぜなら、スピノザはそれら二つの方法の役割を同時に果たす哲学を構想していたからです。
ここで私たちはふたたび「スピノザの方法とはなにか」という問いに連れ戻されます。それを解明するには、私たちは本書第二部において、國分さんとともにスピノザの『デカルトの哲学原理』の読解に挑まなければなりません。

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