わたしの如是我聞

真宗の寺に住む女性が日々の雑感を語っています。かなり理屈っぽい性格ですが、お付き合いくださると嬉しいです。

2012年2月19日(日)
「従果向因」

hikkenさんが紹介されたサイトより ・・・


・・・「教信行証」は従因向果です。私が教えを信じて、たくさんの行を積む、それによって結果を得る。因から果ということです。しかし南無阿弥陀仏はそうではありません。儀式もまた、そうではありません。従果向因という形になっています。 


従果向因ということは例えば職人の技術や芸能の身に着け方などもそういう形になっています。最初は理屈は教えられません。私たちの持っている理屈にあわないこともあります。しかしそれをいえば叱られます。


戦後の民主主義の教育の今は、自分の意見を言うのは当り前になっていますが、それは良い面だけでなく弊害もあります。どうしても従因向果になってしまいやすいのです。


間違っていてもまず黙って聞いてみる。ある意味では聞法においてもそういうことは必要なのかもしれません。形として、すでに完成したものとして与えられているということです。


自分の視点からは間違って見えても、その全体像が分かったときには、その合理性もわかるのです。仏教を学ぶときにはやはり、自分がこう思うということだけを言っていては聞法にはならないでしょう。


やはり聴き続けるしかありません。

作成者 らん : 2012年2月19日(日) 09:58 [ コメント : 8]

コメント
多分…。人間の普段の意識は、いわば、教→信→行→証。例えば、お経を勉強して頭でなるほどなと思い、難行苦行で修行すると悟りが得られる。しかし、よく考えてみるとこれは真実ではなくて行信→証が物理的な時間の流れとしては先ずある。おいわれとかを知らないで(完全には理解できないで)先ず、称名念仏すると、空念仏なので、自分が偽物だということに突き当たる。自分が偽物だと分かるということには六字が既に与えられていたことが要請される…

投稿者 hikken  : 2012年2月19日(日) 10:08

そう!「従果向因ということは例えば職人の技術や芸能の身に着け方などもそういう形になっています。」は私も、そりゃそうだよなぁ!と思いました。

投稿者 hikken  : 2012年2月19日(日) 10:10

もっとも、聖道門の悟りが得られた場合には、超能力で利他行が自由自在にできて、現実を変えられるという利点(?)はありますね。実際に、超能力を身につけた人は周囲には見たことはないですが。淨土門の場合、聖道門の悟りを得ることに反復して失敗し続ける正にそのことが、真実の教えがどこでもない場所にある(あるいは「ある」と言いたくない場合は「存在するのとは別の仕方で…」と「ある」と言わないで「…」と言うしかないですが)ことの証明になっている、つまり、自分が自覚するのは、聖道門の悟りではなくて、「自分がたどり着いた考えは間違っている」ということなので、反復して「自分は間違っているなぁ」と自覚することが、正に、真実の教えが、”あたかも”実体として実在”するかのように”用らいていることの証明になっているということなので、現実は変わらない。現実以外の全てを変える。

投稿者 hikken  : 2012年2月19日(日) 10:36

分かりにくかったです。すみません。聖道門のすばらしさは、仏教とは仏になる教えである。何故、仏に成りたいかというと、超能力を得て、自由自在に利他行を行いたいからである…というところにあり、その素晴らしさは否定できないと思います。但し、人間は、自分がそのような超能力者である、ないし、になれると、自分を誤解しているということに気がついてしまっているのが淨土門。考えようによってはその自覚は無念(^^;)。考えようによってはナルシシズムの破壊なので、がっかり。超能力あるかと思ってたよorz。

投稿者 hikken  : 2012年2月19日(日) 10:56

「学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。」→「念のこころ」というのは念仏の意味なんでしょうね。つまり念仏するのに理由というか意図はないと。何かの目的の為の手段として、思惑があって念仏していたら、その自分一人の想いが実現しなかったら裏切られた気持ちになりますからねぇ。自分が悪いんですけど。でも、自分の生き様や死に様は問題にならない、変えなくて良い、死ぬ直前までまだ死にたくないと泣き叫んでいてもOKであれば、絶対に裏切られることのない教えとは言えますね。

投稿者 hikken  : 2012年2月19日(日) 14:00

ある仏壇屋さんのコピー
「こころはかたちを勧め、かたちはこころを勧める」
だったかな?
間違っていたらゴメンナサイ。
でも、あたっているなと思う今日この頃。
昔は形をバカにしていた。

投稿者 らん  : 2012年2月19日(日) 15:52

> 昔は形をバカにしていた。

おお、私と同じです。子どもの頃はもちろん、形だけ、というか、今でも、空念仏なんでしょうが、形だけが当たり前でしたが、大人になって聞法とかするようになって、最初の、一時期、ごく短期間、形をバカにしていたは大袈裟ですが、なんか今から思えば、行を離れた抽象的な信があるんじゃないかと迷った私がバカでした。やっぱ形だなと逆転というか元に戻りましたというかやっぱ宗教は行だなと。行信、行=信。

投稿者 hikken  : 2012年2月19日(日) 18:16

捨家棄欲、而作沙門、発菩提心等とは、これ助行なり。またこれ能助なり。謂く往生の業には、念仏を本とす。故に一向に念仏を修せんが為に、家を捨て欲を棄て沙門と作り、また菩提心を発す等なり。中に就いて出家発心等とは、且く初出および初発を指す。念仏はこれ長時不退の行なり。むしろ念仏を妨礙すべけんや。『選擇本願念佛集』

出家したり菩提心を発すことは念仏をするようになる縁となるんですよ。出家とか発心とかを、もしかすると頭を空っぽにして素直に念仏を喜ぶことにには邪魔になるんじゃないかなぁという気もするかもしれなけど、そんなことはないんだよ。何故なら、出家とか発心とかは一過性のもの。念仏は一生涯。だから大丈夫…ってことですよね…。さりげなく読んでしまうけど、ある日、読んでて、何か衝撃を受けました。

投稿者 hikken  : 2012年2月19日(日) 19:38

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