國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)では、ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』(1970年)に代表される消費社会批判に依拠しつつ、現代消費社会における「享受からの疎外」という事態が告発されています。
私はボードリヤールの記号消費の理論は現実を無視した極論だとしか思えないので、この点でも國分さんの主張には賛成できません。それに加え、ボードリヤールの理論は、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』(1972年)において明らかにそれとわかる形で批判されていたはずですが、ドゥルージアンである國分さんがそのことにふれずにボードリヤールの主張をすんなり受け入れていることにも違和感を覚えます。しかし今回はそこには立ち入らず、ボードリヤールの記号消費論の検討に移りましょう。
ボードリヤールによれば、消費社会とは、モノの使用価値ではなく、モノの差異表示記号としての機能が際限なく消費される社会を意味します。
この差異化の論理と威信の単なる意識的規定とを区別しなければならない。なぜなら、これらの規定は依然として欲求の充足であり、プラスの差異の消費だが、差異表示記号の方は、常にプラスであると同時にマイナスでもある。したがって、これらの記号は他の記号を限りなく指示し、消費者の欲求を決して満たすことがない。
(傍点略.ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司/塚原史訳,紀伊國屋書店,1995年,p.69)
差異表示記号とは、モノがもつステータス・シンボルとしての機能のことですが、注意が必要なのは、モノがこうした機能をもつこと自体が悪いわけではないということです。「モノは記号の形をとるときにこの構造的規定を受けとる――モノがこうした規定を受けないことはまず不可能なのである」(傍点略.同書,p.65)。では、なにが問題なのでしょうか。
ボードリヤールは記号消費がもたらす2つの疎外を告発しています。1つは、欲求の充足の欠如、すなわち「享受からの疎外」であり、もう1つは、消費社会が「豊かな社会」の幻影によって隠蔽し、その維持に加担している階級差別、すなわち「社会的地位からの疎外」です。そして重要なのは、前者の疎外は後者の構造によって起こるということです。
欲求とその充足とは、記号による距離と差異化の維持という絶対的原則、一種の社会的至上命令によって、下の方へ浸透してゆく(tricking down)。社会的差別をもたらす用具としてのモノのあらゆる革新の条件を決定するのはこの法則であり、消費の全領域を貫いているのも、差別をもたらす用具の「上から下への」更新というこの法則であって、その逆の(下から上へ、全面的均質化へと向かう)所得の上昇ではないのだ。
(同書,p.70)
あたりまえのことですが、消費者は自分の購買力の範囲内でしかモノを買うことができません。ですから、あからさまに明示されてはいなくても、生産者は消費者の所得階層に応じて分相応の商品をあらかじめ割り当てています。消費社会において市場にモノが溢れるようになり、社会全体が豊かになったように見えても、ほんとうに貴重なものを享受できるのは依然として一部の富裕層のみだということは変わりません。
ゆえに、消費によって人に差をつけ、上位に立ちたくても、消費者が購入できるのは、みずからの所得階層にあてがわれた、すべてが等価であり、他のモノといくらでも交換可能な商品だけです。所得格差が維持される限り、消費によって消費者の生活水準そのものが向上することはありません。にもかかわらず、広告によって競争心だけは絶えず煽り立てられるために、消費者は、他の消費者と無意味な差異化の競争を果てしなく繰り広げることになるのです。
一言で言えば、記号消費とは階級闘争のことであり、消費がつねに享受から疎外されているのは、消費が階級の上昇には決して結びつかないからです。消費者の上昇志向は、すべてが同じクラスを指示する無限の記号のなかでいつまでも空転し続けます。

にほんブログ村