マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

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2012年2月29日(水)

4年に一度しかめぐってこない日

 2月29日は、4年に一度しかめぐってこない日なので――
 なんだか、とても貴重な日であるように感じます。

 例年ですと――
 きょうは2月ではなく、3月なのですよね。

 が――
 今年は、あくまでも2月なのです。

 4年に一度、なぜ2月の末に1日だけ余計に付け加えられるのかといえば――
 古代ローマ歴では、2月が12番目の月とされていたからだそうで――
 その頃は、3月が1番目の月だったそうです。

 暦のことを考えると、自然の偶然性と人知の必然性との関連を思います。

 なぜ1日だけ余計に付け加えられなければならないのかといえば――
 根本的には、地球の公転や自転の周期に理由を求めることができます。

 地球の公転周期が地球の自転周期の整数倍になっていないのですね。
 公転周期は自転周期の約365.25倍です。

 よって、4年が経つと、端数の「.25」の部分が積み重なって「1.00」となってしまう――

 この「.25」は、自然の偶然性に由来します。
「.33」や「.05」ではなく「.25」であることに、おそらくは何も必然はなかったでしょう。

 一方、「.25」の端数を調整するために、4年に一度、1日だけ付け加えるという知恵は、人知の必然です。

 そうしなければ、長い年月の間に、どんどん暦が狂っていってしまう――
 狂った暦などは、かえって迷惑ですから、そういうものは使いたくない――
 よって、端数は何としても調整しなければならないのです。

 この調整は、ハッキリいえば、かなり人為的です。
 ほとんど「ご都合主義」といっても、よいくらい――

 暦を管理していた農耕期の為政者たちは、今の1月や2月を明示していなかったそうです。
 1月や2月は農閑期なので、暦は必要ないという判断があったといわれます。

 が――
 僕などは思うのです。

 本当の理由は、端数の調整をごまかすためではなかったのか、と―― 

 たしかに、ときの為政者たちが、

 ――4年に1度は1日だけ余計に付け加える。

 などと宣言したら――
 民衆は訝ったことでしょう。

 為政者の人為性に欺瞞性を感じたかもしれません。

 人間の直観力は、いつの世でも、バカにならなかったはずです。

作成者 マル太

2012年2月28日(火)

人災

 ――人災

 という言葉をしばしば見聞きします。

 ――防災や減災に努めるべき人たちの不注意や怠慢によって、本来ならば防げたはずの災害を被ること――

 くらいの意味でしょうか。

「天災」に比しての「人災」です。
 つまり、人の過失が「天災」を過度に悪化させた場合に、「人災」となります。

 ところが、この際の「人」には十分に注意をしなければなりません。

「人災」というと、つい特定の個人を標的にしてしまいがちなのですよね。

 もちろん、そういうケースもあるでしょう。
 誰かの非常識なまでの不注意や怠慢によって人災が起こることは、十分にありえます。

 が――
 そういうケースは、きわめて稀です。

 実際には、特定の個人ではなく、特定の組織(組織化された個人集団)の不注意や怠慢によって、ほとんどの人災は起こっています。

 よって、人災を起こした組織のトップは厳しく追及をされます。

 ただし――
 それは、あくまでも組織のトップとして追及を受けるのであって、純然たる個人として、ではありません。

「人災」という言葉を使うときには、このケジメをしっかりと意識しておくのがよいでしょう。

 人災とは、多くの場合、組織論の括りで議論されるべき概念なのです。

作成者 マル太

2012年2月27日(月)

電話は意思疎通という名の壁に穿たれた小さな穴

 人は――
 誰かと面と向かって相対しているときよりも、電話口だけでやりとりをしているときのほうが――
 より感情を不安定にさせる傾向にあるようです。

 直に会っていれば何でもなかったはずの行き違いが、電話で喋っているときは激しい口論へと発展をする――

 電話で喋るということは、意思疎通という壁に穿たれた小さな穴から、壁の向こう側を覗き込むようなことです。

 視野が不自然に狭められており、ついイライラしてしまって、しょうがない――
 もし、壁がガラス張りであったなら、まったくイライラしないで済むことなのに――

 これが電話の弱点でしょう。

 数年前から――
 この国の政権中枢でも、携帯電話によるやりとりが重要な政治決断を幇助しそうになることが、何度か起こっているそうです。

 が――
 その都度、頓挫をしているらしい――

 携帯電話も電話です。
 つまり、壁に穿たれた小さな穴であることに変わりはありません。

 が――
 携帯電話だと、その穴が自在に移動できるような錯覚を覚えるのですよね。

 だから、その壁が、まるでガラス張りであるかのように錯覚してしまう――

 本当は――
 そんなことはありませんよね。

 穴をどんなに自在に移動させようと、視野が狭められていることには変わりがないのですから――

作成者 マル太

2012年2月26日(日)

長所と短所とは表裏一体であるけれども

 長所と短所とは表裏一体であるものですが――
 その“表裏一体”を日頃から実感できている人というのは、どれくらい、いるのでしょうかね。

 僕は“表裏一体”を理屈では理解しているつもりですが――
 それでも、日常生活の只中では、

 ――長所の対極が短所、短所の対極が長所である。

 と何となく思っています。

「この案の短所は、何ですか?」
 と訊き、
「○○ですよ。それは、見方を変えれば、長所でもあるんですけどね」
 と答えられたら、
(いや、別に長所は訊いてないんだけどなあ……)
 と秘かに訝ってしまうのですが――
 そのときに「長所と短所とは表裏一体である」という話を運よく思い出せたのなら、
(ああ、なるほど――)
 と自分を納得させることができます。

 長所と短所とが渾然一体となっているというのは、人間の経験に基づく偉大な発見だと思いますが――
 この発見の中身は、人間の直感に大きく反しているらしいという点が――
 とても不思議で面白いと感じます。

作成者 マル太

2012年2月25日(土)

いわゆる「日本史」の特異性

 僕ら日本人にとっては、一般概念としての歴史と、いわゆる「日本史」と呼ばれる歴史とは、異質であると思っています。

 僕らが「日本史」といえば、そこには、社会史、政治・経済史、文化史、民族史などを、すべて込めています。

 例えば――
 2000年前の日本列島では、日本人が今の僕らと変わらずに暮らしており――
 そこには、僕らの先祖が築いた社会があり、営んだ政治があり、育んだ文化があり、受け継いだ家庭があると思っています。

 つまり、2000年前の日本人と今の僕らとの間には、連続的な変遷の過程があると、何となく信じられているのですね。

 ところが、2000年前のイタリア半島では、話が違います。

 2000年前にイタリア半島に暮らしていた人たちは、今のイタリア人とは全く無縁の人たちと考えてもよいくらいに――
 つなげがたい断絶があるそうです。

 イタリアの例は稀ではなく、むしろ普通であり――
 日本の例のほうが、決定的に稀なのです。

 通常、歴史といえば、社会の変遷なのか、政治・経済の変遷なのか、文化の変遷なのか、民族の変遷なのかをはっきりとさせる必要があります。
 それらを渾然一体ととらえることが許されるという意味において、日本史は十分に特異的なのです。

 が、この特異性を意識しないで日本史を敷衍するとき――
 その歴史は、一般概念としての歴史ではなく、何か特別なもの――あたかも、

 ――日本人による総“自分探し”

 とでも呼んだほうがよいもの――に化けてしまいます。

 それが日本史の最大の魅力であり、かつ、かなり厄介で危険な性質であると僕は思っています。

 ――日本史を学ぶだけでは歴史を学んだことにならない。

 という可能性が示唆されるからです。

作成者 マル太

2012年2月24日(金)

エゴイズム

 いわゆるエゴイズム(egoism)には2種類あって――
 一つが自分の利益を追求するものであり、もう一つが自分の損益を回避するものです。

 利益追求のエゴイズムは、いかにもエゴイズムな感じですが――
 損益回避のエゴイズムは、ちょっと様相が異なります。

 自分を守っている印象が強いのです。

 もちろん、自分のことだけを守りすぎていれば、いわゆるエゴイズムの範疇に入りますが――
 そうでない場合には――つまり、ほどほどに自分を守っている場合には――そんなに強くは非難されません。
 誰だって自分を守ることには一生懸命なのですから――

「エゴイズム」という言葉を使うときには、ちょっと注意が必要でしょう。

 しばしば「利己主義」との日本語があてられますが――
 ちょっと正確ではないと感じます。

「エゴ(ego)」とは「自我」という意味です。
 よって、

 ――自我主義

 というのが、正確な表記だろうと思います。

「自我主義」には、自分の利益を追求するエゴイズムと、自分の損益を回避するエゴイズムとが含まれます。

 自分を守ることもエゴイズムの側面の一つです。

 つまり、エゴイズムには「絶対悪」とは言い切れないところがあります。

作成者 マル太

2012年2月23日(木)

必要な物を手にするためだけの買い物は

 買い物は、実際に買うまでは楽しくて――
 いったん買ってしまったあとでは、そんなには楽しくありません。

 ですから――
 買い物の真の目的は、実は、物を手に入れることではなくて――
 どの物を手に入れようかで、あれこれと思案をすることにあるのではないかとさえ、思います。

 手に入れてしまったダイヤは――
 しょせん石ころみたいな物なのですよね。

 このような買い物の倒錯性を――
 僕は、そんなに否定的には捉えたくないのです。

 よいではありませんか。
 買い物の真の目的が物を手に入れることにはなくても――

 それだけ豊かで幸せな社会で暮らしているということです。

 豊かで幸せな社会だからこそ――
 どの物を手に入れようかで、あれこれと思案ができるのです。

 貧しくて不幸せな社会ならば――
 買い物は苦行の一種といってよいでしょう。

 そういう社会では――
 きっと手に入る物の種類は限られます。

 限られた種類の物で、限られたおカネを換えていく――
 必要な物を手にする度に、おカネはどんどん減っていく――

 それは――
 さながら自分に与えられた寿命を消費していくがごとしです。

 誰しも歳をとるのが楽しくはないように――
 必要な物を手にするためだけの買い物は、決して楽しくはないはずです。

作成者 マル太

2012年2月22日(水)

思考の切り口がガラリと変わってしまう瞬間

 どうしても譲れなかったことが――
 どうでもいいことになってしまう瞬間があります。

 それは――
 思考の切り口がガラリと変わってしまう瞬間です。

 ある側面から考えていったら、「どうしても譲れない」であったのが――
 別の側面から考えていったら、「どうでもいい」になってしまう――
 そういうことです。

 この「思考の切り口がガラリと変わってしまう瞬間」を自在に操れるといいのですがね。

 ――お! 今、自分は、あの側面から考えているな。じゃあ、今度は、この側面から考えてみよう。

 というふうに――

 ……

 ……

 なかなか、そうはならないものです(苦笑

作成者 マル太

2012年2月21日(火)

過去の自分を裏切れば、自分の心の在り処がなくなる

 ――ああ、あのとき、失敗したな〜。

 と思うか、

 ――あのときは、たしかにベストの選択だった。

 と思うか――
 その違いだと思うのです。

「失敗したな〜」と、しつこく後悔する人は――
 その「失敗」となる選択を決断したときの自分を裏切っています。

 先人の教えに、

 ――自分で立てた計画を守らない人は、その計画を立てたときの自分を裏切っている。

 というのがあるそうですが――
 それになぞらえれば、

 ――自分で下した決断を後悔する人は、その決断を下したときの自分を裏切っている。

 ということですね。

 過去の自分を裏切るのは、大変なことですよ。

 家族や友人・知人を裏切れば、自分の居場所がなくなります。

 では、過去の自分を裏切れば、どうなるか――

 おそらく――
 自分の心の在り処がなくなるでしょう。

 自分の心がどうなっているのか――
 今、何を感じ、何を考え、何を欲しているのかが――
 それが、まったくわからなくなってしまう――

「自分の心の在り処がなくなる」ということは、そういうです。

作成者 マル太

2012年2月20日(月)

とっさにお礼がいえる人は

 とっさにお礼がいえる人は、
(強いな〜)
 と思います。

 誰かから、さりげない厚意を示されたときに――
 その厚意に気づき、背景の真意をつかみ、そこに見当違いな疑いをかけてしまわない――
 そういう柔軟で誠実な対応を瞬時にとれる能力や感覚というのは、仕事の上でも交友の上でも、最大級の強みです。

 ふつうは、どこかで、つまずくものです。

 まずは、厚意に気づかない――気づけない――

 あるいは、背景の真意をつかめない――つかもうとしない――

 つい見当違いな疑いをかけてしまう――

 ……

 ……

 僕も、よくつまずきますよ(笑

 とくに第1の段階で、つまずくことが多いようです。
 厚意に気づかない――気づけない――

 第3の段階は、あまり心配ないかな。
 疑いは全くかけないほうです。

 むしろ、けっこうお人よし――
 だますよりは、だまされろ――みたいな覚悟を口実にしています(苦笑

 ……

 ……

 でもね――

 いちばん大事なのは、第1の段階ですよ。
 第3の段階ではない――

 まずは、厚意に気づかなくっちゃ――でないと、何一つ始まらないのです。

 とっさにお礼がいえる人は――
 そこに必ず気づくのでしょうね。

作成者 マル太
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