2012年5月25日(金)
三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論 14/14
三浦綾子著『愛 結婚する二人に贈る聖書の言葉 選』(日本聖書協会)より
【妻と夫】
同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫から御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神をおそれるあなたがたの純真な生活を見るからです。あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前ではまことに価値があるのです。その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなだがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。
同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません
ペトロの手紙1 第3章1〜7節
【ここに愛があります】
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神は知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証しています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛するべきです。これが、神から受けた掟です。
イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。
イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
ヨハネの手紙1 第4章7節〜第5章5節
〈引用以上〉
とにもかくにも結婚の最高の指南書は聖書である。幸福な結婚、夫婦円満の秘訣は至ってシンプルである。
「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」(コロサイ3:18、19 新改訳)
イエス・キリストは言われた。「『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マタイ19:5、6 新改訳)
〈完〉
●ネット記事紹介
朝日新聞Travel 愛の旅人 〈ふたり〉へ
自伝「道ありき」三浦綾子と光世
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200707280165.html
作成者
Pastor & Servant Kazunari Kikuchi
三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論 13/14
三浦綾子著『愛 結婚する二人に贈る聖書の言葉 選』(日本聖書協会)より
【愛〜最高の道】
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、愛がなければ無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの俊樹は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られるようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
コリント信徒への手紙1 第12章31節〜第13章13節
【互いに重荷を担う】
互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は人から侮られることはありません。人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に種を蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に種を蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
ガラテヤ信徒への手紙 第6章2〜10節
【互いに仕える】
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるのです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
エフェソ信徒への手紙 第5章21〜33節
〈続く〉
作成者
Pastor & Servant Kazunari Kikuchi
三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論 12/14
三浦綾子著『愛 結婚する二人に贈る聖書の言葉 選』(日本聖書協会)より
新約聖書より
【神が結びあわせてくださった】
イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。
ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦淫の罪を犯すことになる。」弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
マタイによる福音書 第19章1〜12節
【必要なもの】
あなたがたの天の父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。だから、こう祈りなさい。
「天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください。
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。」
マタイによる福音書 第6章8〜13節
【永遠の命を得るために】
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
ヨハネによる福音書 第3章16〜18節
【わたしもあなたを罪に定めない】
イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、ご自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は貫通をしているときに捕まりました。こういう女は石で殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない。」
ヨハネによる福音書 第8章1〜11節
〈続く〉
作成者
Pastor & Servant Kazunari Kikuchi
三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論 11/14
三浦綾子著『愛 結婚する二人に贈る聖書の言葉
選』(日本聖書協会)より
ニネベの悔い改め
主の言葉が再びヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」
ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。
「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」
すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。
「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」
神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。
ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた。
「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
主は言われた。
「お前は怒るが、それは正しいことか。」
そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。
「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
神はヨナに言われた。
「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」
彼は言った。
「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
すると、主はこう言われた。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
ヨナ書 第1章1節〜第4章11節
〈続く〉
作成者
Pastor & Servant Kazunari Kikuchi
三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論 10/14
三浦綾子著『愛 結婚する二人に贈る聖書の言葉 選』(日本聖書協会)より
【そなえてくださる神】
ヨナの逃亡
主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。
「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。
主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。船長はヨナのところに来て言った。
「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」
さて、人々は互いに言った。
「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」
そこで、くじを引くとヨナに当たった。人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言った。
ヨナは彼らに言った。
「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」 人々は非常に恐れ、ヨナに言った。
「なんという事をしたのだ。」
人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。
彼らはヨナに言った。
「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。」
海は荒れる一方だった。ヨナは彼らに言った。
「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」
乗組員は船を漕いで陸に戻そうとしたが、できなかった。海がますます荒れて、襲いかかってきたからである。ついに、彼らは主に向かって叫んだ。
「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」
彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった。人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。
ヨナの救助
さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。
苦難の中で、わたしが叫ぶと
主は答えてくださった。
陰府の底から、助けを求めると
わたしの声を聞いてくださった。
あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。
潮の流れがわたしを巻き込み
波また波がわたしの上を越えて行く。
わたしは思った
あなたの御前から追放されたのだと。
生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。
大水がわたしを襲って喉に達する。
深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。
わたしは山々の基まで、地の底まで沈み
地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。
しかし、わが神、主よ
あなたは命を
滅びの穴から引き上げてくださった。
息絶えようとするとき
わたしは主の御名を唱えた。
わたしの祈りがあなたに届き
聖なる神殿に達した。
偽りの神々に従う者たちが
忠節を捨て去ろうとも
わたしは感謝の声をあげ
いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。
救いは、主にこそある。
主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。
〈続く〉
作成者
Pastor & Servant Kazunari Kikuchi
三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論 9/14
三浦綾子著『愛 結婚する二人に贈る聖書の言葉 選』(日本聖書協会)より
【畏れと信頼】
有能な妻を見いだすのは誰か。
真珠よりはるかに貴い妻を。
夫は心から彼女を信頼している。
儲けに不足することはない。
彼女は生涯の日々
夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。
羊毛と亜麻を求め
手ずから望みどおりのものに仕立てる。
商人の船のように
遠くからパンを運んで来る。
夜の明ける前に起き出して
一族には食べ物を供し
召し使いの女たちには指図を与える。
熟慮して畑を買い
手ずから実らせた儲けでぶどう畑をひらく。
力強く腰に帯し、腕を強くする。
商売が好調かどうか味わい
灯は夜も消えることがない。
手を糸車に伸べ、手のひらに錘をあやつる。
貧しい人には手を開き、乏しい人に手を伸べる。
雪が降っても一族に憂いはない。
一族は皆、衣を重ねているから。
敷物を自分のために織り、麻と紫の衣を着ている。
夫は名を知られた人で
その地の長老らと城門で座に着いている。
彼女は亜麻布を織って売り、帯を商人に渡す。
力と気品をまとい、未来にほほえみかける。
口を開いて知恵の言葉を語り
慈しみの教えをその舌にのせる。
一族の様子によく目を配り
怠惰のパンを食べることはない。
息子らは立って彼女を幸いな人と呼び
夫は彼女をたたえて言う。
「有能な女は多いが
あなたはなお、そのすべてにまさる」と。
あでやかさは欺き、美しさは空しい。
主を畏れる女こそ、たたえられる。
彼女にその手の実りを報いよ。
その業を町の城門でたたえよ。
箴言 第31章10〜31節
〈続く〉
作成者
Pastor & Servant Kazunari Kikuchi
三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論 8/14
※昨日の続き
三浦夫妻の円満の秘訣は聖書のことばにあった。新約聖書のエペソ人への手紙5章には、夫に全面的に従う妻の責任と、妻を献身的に愛する夫の責任が書かれている。綾子さんは、次のように言っている。
「もし私たち夫婦の仲が良いとすれば、エペソ書のみならず、聖書の言葉を曲がりなりにも本気で重んじようとしている姿勢があるためかもしれない。」
最も古い部分で3500年前、最も新しい部分でも2000年前に書かれた世界最大のロングベストセラーの聖書。決して書き換えられることなく、あまたの迫害に耐えつつ、時代、世代、民族、国家を越えて読み継がれ、無数の人々の人生を変えて来た聖書を単なる古典的な宗教書としてではなく、生ける神のことばとして味読してほしい。
以下は三浦綾子著『愛 結婚する二人に贈る聖書の言葉 選』(日本聖書協会)から抜粋(※聖書 新共同訳)。
選者の言葉 三浦綾子
創造主なる神は人間を男性と女性に創られた。
そこに先ず神の深い愛がある。
神は人間が結婚によって命を引き継ぎ、
真に幸せであることを願われた。
その視点から、
このような聖書の妙出をあえて試みてみた。
この一冊が聖書全編にふれる契機となれば幸いである。
旧約聖書より
【もう独りではない】
主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。彼に命を助ける者を創ろう。」
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
「ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。
これこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
創世記 第2章18〜24節
【主の家】
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく、
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても、
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ、
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
詩編 第23編1〜6節
【家を建て守ってくださる】
主御自身が建ててくださるのでなければ
家を建てる人の苦労はむなしい。
主御自身が守ってくださるのでなければ
町を守る人が目ざめているのもむなしい。
詩編 第127編1節
【祝福】
いかに幸いのことか
主を畏れ、主の道に歩む人よ。
あなたの手が労して得たものはすべて
あなたの食べ物となる。
あなたはいかに幸いなことか
いかに恵まれていることか。
妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。
食卓を囲む子らは、オリーブの若木。
見よ、主を恐れる人はこのように祝福される。
詩編 第128編1〜4節
【愛の喜び】
あなたの水の源は祝福されよ。
若いときからの妻に喜びを抱け。
彼女は愛情深い雌鹿、優雅なかもしか。
いつまでもその乳房によって満ち足り
常にその愛に酔うがよい。
わが子よ
どうしてよその女に酔うことがあろう。
異邦の女の棟を抱くことがあろう。
人の歩む道は主の御目の前にある。
その道を主はすべて計らっておられる。
箴言 第5章18〜21節
【花嫁のように】
わたしは主によって喜び楽しみ
わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。
主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
花嫁のように輝きの冠をかぶらせ
花嫁のように宝石で飾ってくださる。
大地が草の芽を萌えいでさせ
園が蒔かれ種を芽生えさせるように
主なる神はすべての民の前で
恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
イザヤ書 第61章10、11節
〈続く〉
作成者
Pastor & Servant Kazunari Kikuchi
2012年5月24日(木)
三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論 7/14
以下も三浦光世・綾子夫妻の夫婦愛あふれる珠玉のことばである。
(綾子)「真の愛というものは、愛するにふさわしいものを愛するのではなく、だれからもかえりみられない価値なきものを愛することなのではないか。わたしのさまざまな恋愛も、体の弱さも、人間的な弱さも、すべてをゆるして受け入れてくれたこの三浦の愛こそ、愛と言えるのではないか。」
(光世)「私たち二人を比較すると、問題にならないほど、綾子のほうが私を敬い、愛し、受け入れてくれた。が、綾子は、自分の過去のすべてを許容してもらったと、心底感謝していたようである。今更ながら、何ともいじらしい。そして妻に対する愛の足りなかった私のあり方が、顧みられて悔やまずにはいられない。」
************
(綾子)「言葉は確かに大切なものだ。しかし人間には、言葉よりも大切なものがあるのだ。それは心である。愛である。」
(光世)「綾子の私に対する言葉は、いつもあたたかかったが、言葉に出さなくても、その態度表情で、私を慰め、楽しませ、励ましてくれたことも実に多かった。」
************
(綾子)「もし、わたしが、家庭とは何かと尋ねられたとしたら、『家庭とは、愛を学ぶ学校である』ということになるであろうか。」
(光世)「この『家庭とは愛を学ぶ学校』という言葉は、綾子の借物ではなかったと思う。愛し合える家庭を常に望みみて、私を愛してくれたような気がする。そして遂に、綾子は落第することがなかった。」
************
(綾子)「やさしさとは、相手の身になって考えると共に、そのやさしさを意志によって持続することにあると思う。意志と知性に支えられないやさしさは、それはいわば、気まぐれであって、真のやさしさではない。」
(光世)「私は結婚生活において、意志的でも、知性的でもなかった。意志も知性も綾子のお株と言えた。そして綾子は真に優しかった。私にのみならず、多くの人に優しかった。だがこのような言葉を残したところを見ると、やはり絶えず意志的であろうと、努力していたものと思われる。」
************
(綾子)「人生は長い。人間は何十年間か生きていくのに、精神的にも、経済的にも、肉体的にも、自分に快適な状態だけがつづくことは、先ずあり得ない。愛するというのは、愛する者を、長い生涯の間に襲うかも知れない荒波を乗り越えさせ、待っているかも知れぬ艱難を克服する力を、不断に養ってやるということではないだろうか。」
(光世)「結婚後も、綾子はいろいろと病気をした。心臓発作、血小板減少症、帯状疱疹、直腸癌、そして難病パーキンソン病。この苦難を、綾子はよく耐えぬいた。その耐える力はどこから得たか。私が養ってやったなどとは、到底いえない。『あなたほどの介護は、ふつう誰にもできませんよ』と言ってくれた人もいるが、顧みて至らなかったことが悔やまれる毎日である。」
************
光世さんと綾子さんが結婚して間もない頃、このようなことがあった。光世さんが大切にしていた背広をクリーニングに出したところ、店員が盗み出し、結局無くなってしまった。店の不誠実な対応に怒る綾子さんに、仕事から帰ってきた光世さんはこう諭した。「綾子、そんなに文句をいうもんじゃないよ。黙って赦してやることだよ」
しかしなおも腹を立てる綾子さんに、光世さんは続けた。「いいかい綾子、赦しということは、相手が過失を犯した時でなければできないことなんだよ。だから赦してあげなさい」
この光世さんのことばに、彼女は改めて赦すということの意味を考えさせられている。そして次のように思った。
「神は何という有難い男性を、私の夫に与えてくださったことだろう。人を赦し、受け入れることは、人間誰しも容易にはできないものである。考えてみると、結婚と言うものも、二人の人間がお互いに全面的に相手を受け入れなければ成り立たないものではないか。すべてを赦し合うのが結婚生活でなければならない」
そして彼女は過去を振り返りながら、次のように続けている。
「三浦はたぶん過去のすべてを受け入れてくれたように、私が今後どのように生きたとしても、それらを赦し、赦すことによって導いてくれるに違いない。結婚とは、赦しあうことなのだ。」
〈※明日へ続く〉
作成者
Pastor & Servant Kazunari Kikuchi
三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論 6/14
〈遠く行こうとする者は馬をいたわる〉 ことわざ
(赤の他人が、五年も十年も、一体どうやって一緒に住んで行くのであろう)
結婚について、私はよくそんなことを考えていた。が、私自身、結婚して十五年になった。「案ずるより生むは易し」ということでもあろうか。
だが、人生いついかなる問題が突発するか、計り知れない。いたわり合わなければ、到底遠くまで行けない。
ところで夫婦の場合、どちらが馬なのであろう。馬車馬のように働かされてとは。よく男共のいうところ。しかし、主婦も主婦で、家の中で牛馬のように働いているともいう。
まあ、どちらが馬かなどいい合うのは馬鹿な話だ。馬鹿な話はよしたほうがいい。俺が馬だ、いやわたしが馬だなどと言い合っているうちに家庭が空中分解することだってある。
要するに、いたわり合うことだ。お互いの重荷を思いやることだ。そうすれば、お互い重い筈の荷も軽くなる。荷が軽くなれば疲労も倦怠も消える。
(光世)
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〈隣りの花は赤い〉 ことわざ
「隣りの芝生はみどりだ」「隣りのものは粥でもうまい」「わが家の米の飯より、隣りの麦飯がうまい」
ということわざと同様、他人のものは、よく見え、珍しい、欲しい、という人の心を言い当てたことわざである。
ある人が、隣りの妻が甚だ好ましく見え、とうとう、自分の妻を捨てて、駆け落ちしてしまった。が、一緒になってみると、前の妻の方が、万事にすぐれている。第一味噌汁の味からちがうと悔やんだがあとの祭りであったという。これも「他の花は赤い」のなせるわざであろう。
これと反対に、他人のものは、すべてつまらなく見え、自分の車、自分の庭、自分の子をことごとに自慢する人もいる。
いずれにしても、公平にものを見ることができないようだ。どこの花であろうと、赤い花は赤く見えるしたしかな目を持って、徒らに心動かすことなく生きたいものである。
(綾子)
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〈妻たる者よ、夫に仕えなさい〉 新約聖書 ペテロ第一の手紙 3の1
夫婦のあり方に対する聖書の教えの一つである。これだけでは何の変哲もないようだが、つづく言葉がいい。
「そうすれば、たとい(神の)み言葉に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、妻の無言の行いによって、救いに入れられるようになるであろう」
くだけていえば、
「奥さんよ、どうにもならぬダンナでも、あなたの行状が大事なんですよ。奥さんのうやうやしい、無言の、清い行いが、ダンナを救うんですよ」
ということだ。清い行い、妻の無言の行い、とていねいに重ねてあるが、ここが大事だ。いくら美人でも、ちょくちょく浮気されては我慢ができないし、いつもガアガアがなり立てられては、弱き夫族、たまったものではない。
「一つのよい態度は、百のすすめにまさる」
といえないだろうか。
(光世)
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〈享楽の対象とされていない女は、愛されている女である〉 ボードレール
あるプレイボーイがわたしに言った。
「ぼくは、今迄、どれほど多くの女と臥たかわからない。しかし、たった一人、握手すらもできない女がいた。心から愛しているのに、ぼくは手も足も出なかった」
こう言った時、彼の目には涙さえ光っていた。
大方の女性は男性をよく理解していない。握手されると、もう愛されていると思い、接吻されると、その愛は確実なものと信じ、体を求められると、その愛を絶対的なものとして疑わない。
愛することと、享楽することとは、全く別のことだ。たやすく自分の体に触れてくる男性は、自分を単になぐさみの対象としているのだと思った方がかしこい。
なぐさみの対象、享楽の対象にされて、怒らぬ女を、男は内心軽蔑している。女は男のなぐさみものではない。その誇りを近頃の女は、自分から捨てているような気がしてならない。
(綾子)
〈続く〉
作成者
Pastor & Servant Kazunari Kikuchi
三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論 5/14
以下は名言、格言をまじえた三浦光世・綾子夫妻の結婚観・夫婦論にまつわるショート・エッセイ。
〈亭主関白の位〉 ことわざ
私たち夫婦を、人さまは、多分に妻が天下をとっているように見て下さる。が、妻の名誉のために弁明しておく。弁明するといったのは、カカア天下ということを、一般に余りほめた意味に用いないからである。
私は内気である。人さまにはっきりものがいえない。が、家の中では大そう勇ましいことを並べ立てる。相手が妻一人、お山の大将にもならないのだが、エバっている(権威がないので、威張るとはいえない。落語式にエバるとしかいえないのだ)。いわゆる内弁慶という奴である。
妻は物事を恐ろしくはっきりいう。どなたさまにもほとんど同じ調子である。だから人さまは、三浦の家はカカア天下だなと思うらしいのである。しかし私の妻は、菓子一つ食べるにも、私の許可なくしては食べ得ない。これは、わが家を訪ねて目撃なさった方もあろう。
ところで、関白さまと天下さまは、一体どちらが偉いのであろう。何れにせよ、この言葉、夫婦をタテの関係で見ているところから出て来た言葉ではないだろうか。
(光世)
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〈自が妻こそ常珍しき〉
万葉の、
「難波人(なにわびと)葦火(あしび)焚(た)く屋の煤(くす)してあれど自(おの)が妻こそ常珍しき」
の下句である。煤けた家、粗末な家に住んではいるが、その中にあって自分の妻の何と常に新鮮なことであろうと歌った、この歌人のみずみずしい豊かな愛に、わたしは感動する。
わたしは少女時代に、
「妻以外の女性は、男にとって、削り立ての鉛筆のように新鮮に見えるものだ」
という言葉を読んで、結婚生活への夢を失った一時期があった。
全くの話、職場の女性やバーの女性たちは新鮮だが、古女房は「家財道具」程にしか感じていない男も少なくないらしい。
わが夫、光世は結婚十五年のわたしに「帽子の冠り方がめんこい」「肩のあたりがめんこい」などと日に十回以上は「めんこい」と言ってくれる。妻の些細なしぐさに目をとめて珍しがってくれることこそ「愛(め)ずる」ことではあるまいか。「自が妻」を「夫」と変えて女性のわたしたちも考えてみたい言葉である。
(綾子)
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〈結婚は誤解によって成立する〉 オスカー・ワイルド(作家・イギリス)
(この女なら、自分をやさしくつつみ、且つ励ましてくれるだろう)
(男らしい人だわ。この人なら、わたしを幸せにしてくれるにちがいない)
お互いにそう思えばこそ、結婚する気にもなる。ところが、やさしいと思った相手は、愚痴っぽいだけの女であったり、男らしいと思った相手は、ワンマンで、妻を殴りつける男であったりということだってある。
「結婚前の彼は、結婚後の彼ではない」
という言葉もある。
恋とは、誤解することなのかも知れない。
どうしても、この人と結婚するのだと、大騒ぎして結婚し、その後一年も経たずに離婚するケースは珍しくない。
結婚する相手は、自分を過大に評価しているのだとお互いに気づけば、人は謙遜になるかも知れない。謙遜から出発するならば、結婚生活において、お互いによさを、もっとお互いに発見し、育てあうことになるのではないだろうか。
(綾子)
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〈夫婦は従兄弟ほど似る〉 ことわざ
似た者夫婦ともいうが、結婚して一つの家に長くいると、お互い感化されるのは必然であろう。
ところで、私は内気であからさまに戒めることができず、妻に対しても、もそもそと戒める。などと書いたところ、
「そうでもないわよ。あなただって、相当のものよ。ずいぶんはっきりいうじゃない」
と、早速妻にもの言いをつけられた。いや、もの言いではない。これもあからさまな戒めだ。いわれてみれば思い当たるふしもある。常々、妻のやること、なすことに、手きびしいご託を並べている。
考えてみると、私がいくらかでもものをはっきり言えるようになったのは、多分に妻のおかげである。妻はよく、私の短歌をみて、
「つまらん」
の一言をもって評し去る。みもふたもないようだが、これが薬だ。おかげで、僅かながら歌といえるものもできた。
要するに夫婦は感化し合い、注意し合うための存在かも知れない。
(光世)
〈続く〉
作成者
Pastor & Servant Kazunari Kikuchi
三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論 4/14
『愛すること信ずること』(三浦綾子著)
この文庫本の帯には「結婚するあなたへ」とあり、三浦夫妻の夫婦論をまとめた代表作である。理想の夫婦像をその生き方を通して私達に示した三浦夫妻の「すばらしい結婚生活の秘訣」がこの書には余す所なく書き記されている。その秘訣の中で最も大切なものは、「互いにほめ合う」ということだ。また、三浦綾子さんは「互いに責め合わない」ことを提案している。ある章のタイトルで「家庭は裁判所ではない」とあるが、このタイトルは多くの家庭が抱えている問題を見事に言い表している。家庭は相手を断罪する所ではなく、相手を赦し、生かす所であることを三浦綾子さんははっきりと教えている。
これと関連することとして、相手をけなさないことも語られている。「鳴らずのバイオリン」という章があるが、そこでは何かをできる人が結婚相手にけなされることによって何もできなくなってしまうことがわかりやすく表現されている。光世さんは綾子さんに「綾子は鳴らないバイオリンをも鳴らすほうだよ」と言ってくれたという。
そして、三浦綾子さんは「共通の目的を持つ」ことの重要性も述べている。「性生活のない夫婦の愛情」という章で、三浦綾子さんは3組の夫婦を挙げ、性生活が持てないような状況下でも共通の目的を持ち、愛し合い続けた夫婦がいたことを証ししている。「忘れえぬ夜」という章では三浦夫妻がクリスマスの夜トラクト配布をする姿が描かれているが、ここに共通の目的を持って生きておられる理想の夫婦像をはっきりと見ることができる。
以下は『愛すること信ずること』からの抜粋
〈夫の歌を聞く〉――結婚して以来、わたしは心の底ででも、夫を軽べつしたことは一度もない。むしろ、わたしの口は「ハッキリ」とものを言うために、「ハッキリ」とほめてきたかもしれない。「うちにはテレビがないけれど、三浦が、歌が上手なものですから、テレビなどいらないんですよ」などと、ぬけぬけとわたしは言う。そして、三浦がうたってくれると、ウットリと三浦の顔を眺め、悲しい歌は涙を流して聞いてしまう。人から見ると、いい年をして馬鹿な女と笑われるかもしれない。だが、夫の歌がこの上なく楽しいことは、べつだん他人様の迷惑にはなるまい。夫婦なんて、それでいいんじゃないかと思う。聖書にも、人のことをあれこれ言うなと書いてある。「さばくな」と。
「私は結婚以来、私の母や兄弟達に、三浦の悪口を言ったことは一度もない。むろん他人様にもいわない。夫婦というものは、親や兄弟に対するよりも、はるかに赤裸々な姿を、遠慮なくさらけ出し合っている。人間である以上、むろん欠点もあるし、気になる癖もある。だが、それは妻の前、夫の前だからこそ、見せることの出来る欠点であり、癖ではないだろうか。それを、まるで録音録画放送のように、「うちはこうなのよ、ああなのよ」と、他人様にさらされては、とても安心して共に住めないのではないか。夫婦がお互いの悪口を言うのは、大いなる裏切り行為だと、私は頑固に信じ込んでいる。私のように、半町も離れていない銭湯に行く夫に、いつまでも手を振って見送るなどというのは、少しく度が過ぎて神経衰弱の気味があるが(略)」
「とにかく、よい人生を送るには、よい伴侶が必要だ。よい結婚とは、よい相手を得ることだ。よい相手を得るには、独身時代の生き方が問題になる。自分が流行を追って、同性と美を争っているときに目の前に現れた男性などは、あまり信用のできる相手ではない。人生とは他との戦いではなく、自分自身のなかにうごめく、わがまま、怠惰、勝ち気、冷淡、さまざまのよからぬ欲望などとの戦いであると知ったとき、わたしたちの生活内容はたしかに変わる。そして、自分が変わったときには、いつの間にか自分のその生き方を育ててくれる男性が現れるものだ。ウソではない。わたし自身が変わったとき、三十を半ばも過ぎた寝たっきりのわたしにさえ、そんな男性がいく人も現れたのだから。」
「真の愛というものは、愛するにふさわしいものを愛するのではなく、だれからもかえりみられない価値なきものを愛することなのではないか。」
「結婚適齢期なんて、だれがつくった言葉なのだろう。人間はケモノじゃないのだ。よい相手に遭ったときが、その人の結婚のときなのだ。人間は何歳になっても結婚適齢期なのだと、わたしは言ってあげたい気がしてならない。」
〈引用以上〉
●その他の結婚/家庭生活をテーマにした三浦夫妻の推薦図書
三浦綾子著 『この土の器をも―道ありき第二部 結婚編―』
三浦綾子著 『新しき鍵―結婚について考える』
三浦綾子著 『三浦綾子愛の歌集 いとしい時間』
三浦綾子編 『三浦綾子対話集ー夫と妻と』
三浦光世著 『綾子へ』
三浦光世著 『妻三浦綾子と生きた四十年』
〈続く〉
作成者
Pastor & Servant Kazunari Kikuchi
三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論 3/14
私はここに、理想とする一つの家庭を紹介したい。七十歳近いこの夫妻に子どもはいない。氏は温厚で愛の深い方である。結婚の当初から収入の2割は社会のため人のために使うという生き方をしてこられた。夫人もまた明朗で気さくな方である。夫人も氏の生き方に共鳴された。
このような夫妻を慕って、若い人たちがこの家を間断なく訪れる。その中には、氏の家に寄食し、大学を出させてもらった者もいた。結婚以来、夫妻が大学を出してあげた数はいったい何人にのぼるであろう。
氏のお宅は広い、年の暮から正月にかけて、世話をしてあげた人たちが子どもを連れて泊まりに来るので、広いのだという。いくら家が広くても、心が狭くては何にもならないのだが、私は氏のお宅を訪ねた時、これは何とすばらしい夫婦であり、家庭だろうと賛嘆した。
夫婦の生きる姿勢が同じであり、一つの使命感を持った時の重みを、私は改めて感じさせられたのである。ここでは、夫婦がお互いを愛し合おうという姿勢から一歩進み、スクラムを組んで他を愛そうとする力強い姿がある。
何のために結婚するのかという問いに対する答えが、確かにあるのを見出すことができる。使命感を持って仕えようとする夫婦の生活の中にこそ、結婚に対する疑問を解く鍵がかくされていると、私は確信するものである。
聖書の有名な愛の章(コリント人への第一の手紙13章)には次のように書いてある。
「愛は寛容であり、愛は親切です。人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」
自分の愛の深さをテストするには、この章を読んでみることである。「愛は」というところに「私は」という言葉をあてはめて読んでみるといい。愛するとは、いかに大変なことかがよくわかる。ここにはもはや、「好き」などという変わりやすい感情とはまったく違った世界がある。
愛は「もったいない」とは言わない。愛する者は、相手のために費やす時間を、もったいないとは感じない。
〈続く〉
作成者
Pastor & Servant Kazunari Kikuchi
三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論 2/14
私たち夫婦が婚約した時、司式をしてくれた牧師が「夫婦とは、結婚したからといって、その翌日から夫婦になったのではない。一生かけて夫婦になるのである」と言われた。つまり、一生かけて、愛することを学んでいくのが夫婦の生活なのだ。
結婚生活とは、将棋の駒を重ねる遊びに似ていると思うことがある。あの遊びは、一枚一枚、慎重に重ねていかないと、すぐにぐらついて、崩れ落ちてしまうのだ。一枚でも、いい加減な気持ちで重ねてはならないのだ。
同じように結婚生活も、毎日毎日を手を抜かずに生きていくことでなければならないと思う。夫の浮気や病気、あるいは失職、破産などと波乱の多い人もあろうし、毎日が眠気を催すほど平坦な送り迎えをしている人もあろう。
しかし、どちらも毎日毎日を積み重ねて生きていくということでは同じなのだ。同じように慎重でなければならないのだ。
「夫にはキリストのごとく仕えよ」と聖書にも書いてある。本心から、夫をキリストのごとく思えないまでも、尊敬の念を持ち続ける限り、夫は自然変わっていくはずなのだ。それは私が言うのではなく、多くの体験者の言葉なのだ。
妻だけが忍従せよと言っているのではない。自分で選んだ夫なのだ。たとえ周囲にすすめられて結婚したにせよ、結婚の決断をしたのは自分なのだ。「誰が選んだのでもない、自分が選んだ道なのだ」という自主性と気概を持って、自分の結婚生活に立ち向かいたい。
「三浦さんたちご夫妻は、信仰も同じだから仲良くやっていけるでしょうが、私たちはそうはいきません。どうしたらよろしいでしょう」という声が出た。実のところ、私は夫婦円満の術など何も知らない。結婚の相手が三浦だったから、曲がりなりにも結婚八年を迎えることができるわけだ。
私は思いあまって、こう答えた。「牧師であり医師である相見三郎先生が、こう説いておられます。聖書に、夫には主(神)に仕えるように仕えなさい、と書いてある。だから、どんな夫にでも、主に仕えるように仕えなさい。あんな悪い夫には、主のように仕えられないなどと言ってはならない。
いい夫だけに仕えなさいとは書いていない。それで、もし自分の夫が泥棒で、そこに見張りをしておれと言ったら、黙って見張りをしなさい。それを賢そうに、泥棒など悪いことだからやめなさいなどと言うと、それは主に仕えるように仕えていないことになる。
そう、相見先生はおっしゃいます。ずいぶんひどいことを言うと思うかもしれません。でも、この先生のお話を聞いて、そのように心がけた奥さん方がみんな、夫婦関係がよくなったという体験をぞくぞくと発表しています」
これは聖書の中の基本的な人間観なのである。このことを、聖書には「裁いてはいけない」という言葉で書いてある。裁くとは、つまり他の人を悪い奴だと思うことである。「人を悪いと思うそのことが悪いのだ」相見先生はそうおっしゃっている。
身近な人のアラはすぐに目につく。すると、すぐにそれを言い立てる。このことが、実はけっしていい結果とはならない。なかなか難しいことだが、夫や姑には「主のごとく仕える」という一手よりないのではないだろうか。主のごとく仕えるとは、まず相手を尊敬することである。
人間関係は、鏡に自分の姿を映すようなものだから、「バカヤロ」と目をむけば、鏡の中の像もまた「バカヤロ」と目をむくのではないだろうか。反対に、尊敬をこめたまなざしでうやうやしくお辞儀をすると、相手もまたそのようにするのではないだろうか。
次のようなお便りがあった。「夫とはこのまま別れるより仕方のないところまで、お互いの気持ちが冷えていました。あなたのお話を聞いて感ずるところがありました。たとえ泥棒の夫でも、見張りをしろと言われればそのようにしなさいという言葉を実行しました。
するとどうでしょう。夫は次第に元の夫に返り、私たちの危機を乗り越えることができました」。この手紙に、私は驚いてしまった。あんな夫、こんな夫と不足に思う前に、なすべきことがあるのだということを、私はあらためて思い知らされたのである。
〈続く〉
作成者
Pastor & Servant Kazunari Kikuchi
三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論 1/14
タイトルそのままズバリの内容を本日、明日と二日間にわたってお届けする。意義ある健全な結婚観、愛に満ちた揺るがない夫婦の絆を築くために未婚者にも既婚者にもぜひ読んでもらいたい。後悔したくないあなたにも、すでに後悔してしまっているあなたにも・・・。
●三浦綾子(みうら あやこ、1922年4月25日 - 1999年10月12日)は、日本の女性作家、小説家、エッセイスト。
北海道旭川市出身。旧姓堀田。
結核の闘病中に洗礼を受けた後、創作に専念する。
故郷である北海道旭川市に三浦綾子記念文学館がある。
経歴
1922年4月25日(大正11年)に堀田鉄治とキサの第五子として北海道旭川市に生まれる。両親と九人兄弟姉妹と共に生活した。1935年に妹の陽子が夭逝する。1939年、旭川市立高等女学校(現・旭川市立北都中学校・立地)卒業。その後7年間小学校教員を勤めたが、終戦によりそれまでの国家のあり方や、自らも関わった軍国主義教育に疑問を抱き、1946年に退職。この頃肺結核を発病する。1948年、北大医学部を結核で休学中の幼なじみ、前川正に再会し、文通を開始。前川は敬虔なクリスチャンであり、三浦に多大な影響を与えた。1952年に結核の闘病中に小野村林蔵牧師より洗礼を受ける。1954年、前川死去。1959年に旭川営林局勤務の三浦光世と結婚。光世は後に、綾子の創作の口述筆記に専念する。1961年、『主婦の友』募集の第1回「婦人の書いた実話」に「林田律子」名義で『太陽は再び没せず』を投稿し入選。翌年、『主婦の友』新年号に「愛の記録」入選作として掲載される。1963年、朝日新聞社による大阪本社創刊85年・東京本社75周年記念の1000万円(当時の1000万円は莫大な金額であった)懸賞小説公募に、小説『氷点』を投稿。これに入選し、1964年12月より朝日新聞朝刊に『氷点』の連載を開始する。この『氷点』は、1966年に朝日新聞社より出版され、71万部の売り上げを記録。大ベストセラーとなり、1966年には映画化された(監督:山本薩夫、出演:若尾文子)。 また数度にわたりラジオドラマ・テレビドラマ化されている。 ちなみに、日本テレビ系番組『笑点』は、このころベストセラーであった『氷点』から題名を取ったと言われる。
結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病など度重なる病魔に苦しみながら、クリスチャン(プロテスタント)としての信仰に根ざした著作を次々と発表。クリスチャン作家、音楽家の多くが彼女の影響を受けている。
●三浦光世(みうら みつよ、1924年4月4日 - )は東京都出身の歌人。元旭川営林署勤務。作家・三浦綾子の夫であり、財団法人三浦綾子記念文化財団理事長。歌誌「アララギ」同人。趣味は将棋。アマ六段。2006年より社団法人北海道将棋連盟理事長を務める。
人物
3歳の時に、家族と北海道に移住。
1959年に堀田綾子(後の作家になる三浦綾子)と結婚。
1966年に旭川営林署を退職。
〈以上ウィキペディアより〉
以下に三浦光世・綾子夫妻の言葉を紹介する。
「二人は一人にまさる」。きょう読んだ聖書にあった言葉だ。「二人は一人にまさるか、ほんとだなあ綾子」。「ほんとだわねえ」
神様、わたしのような者に、三浦のようなすばらしい夫をお与えくださいまして、ありがとうございます。どうか恵みに馴れないようにお導きください。
「わたしは、キリストを信じたことと、三浦と結婚したことだけは一度も後悔したことがない。終わりの日迄、キリストに一切を委ねて、生きて行きたいとねがっている。」(三浦綾子)
〈続く〉
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Pastor & Servant Kazunari Kikuchi
2012年5月4日(金)
憲法記念日に日本国憲法の源流を辿りつつ信教の自由、政教分離、憲法改正をクリスチャンが考える 13/13
※昨日の続き
最後に内村鑑三の言葉をもって締めくくりたい。これは日本の教会の大勢が賛成した日露戦争について、非戦を主張した彼の『死魚の類』という文である。
「言いわりいわく、『生ける魚は水流に逆らいて泳ぎ、死せる魚は水流とともに流る』。かつて一回も世に逆らいしことなく、常にその潮流にしたがい往来するわが国今日のキリスト信者は死せる魚の類にあらずして何ぞや。」
魚は、初期のキリスト教徒が迫害下にあって隠れシンボルとして用いた。ギリシャ語で魚を意味する「イクスゥス(イクソス)」は、「イエス」「キリスト」「神の子」「救い主」の頭文字の綴り合わせとして信仰告白をなしていた。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
するとイエスは、彼に答えて言われた、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
(マタイ16:15−18)
キリストの教会はこの信仰告白の上に建てられる。この信仰告白に基づかない教会はもはや本物のキリストの教会ではない。この信仰告白に基づかない個人も名ばかりのクリスチャンである。
これからの時代、クリスチャンはますますこの世では生きづらくなる(2テモテ3:1−12参照)。
イエスは言われた。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:11−16)
「良い行ない」とは何であるのか、クリスチャンはよく考えよう。特に迫害下における良い行ないとは何であろうか? どうやったら、何をしたら父なる神に最大限の栄光を帰すことができるのか、考えて行動しよう。
「良い憲法を作ることはまことに容易なことである。しかしこれを行うことは非常に難しい。」(憲政の神様」「議会政治の父」こと、クリスチャンの尾崎行雄)
憲法は改正も改悪もされる。なぜなら、憲法は絶対的でも、普遍的でも、恒久的でもないからだ。しかし、神のことばである聖書は、時代を越えて、民族を越えて、国家を越えて不変である。真理とはそういうものだ。
「主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:7、8)
神のことばは、いわば神の国(天国)の憲法である。聖書に従って歩む時、地上にいながらまるで天国のような生活を送ることができる。これによって永遠に価値あるもののために生きることができる。水を得た魚のようにこの世にはない幸福感、充足感に満たされ、生き生きとして死をも恐れるなくなる。あなたはそういうクリスチャンになりたいか?
〈完〉
憲法についてもっと詳しく知りたい方のために
推薦ブログ記事
●『小海キリスト教会牧師所感』
憲法の記事一覧
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/archive?word=*%5B%B7%FB%CB%A1%5D
作成者
Pastor & Servant Kazunari Kikuchi