Sat, Jan 24, 2009
霊の風は思いのままに
Respondit Iesus:
< Amen, amen dico tibi:
Nisi quis natus fuerit ex aqua et Spiritu, non potest introire in regnum Dei.
Quod natum est ex carne, caro est;
et, quod natum est ex Spiritu, spritus est.
Non mireris quia dixi tibi:
Oporet vos nasci denuo.
Spiritus, ubi vult, spirat, et vocem eius audis, sed non scis unde veniat et quo vadat;
sic est omnis, qui natus est ex Spiritu >.
(Ioa3.5-8)
イエスは答えて彼に言われた。
アーメン、アーメン、あなたに言う。
水と霊から生まれたのでなければ、誰も神の国に入ることはできません。
肉から生まれた者は肉です。
霊から生まれた者は霊です。
私が、あなたは新しく生まれなければならない、と言ったことを不思議に思うことはありません。
風はその望むところへ行き、あなたはその音を聞く。
しかし、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。
* * *
ヨハネ福音書には、霊肉二元論的に書かれた箇所がいくつもある。
最初から霊と肉とを分けてしまい、決定論的に解釈することも可能な書き方をしているところがある。
しかし、ここは注意しなければならない。
グノーシス論駁という意図があったために、あえてこのような書き方がされているのだとしても、福音の真理は二元論でも決定論でもない。
今日の箇所はその根拠として読むことができる。
日本語では「風」と訳されている言葉は、ラテン語ではSpiritus、ギリシア語原典でもpneumaとなっている。
「霊」と「風」とは語源が同じなのである。
ここをあえて「霊」と訳してみると、8節の言葉は、「霊の音ずれをあなたは聞くことはできるが、はっきりとその行方を知ることはできない」となる。
私たちは霊の音ずれを聞く。それは心の耳で聞くこともあるが、肉体的な聴覚器官で聞くこともある。いずれにしても、私たちは霊の音ずれを聞いた瞬間、この肉体に対しての働きかけを感じる。
霊は決してこの肉体と離れて自存するものではなく、必ず肉体への働きかけを伴う。
これが二元論への反論となる。
しかし、私たちは肉体で霊の働きを感じていても、それをはっきりと捕まえることはできない。霊の働きは私たちの思いをはるかに越えて自由である。
これが決定論への反論となる。
ところで、決定論に関して、次のような議論をよく耳にする。
私たちには分からなくても、神の側ではすでに決定しているのではないか。つまり、神はすでに救う者と救わない者とを分けているのではないか。
たしかに、そうかもしれない。そして、それを認めることは、神の愛に反することを認めることになるかもしれない。
しかし、もう一歩踏み込んで考えてみると、この議論は重大なことを忘れている。
それは、神の御心を私たちは決して完全に知ることはできないということだ。つまり、神がすでに決定しているかどうかについて私たちは終末の時まで知ることができないのである。
神は知っている。しかし、人間は知らない。
人間は知らない、ということは、神が知っているかどうかさえ、人間は知らないということである。
したがって、それを知っていることを前提にした上のような議論には、意味がないのである。意味がないだけでなく、もっと大切なことを忘れさせる危険もあるのだ。
もっと大切なこと。それは神の霊が絶対的に自由であるということだ。
風は思いのままに吹く。
私たちは、その正体を突き止めるのではなく、ただその音に耳を澄ませばよいのである。
それは霊の風に全身を委ねるということである。
その風は、私の体に心地よい。
