レヴィナス『全体性と無限』
久々に、HP更新しました。
レヴィナスの『全体性と無限』について、解説をアップしました。
とても読み応えのある、現代倫理思想の金字塔。
左の「リンク」からご覧ください。
でも実は、僕は基本的にはレヴィナスの倫理思想には批判的です。
全体性には決して回収されることのない、絶対的で無限の〈他者〉、という思想は、確かに魅力的です。
だから〈他者〉を、絶対的に迎え入れよ。レヴィナスはそう言います。
でもそれは倫理的な「態度」としては見事かも知れないけれど、実践はほとんど不可能なこと。
どうすれば、〈私〉〈他者〉〈私たち〉が、豊かな関係性を築いていけるのだろう、という、その条件を現実的に考え抜くこと。
そこに、力強い倫理思想が生まれるはずだと思います。〈他者〉を絶対的に迎え入れよ、という「要請」は、現実の前に必ずしも有効ではないだろうと思います。
けれどちょっと、我田引水的に考えること。
なりたい自分。めざしたい生き方。
どんな人とも、深く理解し合いたい。
その喜びを、大切にしたい。
けれど現実には難しい。たぶんほとんど、不可能なこと。
理解し合うことを求めて、から回る。
でもせっかく出会い集った仲間とは、とにかくまず、分かり合いたい。
せっかくの出会いなんだから。
でもそれは結局困難で・・・
なのに求めるから、辛くなる。
そんなとき、〈他者〉は〈私〉とは絶対的に分離された理解不可能な存在なんだ、と言ってのけてもらえると、かえって楽になる。
レヴィナスの言葉を借りれば、だから倫理とは、他者を〈迎え入れる〉(オスピタリテ)ことにほかならない。〈他者〉への応答可能性にほかならない。
この関係は、他者をただたんに求めているのではない。絶対に分離しているがゆえに、〈渇望〉しているのだ。
レヴィナスのいやらしいほどに文学的なレトリックは、他者関係のロマンに傷ついた人たちに、逆説的な希望を与えてくるような気さえします。
それでも僕は、やっぱりレヴィナス思想には与しない。
「愛せない場合は抱きしめよ!」
それが必死の、ポリシーだった。
けれどそれも、結局むりだと分かった。
「愛せない場合は通り過ぎよ」
やっぱりニーチェのほうが、汎用性のある言葉を唱えたんだろうか。
でも、それでもなお、求めてしまうということ。
その思いは、大切にしよう。
通りすぎる技術も、時に学びつつ(笑)。
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