マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

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2010年2月8日(月)

なぜ人は旅に出るのか

 なぜ人は旅に出るのか――
 ということを考え始めています。

 一口に「旅」といっても、色々とありますよね。

 江戸期の俳人・松尾芭蕉は、しばしば旅に出たそうです。
 有名な『奥の細道』も紀行文ですよね。

 最期も旅先で迎えたそうです。

 ここまでくると――
 旅に出ている状態が日常であって――
 家にいる状態が非日常であるように思います。

 旅が常態化している人にとっての旅と、そうでない人にとっての旅とは――
 明らかに異質でしょう。

 僕の興味は後者に向かいます。

 旅が常態化していない人にとっての旅とは、どういうものか――

 それは――
 現代社会においては、「旅」というよりは「旅行」というほうが、誤解は少ないでしょう。

 つまり――
 なぜ人は、たまに旅行をするのか――

 僕自身は、滅多に旅行をしません。

 心から旅行をしたいと思ったのは――
 一度きりでした。

 19の夏です。

 ある朝、一大決心をして――
 そのまま旅行をしました。

 その旅行が日帰りでした(笑

 だから――
 僕は、かなりのレベルで、旅行に関心がないのだろうと思います。

 が――
 逆にいえば――
 そんな僕でさえ、一度は旅行をしたくなったのですから――
 やはり、人には何か旅に出る理由があるのでしょう。

 それが何なのかを――
 少しじっくりと考えてみます。

 旅行好きの人にとっては、ありえないくらいに無意味な考えごとでしょうね。

 が――
 あえて挑戦的なことをいわせてもらえば――
 今の僕には、その旅行それ自体が、ありえないくらいに無意味なことに感じられるのです。

作成者 マル太

2010年2月7日(日)

やがて死にいく身であることを

 日本のTVドラマや映画などで、登場人物が親しい人を亡くすくだりでは――
 亡くした後に、一人になって声を出して泣いたりするシーンがみられますが――
(ちょっと、これはどうかな……)
 と思うことが多いのですよね。

 声に出して泣く登場人物が、あまりにも無邪気に泣いているようで、興が醒めるのです。
「無邪気」にというのは――

 ――まるで自分は死ぬことがないことを確信しているかのように――

 ということです。

 子供がそのように泣くシーンなら、
(まあ、いいか)
 と思えるのですが――
 いい歳をした大人がそのように泣いているシーンには、違和感を覚えます。

 現実の世界で、そのように泣いている人は、いないのではないでしょうか。

 泣くにしても、もっと押し殺して泣いている――

 当然です。

 この世のすべての人が、自分自身も含めて――
 やがて死にいく身であることを悟らずには、いられないのですから――

作成者 マル太

2010年2月6日(土)

未知への備えが

 教育の眼目は、

 ――予測不可能な事態に、いかに対応させるか。

 ということでしょう。

 予測可能な事態への対応は――
 さほどに難しいことではありません。

 たぶん、それは、わざわざ教師が伝えなくても、多くの人々に自然と伝わることです。

 予測不可能な事態は、そうはいきません。
 何しろ、予測が不可能なのですから――

 真に予測不可能な事態とは、つねに未知の事態です。

 未知への備えが、教育という営みです。

作成者 マル太

2010年2月5日(金)

「先を生きる」から「今を生きる」へ

 今を生きるか、先を生きるか――
 大きな分かれ目です。

 今を生きるというのは、現在の楽しみを優先して暮らすということです。
 先を生きるというのは、未来の楽しみを優先して暮らすということです。

 例えば――
 社会人が仕事をこなしつつも趣味に没頭するのは「今を生きる」ですし――
 学生がクラブ活動を抑えて単位取得に専念するのは「先を生きる」です。

 一般に、若いうちは先を生きるのがよいでしょう。
 若ければ、その分、長い未来を見込めるからです。

 が、歳をとれば、今を生きるのがよいでしょう。
 歳をとる分、長い未来が見込めないからです。

 重要なことは――
 人は、ある時点で「先を生きる」を「今を生きる」に切り替えることが必要だということです。

 この時点を見極めることが、人生を総合的に設計する上では、大変に重要です。

 その重要性は、子供のときから十分に弁えておくのがよいでしょう。

 この点は、ことの性質上、学校教育では限界があるはずです。
 家庭教育の主要な目的なのだろうと思います。

作成者 マル太

2010年2月4日(木)

卑屈にならないことと驕慢に振る舞うこととは

 ――卑屈にならない。

 ということが、

 ――驕慢に振る舞う。

 ということと同じだと誤解している人が、多いように感じます。

 とくに年配の人に多いようです。

 これは、おそらく――
 年配の人は卑屈になることの効能を熟知しているためでしょう。

 たしかに、人付き合いなどで窮地に陥ったときに、あえて卑屈になることで状況を打開できる場合があります。

 が――
 それによって失うものもあるわけで――

 少なくとも、年若い人が卑屈になるのを回避したがるのは――
 卑屈になることで失うものがあると強く信じているからです。

 ですから――
 年配の人が年若い人に卑屈になる知恵――それが本当に知恵かどうかは熟慮するべきと僕は思いますが――それを心から授けたいと思うのなら、その効能を説けばよいのです。

 が――
 そうする人は少ないのですね。

 ――あいつは驕慢だ。

 で片付ける――
 あるいは、陰で小事をいう――

 それでは逆効果です。

「あいつは驕慢だ」のレッテルを貼られた人は、ますます意固地になって――
 卑屈になることを拒み続けるでしょう。

 卑屈にならないことと驕慢に振る舞うこととは違います。

 卑屈にならないということは――
 自分自身の納得を大事するとか、つねに自分の判断を信じようとする、といったことであり――

 驕慢に振る舞うということは――
 自分勝手な言動を慎まないとか、周囲の人々に与える迷惑を考えない、といったことです。

作成者 マル太

2010年2月3日(水)

他人から甘えられることの

 多くの人が、他人に甘えることの危険性を警戒しているとは思いますが――
 他人から甘えられることの危険性を警戒している人は、そんなに多くはないようなのです。

 他人から甘えられるということは――
 そのことを通し、自分自身を甘やかしている、ということでもあるのですよね。

 簡単にいえば、

 ――共依存

 ということです。

 人は、他人から甘えられることを、ときに、たまらなく心地よいと感じます。

 十分に気をつけたいところです。

作成者 マル太

2010年2月2日(火)

考えごとのやり方には

 考えごとというのは――
 考えている内容が具体的であればあるほどに、時間を浪費しやすいのですね。

 ちょっとの間のつもりが、2時間も3時間も経っていたりする――

 内容が具体的だから、飽きもせずに考え続けてしまうのです。

 もし、内容が抽象的であったなら――
 すぐに考えることに飽きてしまうので、そんなに時間を浪費せずに済むのです。

 ……

 ……

 うん?

 待てよ。

 ……

 ……

 何となく矛盾しているように感じますね。

 だって、

 ――考えごとは、できるだけ具体的に!

 ――抽象的な考えごとは時間を浪費する!

 などという警句も、よく耳にしますよね。

 どういうことなんだろう?

 ……

 ……

 結局のところ――
 抽象的であろうが具体的であろうが、考えごとのやり方には上手い・下手がある、ということなのでしょうね(笑

作成者 マル太

2010年2月1日(月)

語義矛盾を指摘されたことが

 仕事で「任意」という言葉を使おうとして、
(あれ?)
 と思ったのですね。

「任意」とは、簡単にいえば、

 ――どれでもいい。

 という意味ですが――
 文脈によっては、意外と誤解を生みやすいのです。

 大学時代に、レポートで、

 ――任意の特定の数

 と書いて怒られたことがありました。

 ――「任意」なのに「特定」というのは矛盾だ。

 という主旨です。

 書いた本人は、

 ――任意に定めたら、あとは変更しない。

 という意味で書いたのですが――
 そうは受け取ってもらえなかったのです。

 無理もありません。

 前後の文脈を無視し、「任意の特定の数」という文言だけをみたら、明らかに語義矛盾ですものね。

 それ以来、「任意」という言葉を使うときには自然と警戒心が生まれるようになり――
 ついには、積極的に使うべきところでも、つい二の足を踏むようになってしまいました。

 大学時代の僕は、語義矛盾を指摘されたことが、よほど悔しかったのですね(笑

作成者 マル太
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