2012年5月28日(月)
今日の聖句
今日の聖句
20120528
ルカによる福音書
◆神の国が来る(1)
17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。
17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
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「神の国」という言葉の印象は「神の地上の王国、神の土地」など具体的なものを連想しますが、イエス様はそれを否定しています。それは見える形では来ないし、見えるものでもないというのです。それは人と人との間にあるものだと教えています。あなた方の間にあるという言葉は、信じる者の心の内に神の国はあると理解することができる表現だと言われています。人の心の中に、しかも、人と人とを結ばせる力の源として存在する神の支配、神の力、それが神の国の内容の大事な一部です。
また、「あなたがたの間」にという表現は「手の届くところに」と訳すことができるとも言われています。キリストが来ているという事実は、神の国がキリストによってもたらされているということでもあるのです。そのお方に触れ、教えられ、信頼するとき、神の国が心の中に到来するのです。
祝福がありますように。
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【空の中の真実:コヘレトの言葉】
7:26 わたしの見いだしたところでは/死よりも、罠よりも、苦い女がある。その心は網、その手は枷。神に善人と認められた人は彼女を免れるが/一歩誤れば、そのとりことなる。
7:27 見よ、これがわたしの見いだしたところ/――コヘレトの言葉――/ひとつひとつ調べて見いだした結論。
7:28 わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった。千人に一人という男はいたが/千人に一人として、良い女は見いださなかった。
7:29 ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
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古代ユダヤの男尊女卑の思想が丸出しの表現です。「千人にひとり」「これぞ神に選ばれた人」という存在は男にはいたけれど、女にはいなかったという言い方は現代社会では差別としてブーイングが聞こえてきそうな発言です。ある注解著には「男女は僅差であるが,男のほうがわずかに勝っているという意味」とありましたが、男の中には存在するが、女の中には存在しないという理屈は僅差どころか、差別的な大違いがあるような気がします。1とゼロの違いは大きいものだと感じます。
ただし、コヘレトの人間についての結論ははっきりしています。
神は人間をまっすぐな、罪のないものとして造ってくださったのに、人間は自分に都合の良いさまざまな理屈を考え、ことごとく失敗したということです。
人間は複雑であり、難しい存在です。
祝福がありますように。
作成者
pastor_kaz
: 2012年5月28日(月) 06:00
2012年5月27日(日)
MACF礼拝説教要旨
MACF礼拝説教要旨
2012.05.27
ペンテコステの日に
「ヨセフの生涯」
旧約聖書の中の人物伝、今回はヨセフです。
彼の生涯は大きく分けて3つに区分することが出来ます。
1)少年期 創世記37章
彼は父ヤコブにことのほか愛され、他の兄弟の誰よりも大事にされました。同時に彼も生意気な少年でした。自分の思っていることをずけずけ言ってしまい、尊大な態度が見えています。それゆえ、彼は兄たちからひがまれ、いじめられ、結果的には、穴に落とされてしまいます。そしてエジプトに売られてしまうことになるのです。
若さゆえの失敗でしょうし、親の偏愛を受けて、不安定な少年の姿がここにあります。
2)苦難の時期 39章〜40章
エジプトに売られたヨセフはポティファルという人のところの奴隷として働くことになります。
この状況の中でヨセフに大きな変化が起こります。反省したとか、態度が変わったということよりもむしろ、神様の介入が明確になっているのです。
39:2 主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。
39:3 主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、
39:4 ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。
しかし、順調に見えたポティファルの家での仕事でしたが、ポティファルの妻がヨセフに目をつけ、誘惑するのです。そして結論としてはヨセフが彼女を避けて逃げ出すと、彼女は部屋に残されたヨセフの上着をもって、主人にヨセフを訴え、ヨセフは牢に入れられてしまいます。
にも関わらず、こういう言葉が書かれています。
39:20 ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。
39:21 しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、
これはヨセフにとっては、大きな助け、大きな慰めです。「主が共にいてくださる」と実感できる生活はなんと心強いことでしょう。
しかし、第二の苦難が待っています。牢の中でヨセフは二人の囚人と知り合うことになります。そして、彼らの夢を解き明かすのです。ひとりは助けだされ、もうひとりは殺されるのですが、ヨセフは助けられるはずの給仕長に希望を託し、自分が無実の罪でここに入れられていることを伝えて欲しいと懇願しますが、
40:22 料理役の長は、ヨセフが解き明かしたとおり木にかけられた。
40:23 ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。
ヨセフのことを思い出すのに、この助けだされた給仕長はなんと2年もかかっています。人に忘れられる経験は辛いものです。
王が夢を見て誰も解き明かしが出来ないという状況のなかであの給仕長はヨセフを思い出すのです。41:8−14参照。
無実の罪で捕らえられ、助けた人に忘れられ、2年間はじっと耐える期間でした。しかし、主は彼と共におられました。
3)成功談と赦し41章〜
ヨセフは王の夢を解き明かし、そのとおりの事が起こるのですが、王は彼の中に神の霊が働いていることを認め、彼を国の重要なポストに付けます。
そして予告通り飢饉が起こり、穀物をヨセフの忠告に従って蓄えておいたエジプトは守られます。
そうこうしているうちに、穀物を求めて、なんと兄たちがヨセフがそこにいるとは知らずにエジプトに食料を求めてやってくるのです。そして、対面します。感動的な場面です。
45:3 ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。
45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。
45:5 しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。(45:1−9参照)
ヨセフの成熟した態度が表明されています。
つらい経験がたくさんありましたが、神様のお陰で今があるのだと彼は信じています。全ての背後に神の守りがあった。そして、兄弟のきずなは消えていない赦しの実感がそこにありました。苦労のない人生は存在しません。悩みは常に現実的です。しかし、共におられる神の約束と臨在も現実
ヨセフを変えたのは、彼の努力ではなく、彼に寄り添われた神ご自身でした。
そのお方は私達にも寄り添っていて下さいます。
祝福がありますように。
作成者
pastor_kaz
: 2012年5月27日(日) 06:11
2012年5月26日(土)
今日の聖句
■バイブルワークショップ、6月と7月は「ローマの信徒への手紙」からの
学びです。6月1日、8日開講です。
ローマの信徒への手紙の読み方、その内容を探ります。
会場はOCC4F404号室「東京プレヤセンター」です。
お申し込みは b.workshop12@gmail.com までお早めにどうぞ。
■MACFの日曜礼拝。9時40分からと11時からOCC411号室にて。
ぜひ、お出かけください。お待ちしています。 関根
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今日の聖句
20120526
ルカによる福音書
◆重い皮膚病を患っている十人の人をいやす
17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
17:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
***
10人の重い皮膚病の人が癒されたことはすばらしいことなのですが、イエス様のところに感謝を表明しに戻ってきたのはひとりだけ。しかも、サマリアの人だけでした。残りの9人は、癒されたことを知りながら、まるで食い逃げのようにさっさと自分の道に進んだのでしょう。当時の社会での重い皮膚病からの癒しは単に病気が治ったというだけでなく、社会復帰も意味していました。一般人として社会の中で働くことができるようになったのです。それまでの差別や疎外が取り外され、みんなと一緒に生活できるようになったはずです。そういう重大な出来事が起こったにもかかわらず、感謝の心を忘れてしまうのは残念なことです。
サマリアの人は当時ユダヤ人と交流がありませんでしたし、ユダヤ人からは軽蔑されていましたので、サマリア人が神を賛美し、感謝するために戻ってきたという出来事は、この出来事を際立たせています。
神はえこひいきなさらないお方なのです。
恩知らずになりたくないですね。
祝福がありますように。
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【空の中の真実:コヘレトの言葉】
7:23 わたしはこういうことをすべて/知恵を尽くして試してみた。賢者でありたいと思ったが/それはわたしから遠いことであった。
7:24 存在したことは、はるかに遠く/その深い深いところを誰が見いだせようか。
7:25 わたしは熱心に知識を求め/知恵と結論を追求し/悪は愚行、愚行は狂気であることを/悟ろうとした。
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コヘレトの魂の葛藤の深さは、私たちの考えをはるかに凌いでいます。
賢者になろうと努力しているものの、どんどんそれが遠い出来事だと気づいているコヘレト。知識や知恵や結論を追い求めながら、なかなかそれが捕まえられない様子が切々と語られています。
不思議なことに、物事を追求していけばいくほど、自分はまだまだ何も知らない存在だということがはっきりわかるようになってきます。
自分の足りなさがどんどんわかってくるのです。
これは信仰の世界でも同じような意識を経験するような気がします。神に近づこうと思って頑張れば頑張るほど神が遠くに行ってしまうような気分になるのです。イエス様のことがわかってきたぞ、と感じて、さらに研究していくと、イエス様はどんどん遠くに行ってしまうような感じがするのです。
無理に理性だけでわかろうとすると、結局捕らえることはできないように感じます。「理性だけで知る」ということには限界があるようです。
「気持ちが通じる」とか「気が合う」とかいう表現がありますが、そういう精神的、霊的な関係を通して「知る」のは、理性的な、説明的な「知る」というのとはちょっと違う面があるようですね。理性では割り切れない世界もあるようです。
どちらの「知」も重要ですね。
祝福がありますように。
作成者
pastor_kaz
: 2012年5月26日(土) 05:45
2012年5月25日(金)
今日の聖句
■バイブルワークショップ、6月と7月は「ローマの信徒への手紙」からの
学びです。
パウロは何を伝えたかったのか、発見していきましょう。
会場はOCC4F404号室「東京プレヤセンター」です。
お申し込みは b.workshop12@gmail.com までお早めにどうぞ。
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今日の聖句
20120525
ルカによる福音書
◆赦し、信仰、奉仕(3)
17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
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イエス様の弟子は「しもべ」としての生き方が当然のこととして教えられています。私などは、「しもべの姿勢で生きたい」などと人前では言っていても、いつの間にか「主人」のような顔をして奉仕されて当たり前という風になってしまっているなぁと思います。人への奉仕の姿勢、人へのサービスという姿勢が当たり前のように果たせたら良いのですが…。
人からの評価や感謝を求めつつ、「しもべの振りをする」生き方ではなく、評価があってもなくても、心から奉仕し、寄り添い、誠実に仕えることを喜ぶ心、しもべとして生きることを喜べたら良いですね。
主人になりたい人のほうがはるかに多いのですが、しもべの道をイエス様は奨励しています。
しもべの中心課題は「主人が何を求めているのか、何を必要としているのか」に敏感になることです。
私たちは主人であるイエス様からの派遣を受けて「しもべ」として社会の中に生きているのです。
祝福がありますように。
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【空の中の真実:コヘレトの言葉】
7:20 善のみ行って罪を犯さないような人間は/この地上にはいない。
7:21 人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても/聞き流していられる。
7:22 あなた自身も何度となく他人を呪ったことを/あなたの心はよく知っているはずだ。
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ずいぶん荒っぽい言い方ですが、そのとおりです。
善のみ行って罪を犯さないような人はいないのです。
だから、人の言うことをいちいち気にしないようにという勧めがつながります。
ところが、私たちは、失敗しているのは自分だけだ、あの人にこんなことを言われた自分は駄目な人間だなどと、とついつい考えてしまう傾向があるのです。考えるだけならともかく、それを気にして、本気にして、思い込んでしまうことさえあります。
コヘレトは「気にするな」と言います。 その強さが欲しいですね。
無視するわけではありませんが、大事な事を取捨選択し、あとは聞くけれど、失礼のないように聞き流すという生き方ができたらずいぶん楽になるでしょうね。また同時に、自分の言った断定的なマイナス評価が相手を一生苦しめることになる可能性があるとわかれば、言葉にももう少し注意を払うのだろうと思います。
しかし、こういう文章が何千年も前に書かれているということは、その昔から人は、他の人からの評価によってがっかりしたり元気になったりしながら生きてきたという証拠なのだと思います。
祝福がありますように。
作成者
pastor_kaz
: 2012年5月25日(金) 05:21
2012年5月24日(木)
今日の聖句
おはようございます。お知らせです。
■いよいよ今日からキリスト教文化講座「メサイア・わかる・聴く・
楽しむ」が開催されます。
ぜひ、ご参加ください。午前は10時20分から。夜は7時20分からです。
OCC411号室にて。会費は各回1,000円です。
■バイブルワークショップは、6月と7月は「ローマの信徒への手紙」からの学びです。
キリスト教の「救い」について中心的教えが理解できます。
お申し込みは b.workshop12@gmail.com まで。
どちらも詳細は http://heartland.geocities.jp/kazsek/
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今日の聖句
20120524
ルカによる福音書
◆赦し、信仰、奉仕(2)
17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
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「信仰を増してください」と願っている弟子たちの心の中に何があったのでしょう。もしかすると、その「豊かな信仰心」で人前での奇跡を行ったり、他者のために良いことができると考えていたのでしょうか。それとも、自分を益するものなのでそれが欲しかったのでしょうか。イエス様の答えは、「カラシ種」一粒ほどの信仰があったら、それが神のわざをもたらすことになるというものでした。
神の前にへりくだり、「主よ、信仰の薄い私を憐れんでください」という姿勢の中で関係を確認しつつ生きるなら、そこに道は開けてくるのです。信仰は勲章ではありません。それは心の中に燃える神との関係の喜びであり、神への献身の心です。
祝福がありますように。
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【空の中の真実:コヘレトの言葉】
7:19 知恵は賢者を力づけて/町にいる十人の権力者よりも強くする。
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権力者も結局、賢者のところに助けを求めにやってくることになるのだとコヘレトは言います。
政治家の政策は、官僚や学者たち、いわば専門家の言葉に裏打ちされなければ否定されてしまいます。
それがひっくり返され、いい加減な政策がまかり通ってしまう政治は危険です。
知恵を求めること、知識を吸収することの大切さは箴言にもたくさん書かれていますが、実生活においても、社会への貢献ということを考えてもとても有益です。
簡単にできることのひとつとして、読書の習慣が身に付くといいですね。知恵や知識を吸収するのに一番身近にある素材だろうと思います。
こういうことに10代のうちに気が付いていればなぁと、しみじみ思います。
祝福がありますように。
作成者
pastor_kaz
: 2012年5月24日(木) 05:43