2010年10月31日(日)
宗教改革記念日に九十五カ条の論題を紹介 ルター・ツヴィングリ・カルヴァンの信仰告白 9/9
ルターの「九十五か条の論題」全文掲載続き
89 「教皇が贖宥によっては、金よりもむしろ魂の救いを求めていることからすれば、彼は、すでに以前に与えられた文書と贖宥とを、それらが現在同じように有効であるのに、なぜ停止させるのか」。
90 以上のような信徒のもっとも細心の議論を、力だけでおさえたり、理由をあげて解かなかったりすることは、教会と教皇とを敵の嘲笑にさらし、キリスト者を不幸にすることである。
91 したがって、もし贖宥が教皇の精神と意図に従って説教されるとすれば、これらすべてのことは容易に解消するであろう、否存在することもないだろう。
91 だから、キリストの民に「平安、平安」〔エレミヤ6:14、エゼキエル13:10、16〕という、かのすべての預言者たちは立ち去るがよい――そこに平和はない。
*エレ6:14 彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。
*エゼ13:10 実に、彼らは、平安がないのに『平安。』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう。13:16 エルサレムについて預言し、平安がないのに平安の幻を見ていたイスラエルの預言者どもよ。――神である主の御告げ。――。
93 キリストの民に「十字架、十字架」という、かのすべての預言者たちは、さいわいである――そこに十字架はない。
94 キリスト者はその首(かしら)であるキリストに、罰、死、地獄を通して、従うことに励むように、勧められねばたらない。
95 そしてキリスト者は平安の保証によるよりも、むしろ多くの苦しみによって、天国にはいることを信じなければならない〔使徒14:22〕。
*使14:22 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。
1517年
<引用以上>
少々難解な文章もあったかもしれないが、贖宥状(免罪符)の販売が宗教改革の導火線となったことは読み取れたであろう。
宗教改革の直接的原因には、ローマ・カトリック教会の道徳的腐敗があった。聖職位は自由に売買され、祭司たちは不道徳の罪を犯し、妾を持ち金で近親結婚の特免を得、礼拝はミサをとなえるだけの形式的な魔法の儀式に成り下がっていった。そして、16世紀のはじめ教皇レオ10世はサン・ピエトロ大聖堂(カトリックの総本山)の建築資金の調達のため、また、マインツ大監督の職位を教皇から金で譲渡してほしいと願っていたドイツのアルベルトウス公の思惑と結びつき、贖宥状というものがドイツで売り出された。
当時、教会は人間の救いについて罪を悔い改め、告白し、「罪の償いをすれば救われる」と聖書に反する教えを説いていた。しかも永遠の刑罰から神の赦しを得るためには、煉獄での現世的な償いがあると考えられていたことは既述のとおり。贖宥状は、その点に目を付け、これが教会の金集めに悪用された。
販売人は、「お金がチャリンと箱に投げ入れられる音とともに、友人の霊はすぐに煉獄から天国へ救われる」と説き、贖宥状を買った者は罪の悔い改めも要らず、罪は完全に赦されると触れ回った。
こうした腐敗を憤りを覚えて立ち上がった信仰の勇者がルター、ツヴィングリ、カルヴァンといった偉大な宗教改革者たちであった。
しかし、それから約500年、プロテスタントもまた中世のカトリック同様世俗化し、宗教改革を必要とするようになってしまった。牧師職(通信教育等により)や宗教法人格がお金で売買され、チャペル結婚式等で私腹を肥やす者、献金すれば祝福される、病気が癒されるといった「繁栄の福音」と呼ばれる「イエス・キリストの救い」以外の救いが説かれ、牧師は権威をかさに信仰の虐待やパワハラ、セクハラを行なう。なんという腐敗であろうか。
私はここで今日のプロテスタント教会における問題を九十五か条もあげてネット上に反駁文を掲げるつもりはないが、各人が本当に宗教改革の三大原理「聖書のみ(聖書の権威)、信仰義認(神の恵みによる救い)、万人祭司(すべてのクリスチャンは祭司)」に立っているかどうか再吟味するよう促したい。相手が誰であろうと、たとえ自分ひとりでも、聖書から逸脱した教理や伝統に対しては看護することも妥協することもなく、常にプロテスタント(抗議する)精神をもって聖書に立ち返ることを訴えなければならない。
そして、最後に是非覚えてもらいたいことは、ルター、ツヴィングリ、カルヴァンらは宗教改革を敢行する前に、みなイエス・キリストによる心の宗教改革を経験していることだ。あなたの汚れきった、腐りきった心を改革できるのは、イエス・キリストだけである。
<完>
※贖宥状の販売の様子
※「イエス・キリストの救い」短編シリーズはまだまだ続く
宗教改革記念日に九十五カ条の論題を紹介 ルター・ツヴィングリ・カルヴァンの信仰告白 8/9
ルターの「九十五か条の論題」全文掲載続き
71 使徒的贖宥の真理に反して語るものには、アナテマと呪いとあれ。
*「アナテマ」:ギリシャ語で「滅ぼす」「聖絶」の意。カトリックでは「破門」を意味する専門用語。
72 しかし、贖宥の説教者のことばの欲と放恣(ほうし)とに対して真に心するものには、祝福あれ。
*「放恣」:勝手気ままで、だらしがない様子。
73 どのような方法であれ、策謀して贖宥の売買に害を加えようとする者たちを、教皇が雷で打つのが正当であるのと同様に。
74 それより更に教皇は、策謀して贖宥を口実として聖なる愛と真理とに害を加えようとする者たちを、雷で打とうと意図するのである。
75 たといだれかが、不可能なことではあるが、神の母を犯したとしても、教皇の贖宥がその人間を解放しうるほどに大きいと考えるのは、狂っているのである。
75 たといだれかが、不可能なことではあるが、神の母を犯したとしても、教皇の贖宥がその人間を解放しうるほどに大きいと考えるのは、狂っているのである。
76 これに反して私たちは、教皇の贖宥は、小罪(venialia peccata)のうちのもっとも小さいものでも、罪責に関するかぎりでは、これを除去することができないと言うのである。
77 もし聖ペテロが今教皇であったとしても、彼はそれより大きい恵みを与えることができないと言うことは、聖ペテロと教皇にたいする冒瀆である。
78 これに反して私たちは、現教皇も、またどの教皇も贖宥より大きいもの、すなわち第一コリント12章〔28節〕にあるように、福音、諸力、いやしの恵みなどをもっていると言うのである。
*1コリ12:28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。
79 教皇の紋章をつけて目だつように立てられた十字架が、キリストの十字架と同じであると言うのは、冒瀆である。
80 このような説教が人々に行きわたることを許している司教、主任司祭、神学者たちは、釈明しなければならないだろう。
81 贖宥についてのこのような気ままな説教は、信徒のとがめだてや、あるいは、言うまでもなく鋭い質問から教皇への敬意を救ってやることが、博学の人たちにさえ容易でないようにしている。
82 すなわち、「もし教皇が、大聖堂建設のためのもっとも汚れた金、すなわち、もっともいやしい理由によって無数の魂を願うとすれば、なぜ教皇はもっとも聖なる愛や魂が最大に必要とするもの、すなわち、すべてのうちでもっとも正しい理由によって煉獄をからにしないのであろうか」。
83 また、「贖われ者のために祈ることはすでに不正であるのに、なぜ死者のための葬式や記念がいつまでも続くのであろうか。また、なぜ教皇は死者のために献げられた献財を返さなかったり、回収することを許さなかったりするのであろうか」。
84 また、「不敬虔な者、敵対するものには、金を出せば敬虔で神の愛する魂を買うことを認めながら、敬虔で愛される魂自身の必要のためであるなら、これを無償の愛によって贖うことをしないような神と教皇との新しい敬虔とは何であろうか」。
85 また、「事実そのもの、また使用しなかったことからも、すでに長い間、それ自体廃棄され、死物となっていた悔俊の教会法規が今になっても、贖宥の認可のため、金でもって――あたかも今がもっとも強力であるかのように――うけ出されているのはなぜであるか」。
86 また、「もっとも富めるクラスよりも、今日では豊かな財をもつ教皇が、なぜ貧しい信者の金よりむしろ自分の金で、この聖ペテロ大聖堂を一つ建てないのか」。
87 また、「まったき痛悔によって完全赦免と《恵みに》あずかる権利を十分にもつ者にたいして、教皇は何を赦免し、何をわかち与えるのであろうか」。
88 また、「教皇はいま一回だけしているが、もし一日百回どの信者にもこれらの赦免と伝達を与えるなら、それよりも大きなよいことが教会に加えられるであろうか」。
<続く>
※贖宥状の売り上げで建てた贅をきわめたサン・ピエトロ大聖堂の内部。息を呑む装飾はみな黒い金によって仕上げられた。人の恐れにつけこんだ詐欺師の稼ぎが世界遺産を生み出した。それはまさに人間の罪の遺産である。
ローマ教皇は使徒ペテロの後継者として今でも絶対的権威を振るっているが、天国にいる当のペテロはどう思っているだろうか?
「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(汽撻謄1:18、19)
宗教改革記念日に九十五か条の論題を紹介 ルター・ツヴィングリ・カルヴァンの信仰告白 7/9
ルターの「九十五か条の論題」前文掲載の続き
46 人があり余るほどに豊かでないかぎり、必要なものは自分の家にとどめておかねばならず、決して贖宥のために浪費してはならないのだと、キリスト者は教えられねばならない。
47 贖宥を買うのは自由であって、命ぜられたことでないのだとキリスト者は教えられねばならない。
48 贖宥を与える場合、教皇は用意されている金銭以上に、自分のために熱心な祈りを、より求め、より望んでいるということを、キリスト者は教えられねばならない。
49 教皇の贖宥は、もし人々がこれに信頼しないのであれば有益であるが、これによって神への恐れを捨てるのであればもっとも有害であることを、キリスト者は教えられねばならない。
50 もし教皇が贖宥説教者たちのする取り立てを知っていたなら、彼は聖ペテロ聖堂が自分の羊たちの皮、肉、骨で建てられるよりむしろ、灰と消えることを選ぶということを、キリスト者は教えられねばならない。
51 教皇は(もし必要ならば)聖ペテロ聖堂を売ってまでも、あの人々に――その大多数のものから、贖宥の扇動家たちが金銭をまき上げているのであるが――自分の金のうちから与えるべきであるし、またそのように欲しているということを、キリスト者は教えられねばならない。
52 たとい委任されたものが、否、教皇自身が自分の魂をかけてそれを保証しても、贖宥の文書による救いを信頼するのはむなしいことである。
53 贖宥を説教するために、他の諸教会では神の御言がまったく沈黙するように命ずる人たちは、キリストの敵、教皇の敵である。
54 同一説教の中で、贖宥にたいして神の御言と同等、あるいは、それ以上の時問が費されるとすれば、それは神の御言にたいして不正となるのである。
55 贖宥が(それは最小のものである)一つの鐘、一つの行列、一つの儀式で行なわれるのであれば、福音は(それは最大のものである)百の鐘、百の行列、百の儀式をもって説教されねばならないというのが、必ずや教皇の考えるところである。
56 教会の宝から教皇は贖宥を与えているのであるが、それはキリストの民には十分に述べられてもいないし、また知られてもいない。
57 説教者の多くがこの宝をそうたやすく放出しないで、ただ集めることだけをしているという理由からは、確かに宝がこの世のものでないことは明らかである。
58 また、それらの宝はキリストと聖徒たちの功績でもない。なぜなら、これらの功績は常に、教皇なくしても内なる人には恵みを、また、外なる人には十字架、死、陰府を与える働きをするからである。
59 聖ラウレンティウスは、教会の宝は教会の貧者たちであると語っているが、彼はその時代の語法にしたがって言ったのである。
60 私たちは、(キリストの功績によって与えられた)教会の鍵が教会の宝あると言うが、無思慮に言っているのではない。
61 なぜなら、罰と《教皇の》留保事項との赦免については、ただ教皇の権能だけで十分であることが明らかだからである。
62 教会の真の宝は、神の栄光と恵みとのもっとも聖なる福音である。
63 しかし、この宝は、第一の者を最後の者とするので〔マタイ20:16〕、当然もっとも憎まれるものである。
*マタ20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。
64 他方、贖宥の宝は、最後の者を第一の者とするので、当然もっとも喜ばれるものである。
65 したがって、福音の宝は網である――かつてはこれで富める人々をすなどったのである。
66 贖宥の宝は綱である――今ではこれで人々の富をすなどっているのである。
67 説教者たちが大声で最大の恵みだと呼びたてている贖宥は、利得を増大させるかぎりにおいて、真に最大の恵みだと解される。
68 しかし、それら《贖宥》は神の恵みと十字架の敬虔とに比較すると、実際もっとも小さいものである。
69 司教や主任司祭たちは、使徒的贖宥を委任されている者たちを敬意をつくして認める義務がある。
70 しかし、彼らは目をみひらき、耳をそばだててこれら委任されている者たちが教皇の委任の代わりに、自分たちの夢を説教することがないように注意する義務がもっともっとある。
<続く>
※贖宥状の利益で建てたサン・ピエトロ大聖堂(バチカンのカトリック総本山)の外観。
カトリック教会の伝承によれば、サン・ピエトロ(聖ペテロ)大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所があったところに建立されたとされ、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。床面積2万3,000m²。北に隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などがあり、国全体が『バチカン市国』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
宗教改革記念日に九十五か条の論題を紹介 ルター・ツヴィングリ・カルヴァンの信仰告白 6/9
ルターの「九十五か条の論題」前文掲載の続き
21 したがって、教皇の贖宥(しょくゆう)によって、人間はすべての罰から放免され、救われると述べるあの贖宥説教者たちは誤っている。
22 否むしろ、教皇は、煉獄にある、魂が、この生において教会法にのっとって課しておかねばならなかったような罰を、煉獄にある魂にたいして赦免することはない。
23 とにかく、もしすべての罰の赦免がだれかに与えられうるとするならば、それはもっとも完全な人にだけ、すなわち、ごく僅少な人にだけ与えられることは確かである。
24 このことから必然的に、大郁分の人は罰の免除についてのあのけじめなく、壮麗な約束によって欺かれていることになる。
25 教皇が一般的に煉獄にもっている権限と同じ権限を、どの司教も主任司祭も、その司教区、聖堂区に特殊的にもっている。
26 鍵の権限によってでなく(彼はそうしたものをもっていない)、代祷の方法によって塊に赦免を与えることが、教皇として至当なことをしているのである。
27 箱の中へ投げ入れられた金がチャリンと鳴るや否や、魂が煉獄から飛び上がると言う人たちは、人間を宣べ伝えているのである。
28 金が箱の中でヂャリンと鳴ると、確かに利徳と貧欲とは増すことになる。しかし、教会のなすところはただ神の御心にのみかかっている。
29 聖セヴェリヌスやパスカリスにあったと語られているように、煉獄で魂のすべてがあがなわれることを願っているかどうかをだれが知っていよう。
30 自分の痛悔が真実であることについては、だれも確かでない。まして完全赦免を得たかどうかについてはなおさらのことである。
31 真実に悔い改める者がまれであるように、真実に贖宥を買う者もまれである。しかり、もっともまれである。
32 贖宥の文書で自分たちの救いが確かであるとみずから信ずる人たちは、その教師たちとともに永遠に罪に定められるであろう。
33 教皇のするあのような贖宥は、人間を神と和解させる、あのはかり知れない神の賜物なのだという人たちは、大いに警戒されねばならない。
34 なぜなら、あの贖宥の恵みは、人間によって制定された秘跡による償罪の罰にだけかかわるからである。
35 魂を《煉獄から》買い出し、あるいは、告解証を買おうとしている者に、痛悔が不必要であると教える人たちは、非キリスト教的なことを説いている。
36 真実に痛悔したキリスト者ならだれでも、贖宥の文書がなくても彼のものとされているところの、罰と罪責よりの完全赦免をもっている。
37 真実のキリスト者ならだれでも、生きている者も死んでいる者も、贖宥の文書がなくても神から彼に与えられたものである、キリストと教会とのすべての宝にあずかっているのである。
38 しかし、教皇からくる赦免と伝達とは、決して侮蔑してはならない。なぜなら、(すでに述べたように)それは神の赦免の宣言であるからである。
39 もっとも博学な神学者たちにとっても、人々の前で贖宥の寛大さと痛悔の真実さとを同時にほめることは、もっとも困難である。
40 真実の痛悔は罰を求め、またこれを愛する。しかし、贖宥の寛大さは《罰を》ゆるめ、これを憎むようにしむける――少なくとも、そのような機会となる。
41 使徒的贖宥は、人々がこれを他の愛のよいわざより優位におかれるものだと誤解しないように、注意して説かれねばならない。
42 贖宥を買うことが、どのような点でも、あわれみのわざに比すことだということは、教皇の考えでないということを、キリスト者は教えられねばならない。
43 貧しいものに与えたり、困窮しているものに貸与している人は、贖宥を買ったりするよりも、よりよいことをしているのだと、キリスト者は教えられねばならない。
44 なぜなら、愛のわざによって愛は成長し、人間はよりよくなるからであるが、贖宥によっては人間はよりよくならず、ただ罰からより自由となるにすぎないからである。
45 困窮しているものを見て、彼を無視して贖宥に金銭を払う人は、教皇の贖宥ではなく、神の怒りを自分に招いているのだと、キリスト者は教えられねばならない。
<続き>
※画像は1521年当時の贖宥状
宗教改革記念日に九十五か条の論題を紹介 ルター・ツヴィングリ・カルヴァンの信仰告白 5/9
以下に宗教改革の火種を作ったルターの「九十五か条の論題」の前文を掲載する。
「贖宥(しょくゆう)の効力を明らかにするための討論(九十五個条の提題) 」緒方純雄訳 〔*はカズによる補足。〕
真理への愛と、それを明らかにしようとする願いから、ヴィッテンベルクにおいて、文学修士、神学修士、同地の神学正教授である司祭マルティン・ルター司会のもとに、以下にしるされたことについて討論することにする。したがって、出席して私たちと口頭で論議することのできない者は、欠席のまま書面でこれをしていただくようにお願いする。私たちの主イエス・キリストの御名において、アーメン。
1 私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ……」〔マタイ4:17〕と、言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。
*マタ14:17 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。
2 このことばが秘跡としての悔俊(すなわち、司祭の職によって執行される告解と償罪)についてのものであると解することはできない。
3 しかし、それは単に内的な悔い改めだけをさしてはいない。否むしろ、外側で働いて肉を種々に 殺すことをしないものであるなら、内的な悔い改めはおよそ無に等しい。
4 そのため、自己悩悪(すなわち、内における真の悔い改め)のつづく間は、すなわち、天国にはいる までは、罰(poena)はつづくものである。
5 教皇は自分自身または教会法が定めるところによって課した罰を除いては、どのような罰をも赦免することを欲しないし、またできもしない。
6 教皇は神から罪責(culpa)が赦免されたと宣言し、また確認するか、あるいは、もちろん自分に留保されている事項について――これらの事項を軽侮したら、罪貴はまったく残ることになろう――赦免する以外には、どのような罪責をも赦免することはできない。
7 神は、人が同時にすべてのことにおいて、神の代理者である司祭に謙虚に従っていなければ、だれの罪青をも決して赦免したまわない。
8 悔俊についての教会法は、生きている人にだけ課せられていて、それによるならば死に臨んでいる人には何も課せられてはならない。
9 そのため聖霊は、教皇がその教会において常に死と必然の項を除外しているので、教皇によって私たちによいことをしたもうているのである。
10 死に臨む人に、教会法による悔悛を煉獄にまで留保するような司祭たちは、無知で悪い行ないをしているのである。
11 教全法による罰を転じて煉獄の罰とまでしているあの毒麦は、疑いもなく、司教たちの眠っている間にまかれたと思われる〔マタイ13:25〕。
*マタ13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
12 かつては、教会法による罰は、真の痛悔を試みるものとして、赦罪の後ではなく前に課せられていた。
13 死に臨む人たちは、死によってすべてを支払うのであり、教会法規に対してはすでに死んだ者であり、それらの法からは当然解放されている。
14 死に臨んでいる人たちの不完全な信仰や愛は、必ず大きな恐れを伴う。そして愛が小さければ小さいほど、恐れは大きいということになるだろう。
15 この恐れとおののきは(他のことはいわずとも)、それだけでも十分に煉獄の罰をなしている。なぜなら、それは絶望のおののきにもっとも近いからである。
16 地獄、煉獄、天国の異なっているのは、絶望、絶望に近いこと、救いのたしかさ(securitas)の異なっているのと同じように思われる。
17 煉獄にある魂にとって、おののきが減ぜられるに応じて愛が増し加えられるのは、必然のように思われる。
18 また、煉獄にある魂が、功績や増し加わる愛の状態の外におかれているということは、理性によっても聖書によっても証明されているとは思えない。
19 また、私たちはいかに強く救いを確信しているとしても、煉獄にある魂、少なくともその全部のものが自分の救いについて確信し、安心しているということが証明されているとも思われない。
20 したがって、教皇は、すべての罰の完全赦免ということによって、これをただもうすべての罰の赦免と解するのではたく、ただ彼自身によって課せられた罰の赦免とだけ解するのである。
<続く>
※画像は九十五か条の論題
宗教改革記念日に95ヶ条の論題を紹介 ルター・ツヴィングリ・カルヴァンの信仰告白 4/9
<カルヴァン著『信仰告白』より>
神のことば
まず初めにわれわれは確信する。われわれの信仰および宗教の基準として、ただ聖書のみに従うことを願い、そこに人間の判断によって神の「ことば」なしに捏造されたいかなるものもまぜ合わせないことを、またわれわれの霊的支配として、われらの主が命じたとおり、神の「ことば」によってわれわれに教えられる以外のいかなる教えをも受け入れず、これに加えも減らしたりしないことを主張する。
自分では地獄に堕ちるべき人間
人間は生来(すでに述べたとおり)自分のうちに神の光と正義とをすべて奪い取られて失っているので、自分では神の怒りと呪いを待つほかなく、したがって自分以外のところに救いの手立てを探さねばならないことをわれわれは認める。
イエスにおける救い
それゆえわれわれは告白する。イエス・キリストは、われわれ自身のうちに欠けているすべてのものを彼において回復するために、「父」からわれわれに与えられた方であると。
さてイエス・キリストがわれわれの贖いのためになし、また、苦しんだすべてのことを、われわれは何の疑いもなく、真実なことを受けとめる。こうして「信条」に含まれている次のことが「教会」において教えられるのである。
(使徒信条)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン。
イエスにおける義
そこでわれわれは以下のことを、イエス・キリストにおいて神からわれわれに与えられたものとして認める。
第一に、われわれは生来神の敵であり、その怒りと裁きとに服せしめられているが、イエス・キリストの仲介によって神と和解させられ、その恵みのうちにふたたび入れられた。
それは、イエスの義と潔白によってわれわれは不正の赦しをえ、彼の血が流されて、すべての汚れから洗いきよめられるからである。
イエスにおける新生
第二に、その「霊」によって、われわれは新しい霊的なさがに再生させられる。
つまり、われわれの肉の悪しき欲情がその恵みによって死なしめられ、こうしてもはやそれがわれわれを支配しなくなるどころか、神の道をたどり、神に喜ばれるものを求めて、われわれの意志が神のそれと一致せしめられ、また、それゆえ彼によって罪の隷属(その力の下にわれわれは自らとらわれているのだが)から解かれ、この解放によってわれわれは善いわざを行なうことができ、また、それにふさわしい者にしかもそれ以外でありえないようにされるのである。
<続く>
※肖像画はカルヴァン
宗教改革記念日に95ヶ条の論題を紹介 ルター・ツヴィングリ・カルヴァンの信仰告白 3/9
<ツヴィングリの著書『キリスト教入門』より>
■福音について
しかもなお、神が私たちすべての罪をキリスト・イエスにおいて、いかに適切に償って下さったかを思い比べるがよい。
一、キリストは十字架上の屈辱的な死に至るまでも己を低くされた(ピリピ2:8)。そして、その死を耐え忍び、それによって私たちを作り変えて下さった。私たちがそれによって造られ、アダムがそれに逆らって罪を犯したその神の知恵によって、私たちは作り変えられ、贖い出されたのである。
二、キリストはいかなる罪責も持たず、何の違反をも犯したことがない。ペテロの第一の手紙2章(22節)によれば、「キリストはいかなる罪も犯さず、その口には何の不真実も見いだされなかった。」からである。
キリストはまた、腐敗した本性という罪深き弱さをもまったく持たれなかった。キリストは罪とアダムの汚れのうちにではなく、聖霊によって、処女マリヤの汚れなき胎のうちに宿られたからである。
それだから、私たちを造られた等のキリストが、ご自身を私たちのためにささげられ、転落と弱さと神の怒りという重い死の代償を、神の義の身代わりとして支払ってくださったのである。
このキリストのゆえに、彼に信頼を寄せる者は、肉体の死をさえ、喜んで引き受けることができるようにされたのである。
三、キリストは、すべての人間のために、永遠の祝福を勝ち取ってくださった。すべての人間はキリストによって造られ、キリストによって贖われるのである。
キリストは永遠の神であられるので、すべての人間の罪をとこしえに取り除き、永遠の祝福に導き入れるに十全であられる。(ヘブル9、10章)
<続く>
※肖像画はツヴィングリ
「友情は知恵に基づく。したがって、神こそ真実で永遠な友情の原理であり、基礎である。」(ツヴィングリの名言)
宗教改革記念日に95ヶ条の論題を紹介 ルター・ツヴィングリ・カルヴァンの信仰告白 2/9
<ルターの著書『小教理問答』より>
■信 仰
第一条 創造について
天と地の造り主、全能の父である神を、私は信じます。
(お父さん) これなあに。
答 神さまはすべての(被造物)といっしょに、このお父さん自身を造ってくださったことを、お父さんは信じている。からだと魂、目や耳や両手両足、理性やすべての感覚をくださって、保ってくださる。
その上、着るもの、履くもの、食べもの、飲みもの、家、お母さんやおまえたち子どもたち、畑や家畜やすべてのものを、からだや生活の必要と養いのために豊かにくださって、毎日与えてくださるのだ。また、どんな危険からも守り、どんな悪からも守り、支えてくださる。
こうしてすべてのことはまったく、神さまの、父としてのみこころとあわれみから出るものであって、父さんがなにをしたとか、それをいただくのにふさわしい、などということによらないのだ。
だから、こうしたものみなについて、神さまに感謝し、神さまをたたえ、仕え、従順でないわけにはいかないのだ。これはたしかに、ほんとうのことだ(とお父さんは信じている)。
第二条 救いについて
そのひとり子、我々の主、イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によって宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死に、葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上り、全能の父である神の右に座しておられます。そこからきて、生きている者と死んだ者とをお審きになります。
(お父さん)これなあに。
答 イエス・キリストは永遠のはじめに父からお生まれになったまことの神さまであって、おとめマリアからお生まれになったまことの人間であり、その方が私の主なのだ、とお父さんは信じている。
主は金や銀によってではなく、ご自分のきよい、高価な血と、罪もないのに受けたご自分の苦しみと死によって、迷い出て、罪に定められた人間であるこのお父さんを、すべての罪と死と悪魔の力とから救い出し、買いもどし、ご自分のものとしてくださったのだ。
だからお父さんもイエスさまに属するものになり、イエスさまのみ国で、イエスさまのもとに生き、永遠の義(正しいつながり)ときよさと救いの中でイエスさまに仕えるのだよ。
イエスさまはそのために死から復活し、永遠に生きて、支配なさるのだ。これはたしかに、ほんとうのことだ(とお父さんは信じている)。
第三条 きよめについて
聖霊を、私は信じます。また、聖なるキリスト教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。
答 お父さんは、自分の理性や力では私の主、イエス・キリストを信じることも、みもとにくることもできず、聖霊が福音によってお父さんに呼びかけ、賜物をもってお父さんを照らし、ほんとうの信仰において、きよめ、守ってくださるのだと、お父さんは信じている。
同じように聖霊は、地上の全キリスト教会を呼び、集め、照らし、きよめ、イエス・キリストのもとで、まことのひとつの信仰のうちに支えてくださる。
このキリスト教会の中で、聖霊はお父さんにも信じるすべての人にも、毎日すべての罪を十分にゆるし、終わりの日にお父さんもすべての死者も復活させ、キリストを信じるすべての人といっしょにお父さんに永遠のいのちを与えてくださる。
これはたしかに、ほんとうのことだ(とお父さんは信じている)。
『宗教改革著作集第六巻、小教理問答1523年』(教文館)
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宗教改革記念日に95ヶ条の論題を紹介 ルター・ツヴィングリ・カルヴァンの信仰告白 1/9
本日10月31日はルーテル教会と一部の改革派教会などで祝われる宗教改革記念日である。いくつかの国では休日となっている。1517年のこの日にマルティン・ルターはヴィッテンベルク城教会の扉に『95ヶ条の論題』を張り出した。ルーテル教会の伝統では、ルターのコラール『神はわがやぐら』が歌われる。また、このコラールを使ったヨハン・ゼバスティアン・バッハのカンタータ80番『われらが神は堅き砦』が有名である。
宗教改革はこれまで本ブログで連載してきた『イエス・キリストの救い』短編シリーズにはぴったりの題材だ。
ここで早速宗教改革者3人トリオをここで紹介しよう。
●マルティン・ルター(1483〜1546年)はドイツ(当時は神聖ローマ帝国)の神学者、牧師、説教家。ルーテル教会の創始者。もともと聖アウグスチノ修道会の修道司祭であったが、宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント(「抗議する者」の意)教会の源流をつくった。
●フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484〜1531年)は、スイス最初の宗教改革者。スイス改革派教会の創始者で、チューリッヒに神聖政治を確立しようとした。「聖書のみ」を信仰の基準としたこと、信仰そのものが大事だと説いたこと、万人祭司説を説いたことはマルティン・ルターと変わらなかったが、それ以外の部分においてルターと意見を異にしていた。彼らはマールブルク会談で多くの論点について合意したが、聖餐論で一致することができなかった。カトリック諸州との内戦の中で戦死。47歳だった。
●ジャン・カルヴァン(1509〜1564年)は、フランス生まれの神学者。ルターやツヴィングリと並び評される、キリスト教宗教改革初期の指導者である。カルヴァンの神学は、ルター派など一部を除き教派の違いを超えてプロテスタント諸派に大きな影響を与えた。プロテスタント教会のひとつ改革派教会は彼の思想的流れを汲む教会である。
中でもルターは宗教改革のきっかけを作った人物として名高い。
ルターがヴィッテンベルク大学聖書学教授の時、1517年10月31ヴィッテンベルク城教会の扉にローマ教会の贖宥状(免罪符)販売に反対する「九十五か条の論題(提題)」を貼り付け公開した。これが宗教改革の発端となった。1521年始め破門となり、四月ヴォルムス帝国議会で帝国追放刑を受けた。その後、選帝候フリードリヒの保護を受け、ドイツ語訳聖書を完成させた。著作活動により宗教改革の三大原理「聖書のみ(聖書の権威)、信仰義認(神の恵みによる救い)、万人祭司(すべてのクリスチャンは祭司)」を確立した。
ヴィッテンベルク城教会は、当時ヨーロッパで最も豊富な聖遺物コレクションがあった。それらはザクセン選帝侯フリードリヒ3世が収集したものだった。当時、聖遺物に対する崇敬は盛んで、見るだけで免償(罪の償いの義務を軽減すること)が得られたり、煉獄(地獄は救いの無い場所、天国は罪の一切無い場所と定義されるが、煉獄はカトリック教義によればクリスチャンとして罪の贖いを受けて救済を約束されていながら、小罪および罰の償いが残っているため、浄化を必要とする者のためにある場所とされる)での清めの期間を短くできると信じられていた。つまり、カトリック信者でも完全無欠ない限り、死んだら天国に直行せずに煉獄で浄化の苦しみを経て生前犯した罪の清算をしなければならないが、お金でその苦しみの期間を短縮できる、というのだ。聖書には煉獄の存在や「地獄の沙汰も金次第」といった教えは一切書かれていない。
ルターの研究書を書いているマルティン・トロイによれば、選帝侯は1509年ごろ、「すでに5005もの聖遺物を収集していた。その中には聖母マリヤの母乳入りの瓶、イエスの生まれた飼い葉桶のわら、ヘロデ大王による幼児虐殺の被害者の完全な遺骨などがあった。このような遺物は通常、手の込んだ銀細工が施された保管容器に収められ、年一度公開されて参拝者を集めていた」という。1520年、選帝侯の聖遺物コレクションの数は19013にも達したという。人々は免償を得ようとこぞってヴィッテンベルク城教会を訪れ、そのもたらす功徳の総計は「人々が煉獄に入る期間を合計にして19万年も減らす」ほどのものだったという。ルターはこうした非聖書的教理がもたらした世俗的慣習に対して九十五か条の論題を1517年10月31日にヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に提示したとされ、この日が宗教改革記念日となっている。
<続く>



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