2008年8月8日(金)
連載No42 1971年 三里塚「幻野祭」 その1
ホームページのエピソード1971にも書いたが、1971年8月14日から17日まで、三里塚で「幻野祭」が開かれた。
反対同盟と機動隊が衝突した2月22日の第1次強制代執行と、9月16日の機動隊員3名が死亡した第2次強制代執行の間の闘争の渦中に開催された、三里塚芝山連合空港反対同盟青年行動隊主催による「まつり」である。
写真は赤瀬川原平氏が作成した「幻野祭」のポスター(「櫻画報激動の1250日」より転載)。「幻野祭」のカンパということで一枚1000円。この連載でもお馴染みの「櫻画報」がポスターとなっている。
このポスターは明大和泉学生会館運営委員会室にも貼ってあった。
さて、三里塚で第二次強制代執行が迫るこの時期に何故「まつり」だったのか?
この「まつり」の発案者である青年行動隊員の記事が新聞に載っているので引用する。
朝日新聞 1971.8.11
【シンジの論理】(引用)
『シンジがとてつもないことをいい出した。「三里塚でまつりをするべえ」
シンジ。石井新二さん、23歳。彼は成田空港建設反対の青年行動隊員である。支援学生にいわせれば「アレは三里塚そのものだ」
シンジの論理によれば・・・
成田の農民にとって、反対闘争は日常化し、生活の一部だ。特殊のものではない。ふつうの生活には、時期がくればまつりがある。だから、三里塚にまつりがあってもおかしくはない。「民青みたいだ」との批判があった。シンジは答えた。「民青はもっと統制がとれてシッカリしてるよ」
期間は8月14日から3日間。具体的なプログラムは支援学生らが練っている。ロック、フォーク、前衛演劇・・・。「盆踊りもあるよ。おっかさんたちは練習してるぜ」
おそらく会場の何ヶ所かで、いろんなことが同時に行われるだろう。期間についても・・・
「電気をね、16日まで引く。だからそれがとまったら終わるべ」といった調子だ。
シンジは歌手、加藤登紀子を呼びたいと考えている。「東京でやるんならロック、アングラでいいけど、成田だべ。本当なら三波春夫にでも来てほしいとこなんだ」
ひとつ気になることがある。ある週刊誌が、まつりからひそかに騒動を起こす計画があるようなことを書いた。
「そんなことはねえんだ。だって、それじゃあ、まつりとはいえねえもん」 』
第二次強制代執行の前であっても、農民の生活の日常の一環として、「まつり」があってもおかしくない、ということである。ただ、この「まつり」には反対同盟や支援学生からの風当たりも強かった。
朝日新聞 1971.8.15
【三里塚の反戦まつり 歌と踊りと論争と】(引用)
『成田空港建設に反対する三里塚・芝山連合空港反対同盟の青年行動隊が主催した「三里塚反戦祭」が14日午後6時半すぎから、千葉県成田市天神峰の草原で開かれ、約1000人(成田署調べ)の若者が参加した。三里塚でデモや集会は何度もあったが、お祭りは初めて。近づく秋の第二次代執行を前に「お祭りで疲れをいやし、戦うエネルギーを・・・」というねらいである。
闘争であけくれた三里塚に久しぶりに歌が鳴り響いた。一方、千葉県警は祭に便乗したゲリラに備え、空港公団成田分室に300人の警官を配置させた。集まってきたヒッピー風の若者の群れに、いささか戸惑い気味だった。祭りは17日未明まで続く。(中略)
<祭粉砕>
戸村一作反対同盟委員長
私は祭ということばの響きが好きじゃない。祭りというのは地方のボスやダンナが音頭をとって飲み食い、そして歌う・・・。体質的にあわないよ。祭りには思想がない。フーテンやピッピーがギターをかき鳴らす・・。それで人集めしたって・・・闘争はもっときびしいよ。三里塚農民の涙、怒声、旗、マイクの声、これが私の生活のなかの祭り。
祭りという復古化粉砕、反権力ということがわかっていないんだよなあ。
(中略)
穴を掘らせろ
「加藤登紀子、ナンセンス。知床旅情なんか歌うより地下ごうを掘らせろ。その方が反対闘争にとって意義がある。駒井野団結小屋の地下ごうからドロだらけで出てきた中核派の学生が言った。
「ロックで踊り狂うバカどもに毛沢東語録でも読ませろ。その方がよっぽど反対闘争にとって意義がある」。これは援農でスイカの取り入れをしていたML派学生。
常駐学生は祭りに批判的である。「第二次代執行に向けてなんらの意義がない」(後略)』
警視庁発表で1000名ということだが、実際は数千名の参加者があった。
「幻野祭」ではフリージャズ、ロックの演奏や盆踊りが行われ、ステージ周辺ではゼロ次元によるパフォーマンスや「まつり」を巡る論争も。混とん(カオス)という言葉が一番あてはまる、何でもあり、という「まつり」だった。
成田空港に反対する熾烈な闘いの現実と、この「まつり」を繋ぐものは何だったのだろうか。それは、この「まつり」の当事者である青行のメンバーしかわからない。
初めまして、薮と申します。
ド田舎の高校生でしたが幻野祭に連れてってもらい参加してました。頭脳警察・FTB狙いでしたがFTBは結局そのまま帰ったみたいでした。頭脳警察は最高でした!パンタさんから直接聞いた話ですが終了後、車で移動していたら付けて来る車があったそうです。アチャ〜と思い迎撃の用意をしたら、その車が停まり赤帽子の数人が降りてきて「こっちです」とご案内。気が抜けたって言ってました。そんなこんなで祭とはいってもメチャ緊迫感があったような記憶があります。
開港阻止決戦のまえに、今も北系とは別個な立場で反対運動の現場にいる方から伺ったお話によればシンジさんは、とにかくヒトを集めたかったと。それはお祭り。シンジさん関係のお話はけっこうありますが、すでに運動から離れ遠いところに行ってしまった氏のことですので。昔、現地で挨拶すると笑顔を向けてくれた事は忘れられません。
藪さんへ
幻野祭でお会いしてたかもしれませんね。
ステージ後方でカレーと清涼飲料水を売っていました。
そんなわけでステージは直接見ていませんが、頭脳警察の歌と武田節はよく覚えています。
確かに機動隊が来るとか右翼がくるとかいろんな情報が入り、緊張感はありましたね。
ゼロ次元のパフォーマンスは見ましたか?
新左翼とカウンターカルチャーは切っても切れない関係だと思っていましたが、党派が政治課題を優位におく発想は、日共とさして違いはありませんね。
私の大学で某大手(最近分裂騒動を起こしている)が他セクトやノンセクトを追い出して拠点化を計った際、誰もついてこない「学園祭」で「寅さん」を上映したのは噴飯ものでした。
虎児さんへ
三里塚幻野祭に協力した党派はブント情況派くらいなものでしょうか。党派はカウンターカルチャーが理解できなかったと思います。文化領域は政治領域より果てしなく広いですからね。
yajiumaさん、こんばんは
お返事が遅くなってすみません。『ゼロ次元』という組織?すら知りませんでした。ド田舎の高校生ですんで(^^ゞ後々、その活動の報道はいろんなパンフレットで観ました。みなさん、今頃は御爺さん・御婆さんですね。
秋山ユウトク太子さんは覚えてます。都知事選のときに「保革の谷間に咲く可憐な(?)白百合」みたいなスローガンで出馬されてました。
>党派は
反スタを名乗る党派が、もっともスタ的だっつうのは70〜80年代初期の私らにとって常識でしたもん。ローザ派もそうでした。個別里塚特有の緊迫感がそうさせたのかもしれませんけどね。そだ、この頃から別な戦争が始まっていました。団子な生活で、文化もへったくれもなかったんでしょう。やだ、やだ・・・です。
藪さんへ
>『ゼロ次元』という組織?
2年ほど前に、「ゼロ次元 加藤好弘と60年代」という写真集が出ました。写真集を見て言葉を失いました。
>「保革の谷間に咲く可憐な(?)白百合」みたいなスローガン
そうですね。政治のポップアート化を目指し、1975年の都知事選挙に立候補。1979年にも立候補してますね。スローガンは「保革の谷間に咲く白百合」でした。1975年には立候補16人中、5位に入っていたようです。
秋山祐徳太子の「通俗的芸術論」という本の内容ををこのブログのネタで引用してますが、とんでも面白い本です。
このブログの記事がspiritualbolshevikというブログで紹介されています。
マル共連サイトの関係者のサイトかもしれません。
http://spiritualbolshevik.cocolog-nifty.com/blog/cat12733695/index.html
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