2010年10月31日(日)
宗教改革記念日に95ヶ条の論題を紹介 ルター・ツヴィングリ・カルヴァンの信仰告白 4/9
<カルヴァン著『信仰告白』より>
神のことば
まず初めにわれわれは確信する。われわれの信仰および宗教の基準として、ただ聖書のみに従うことを願い、そこに人間の判断によって神の「ことば」なしに捏造されたいかなるものもまぜ合わせないことを、またわれわれの霊的支配として、われらの主が命じたとおり、神の「ことば」によってわれわれに教えられる以外のいかなる教えをも受け入れず、これに加えも減らしたりしないことを主張する。
自分では地獄に堕ちるべき人間
人間は生来(すでに述べたとおり)自分のうちに神の光と正義とをすべて奪い取られて失っているので、自分では神の怒りと呪いを待つほかなく、したがって自分以外のところに救いの手立てを探さねばならないことをわれわれは認める。
イエスにおける救い
それゆえわれわれは告白する。イエス・キリストは、われわれ自身のうちに欠けているすべてのものを彼において回復するために、「父」からわれわれに与えられた方であると。
さてイエス・キリストがわれわれの贖いのためになし、また、苦しんだすべてのことを、われわれは何の疑いもなく、真実なことを受けとめる。こうして「信条」に含まれている次のことが「教会」において教えられるのである。
(使徒信条)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン。
イエスにおける義
そこでわれわれは以下のことを、イエス・キリストにおいて神からわれわれに与えられたものとして認める。
第一に、われわれは生来神の敵であり、その怒りと裁きとに服せしめられているが、イエス・キリストの仲介によって神と和解させられ、その恵みのうちにふたたび入れられた。
それは、イエスの義と潔白によってわれわれは不正の赦しをえ、彼の血が流されて、すべての汚れから洗いきよめられるからである。
イエスにおける新生
第二に、その「霊」によって、われわれは新しい霊的なさがに再生させられる。
つまり、われわれの肉の悪しき欲情がその恵みによって死なしめられ、こうしてもはやそれがわれわれを支配しなくなるどころか、神の道をたどり、神に喜ばれるものを求めて、われわれの意志が神のそれと一致せしめられ、また、それゆえ彼によって罪の隷属(その力の下にわれわれは自らとらわれているのだが)から解かれ、この解放によってわれわれは善いわざを行なうことができ、また、それにふさわしい者にしかもそれ以外でありえないようにされるのである。
<続く>
※肖像画はカルヴァン


