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神垣や奥拝まるる冬桜
神垣や奥拝まるる冬桜 「冬桜」は、11月から2月頃まで咲く桜で、背丈は低く花は小振りで白の単で、冬空に咲く姿は凛としています。群馬県鬼石町の桜山公園の冬桜は天然記念物に指定されていて有名です。 冬桜と別種なのが「緋寒桜」や「寒桜」がありますが、こちらは九州・沖縄に多く咲いていて「彼岸桜」の変種で花が緋色です。 揚句は、ご神体が山そのもので神域から奥に望まれる山を拝して祈りを捧げる祭司のような冬桜が凜として清楚に咲いています、と詠んでいます。 神垣は神社の範囲を仕切る垣根のことでいわゆる神域をあらわすものですから、神社そのものを囲っているものよりも範囲が広いですね。 揚句から、奈良県桜井市の三輪山をイメージしました。このあたりが最近考古学の一大発見として注目されています。卑弥呼が祭司したと想われる宮殿跡が発掘されたのです。その遺跡は東西の軸線をもち、東向きの宮殿は三輪山に向かっているのです。三輪山は山そのものがご神体で日本最古の大三輪神社がありますが拝殿だけです。神域は今もって立ち入り禁止となっています。 この摂社に元伊勢といわれる神社があり、伊勢に移される前の伊勢神宮がまつられています。そして三輪山の真東に現在の伊勢神宮が位置しています。卑弥呼がアマテラスではないかと云われていますが、今回発見された宮殿の東西の軸線の延長に三輪山そして伊勢神宮があるということにロマンを感じます。この東西の軸は春分秋分の太陽の位置ですからこの日に三輪山の山頂から太陽が昇ります。 卑弥呼とは中国語の表記ですから日本名は「ヒメミコ」であることは間違いないでしょうね。それがアマテラスだとするならば太陽神として伊勢神宮に祀られていることは頷けることです。 この地は三輪ソーメンの産地ですが、卑弥呼の墓と云われている箸墓古墳もあります。 魏志倭人伝に書かれた邪馬台国がどこかというのが古代史のロマンですが、邪馬台国大和説がかなり有力になってきました。邪馬台国論争に終止符がうたれるのもそう遠くはないでしょう。 揚句の冬桜は卑弥呼の化身として凛として祭司とているかのようです。 かみがきやおくおがまるるふゆざくら 作者 野村 喜舟
永遠の待合室や冬の雨
永遠の待合室や冬の雨 「冬の雨」は、冬に降る雨ですが、冷たく音もなく降るのでむしろ雪が降るよりも静寂かも知れませんね。雨が途中で雪に変わることも珍しくありません。 冬は乾燥しきっていて風邪が流行るころに降る雨は恵みの雨になります。 季節それぞれ雨に季節が冠して(春の雨、夏の雨、秋の雨、冬の雨)などがありますが、季節それぞれの趣が違いますので、雨に親しむって愉しいですね。 揚句は、永遠の待合室の外は冬の雨が静香に降っている、と詠んでいます。 永遠の待合室と冬の雨の出逢いからどのような空間が生まれているのでしょうか。 待合室とは病院や駅、空港などで受診や列車、飛行機の出発時間まで待っているところですが、診療所で考えてみると、受診の順番を待っている部屋ですが、この部屋が永遠だということはどういう事でしょうか。 この部屋には同じ目的で順番を待っている多くの人達がいるんですね。そして順番が来ると名前が呼ばれて診察室に入ってゆくのです。 永遠の待合室とは、永遠に名前を呼ばれないで待っているということでしょうか。人はある時期がくれば召されてあの世へ逝きますので待合室というこの世に永遠に居座ることは不可能なのです。名前を呼ばれないで永遠に待合室に坐っていたいという願望があったとしても、それは許されないことです。 揚句で、「永遠の」と表現しているのは、実現するはずもない作者の願望なんですね。だから作者の想いは、冬の雨のように冷たく静かに濡れているかも知れません。 駅や搭乗手続きの待合室で考えてみても同じですね。出発時刻が来れば人々は待合室から居なくなります。そして最終便が出発すると待合室は閉鎖されます。 揚句を心の待合室と考えるとどうなるでしょうか。自分がやりたいことを見付けるまで待っているので、見つかればそこから離れますが、永遠に待っているということはやるせないですね。 えいえんのまちあいしつやふゆの雨―あめ 作者 高野 ムツオ
切干大根ちりちりちぢむ九十九里
切干大根ちりちりちぢむ九十九里 「切干大根」は「切干作る」の傍題で、初冬になると大根を千切りや輪切りにしたのを筵などに広げて天日干しを数日行い乾燥した物を保存食とします。利用するときは水に戻して人参や油揚げなどを加えて煮て食べます。 大根の他にサツマイモを薄く切って乾燥させるものもありますが、乾燥芋はふかしたサツマイモを薄く切って天日干ししたものですね。 揚句は、切干大根を天日干ししていると、ちりちりちりと縮むようにこの長い九十九里浜も縮むのだろうか、と詠んでいます。 言葉遊びが愉しい俳句ですね。そして九十九里を取り合わせることで、言葉遊びが更に愉しくなっています。 九十九里は千葉県外房の太平洋に面した弓なりに湾曲した砂浜で長さ60キロメートルあり、海は黒潮と親潮がぶつかる処ですから魚介類が豊富で、地引き網などが行われています。童謡月の沙漠のモデルにもなっていますね。 切干大根が天日干しでちりちり縮むのは当たり前ですが、それに九十九里をつきあわせたのがユニークで愉しくなってしまいます。九十九里までが天日干しで地賃でしまうかも知れないと想うと同時に、切干大根を砂浜の長さと同じくらい長くしたわけではないのですが、そんな光景を想像してしまいます。 このような言葉遊びは子どもが得意とする所で大好きなんですよね。歌を替え歌で歌ってしまう天才です。 きりぼしだいこちりちりちぢむくじゅうくり 作者 大野 林火
初時雨これより心定まりぬ
初時雨これより心定まりぬ 「初時雨」は、その年の冬に最初に降る時雨のことで、いよいよ冬に入ったかと感じさせるものがあります。 時雨は降ったかとおもうと止み、止んだかとおもうとまた降り出します。時雨そのものは冬の季語ですが、他の季節では「秋時雨」とか春時雨があり区別しています。 山間に見られるので、関東平野のどまんなかではみられない現象で、むしろ奈良盆地や京都盆地のように周りを山でかこまれた地形のところで見られますから都人の和歌との結びつきが強いですね。 時雨の傍題に、「朝時雨」「夕時雨」「小夜時雨」「村時雨」「北時雨」「北山時雨」「横時雨」「片時雨」「月時雨」「泪の時雨」「川音の時雨」「松風の時雨」「時雨雲」「時雨傘」「時雨心地」「時雨の色」「液時雨」などがあります。なお「蝉時雨」とか「虫時雨」とか「木の実時雨」などは、その様子を時雨に例えているので、ここでいう時雨ではありません。 揚句は、初時雨になった、これで心が定まったよ、と詠んでいます。 初時雨になったのでいよいよ本格的な冬が到来したことを実感して、冬への供えの心が定まったということなのでしょうか。時雨は局地的に降りますから、自分の周りは降っているのだが遠くの山の端は明るく日が差していたりします。雨が上がったと想ったらまた降り出すというようにめまぐるしく天気が変わってゆくのが作者の心のようなのですね。しかしその迷いもきっぱりと断ち切ることができた何かがあるのですね。あるいは遠山の山の端に明かりが指しているのを見て決心したのかも知れません。 はつしぐれこれよりこころさだまりぬ 作者 高浜 虚子
神在す月の出雲へ寝台車
神在す月の出雲へ寝台車 「神在す月」は「神有月」のことで、「神無月(かんなづき)」の傍題です。陰暦十月の異称で、今年は11月17日から12月15日までが神無月になっています。 この月は全国の神様が出雲に集まって男女の縁結びの相談をする月といわれていて、出雲以外は神無月といい、出雲だけは神有月といいます!普段忘れている神々というものを意識させてくれる不思議な季語ですね。 関連する季語に「神の留守」「神の旅」「神立」「神送」「神迎」「神在」「神在祭」などがあります。これらの季語は人の営みにからめて詠まれることが多いですね。 全国の神様が集まって男女の縁結びの相談をするなんていう粋な神様が日本にいるというのが愉しいですね。観音様や大日如来やお地蔵様が集まって男女の縁結びの相談をするなんて考えることができませんからね。 落語の噺ですが、出雲の神様が慌てて何人かの男女を結びつけようとして糸がこんがらかってしまったところ仕方なくそのままにしたら三角関係になってしまった。ところで浮気っぽい恋を金平糖関係というそうです。 揚句は、神有月の出雲に寝台車で行きました、と詠んでいます。 全国の神様が出雲に集まるのに旅の手段は何によるのでしょうか。まさか寝台車に乗って出雲へ向かった訳ではないと想いますがいまのご時世ですから神様も楽をしたいですよね。 仕事の関係で出雲へ寝台特急出雲を何度も利用したことがありますが、現在も運転されているのでしょうか。由緒ある寝台特急が次々と運転とりやめされています。 寝台特急にまつわる想い出というのは数限りなくありますが、その中でも熊本へ行ったときに早朝終着なので安心して寝坊していたら、汽車は走り出していました。私に気づいた車掌はびっくりして、この汽車は京都行きで京都まで停車しないので、次の駅で臨時停車するのでそこで下車してくださいとのこと。 寝台車で旅をした神様の中にはとんだ失敗をした神様がいたかも知れませんね。 かみいますつきのいずもへしんだいしゃ 作者 大屋 達治