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神はどう話しかけるか?3
カント・フォン・ホプキンスからのエマヌエル・スウェーデンボリィに関する手紙を読みたいと思います。かれはスウェーデンボリィが在世中のころの、初期の読者です。「私はかつて、スウェーデンボリィに対してこう質問しました。なぜそれら公衆には奇異に見える記憶に関する事柄と、一方ではきわめて合理的な教えをなぜ出版するのか?体験は自分のものとしてしまっておき、世に出さないほうが自身のためによくはないか?と問いました。するとスウェーデンボリィは、主からそれらを出版するよう命令を受けていると応えたのです。」 私はこう考えたいと思います。すなわち、主はそれらを読み、章の内的な概念と結ばれた見事な土台として用いるよう命じられた。三重のみことばの文字の力は見事なものです。旧約聖書と新約聖書は、家の土台です。主は大きな力と栄光をもって雲のうちに来られると言われています。そこから日の輝きがこぼれる雲とは、みことばの力であり、私たちの命の力と栄光です。 天界の秘義8443にある特異な節をもって締めくくります。これはとても抽象的な部分であり、この部分を完全に理解できた人を存じ上げません。そこには六レベルの真理が語られています。人間がみることのできるのは最初のレベル、あるいは次のレベルだということを示唆しています。この見事な一節は、主のみことばの視野を示していて、無限のものが、有限なものである美しい器の中でふれあっています。 「神の真理にはたくさんのレベルがあり、それは一つだけではありません。神の真理の第一のレベルと第二レベルは主から直接発している真理です。これは天使の知性を越えています。」 どんな人でも永遠にみることのできない二つのレベルの真理があります。それは大気圏を脱して太陽に近寄ることに似ています。 「しかしそこから下の神の真理の第三のレベルは、最奥、あるいは第三の天界に存在しています。人はその性質がどんなものであるかも理解することができません。」そのため主のみことばの書を持っているとき、そこにはどんなに深く進んだとしても、人には理解できないレベルの真理があることを知ってください。 「さらに下って、第四のレベルの神の真理は、中間・第二の天界に存在しますが、これも地上の人には理解されません。」地上にあっては、最初の四つのレベルはみることさえできません。これこそ神のみことばの壮麗さです。 「しかし神の真理の第五のレベルは最も低い第一の天界にあり、地上の人にもわずかに存在することができます。但しそれには、啓示されなければなりません。またたとえそうされたとしても、その大部分は人の言語で表現することができません。」あなたがたが地上にいて、主のみことば、旧約聖書、新約聖書、著作の書を持っていたとしても、第五レベルの真理を、わずかに垣間見るチャンスがあるだけです。それはあまりにも内的で言葉にすることすらできません。これが主のみことばの荘厳です。それが思考の中に来たとき、これはまことに真理であると知覚する能力が生じます。「しかし第六のレベル、神の真理の最も下のレベルは地上の人のもとで存在します。これは人が識別できるよう調整されていて、これがみことばの文字の意味です。」この感覚、あるいはこの種類の真理は、雲によって表象され、内なる真理が雲を通して輝くことによって表されています。アーメン。
神はどう話しかけるか?2
「聖なる書」から取り上げます。「みことばの自然的意味、あるいは文字の意味が、霊的・天的意味の土台であり、器であり、支えです」。この部分を読めば、天界の天使の力が、心に流入してきます。続きます。「みことばに文字としての意味がないなら、それは基礎のない宮殿であり、地面ではなく空中に浮かぶ宮殿であり、たちまち消え去る影にしか過ぎません。」 今朝はこのみことばの文字が持つ力について四つあげます。 一。これは今週のあなたがたの課題です。マタイ13章の七つのたとえを読み、主が与えられたイメージを、時間をかけて頭の中で映像化し、天界と霊界の知識と結びつけます。みことばを読みながら、種まきをイメージし、真珠をイメージし、パン種とパンをイメージします。魚を集める網をイメージして、天界における生とこれらが結びつくことを知ります。そのイメージは神が与えられた真理が憩う場所あり、そこから真理が心に流れ込むことがわかります。 二。これは非常に実用的です。みことばの文字の力。傷つき、主から距離を感じたとき、そして霊的な不安を感じるとき、新旧どちらでも聖書の文字に向かってみてください。そこは、再び生活に平安をもたらす本物のパワースポットです。 荒野で主が悪魔に試練にあったとき、主は悪魔と論じようとはされませんでした。主は合理的真理を用いて地獄の力を退けることもできたはずです。あえて、地獄と論じるなら、深く傷つけられることがあります。しかし主はただみことばを引用されます、「あなたの神である主を試みてはならない、と書いてある」。主はみことばの文字を書からそのまま引用しました。しかしそれ自身のうちに、当面の間ながら地獄を遠ざける力があったのです。 クリスマスの話で少し脇道にそれます。ヘロデが純真な幼い子供を襲ったとき、主のご一家はヘロデが死ぬまでエジプトに逃れたといいます。一家はエルサレムにはとどまらず、エジプトに逃げます。エジプトはみことばの文字の意味を表します。新旧両聖書とみことばの文字のイメージを表します。この話で述べられているのは、ここに力があるということです。そこには、あらゆる段階の真理が含まれているのです。それは無限にいたるまで続き、あなたの生に天界を招き入れます。 三。天界の教えである著作は心の合理的な段階に啓示されますが、ここにも感覚的なイメージの文字が含まれています。これはとても重要なことです。著作を読んでいると、とても込み入った概念があり、そして自然的な例が続きます。本日の第二朗読がそうなっています。まずみことばの文字の重要性が抽象的な概念として表れます。そして宮殿、宮が挙げられ、人間の体が皮膚なしにどうなるか、書かれています。脳、そして心臓と肺が挙げられます。人は、時に、これらのイメージの部分を省きたいという誘惑に駆られます。誰かがこういっていました。「私にはこれらすべてを読む必要がない。著作はここで要点を証明しつくしている。これらの例に目を通す必要はない。もうすでにわかっている。」しかしこれらの例は、その抽象的な真理を、心の中の土台として、読み、深く考え、用いるために与えられています。それらの例がなければ、抽象的な真理は、消え去ってしまいます。これらの長い例のリストは証跡ではなく、読んで深く考えるためのものです。心に置いて考え、そこから神的な啓示がある信仰の憩い所です。 四.著作に出てくる「記憶すべき事柄」に関して。著作の三大作品には、非常に抽象的な概念に章がおかれています。真のキリスト教の主の栄化のように、その章の最後には霊的体験がシリーズとして配置され、啓示者が霊界に実際に見聞きしたことが描かれています。どういう理由からでしょうか?合理的な概念、そして抽象的な思考、そして天界で見聞きした霊的な体験がそろい、見事なものとなっているのは、どんなわけがあるのでしょうか?
神はどう話しかけるか?
神はどう話しかけるか? How Does God Speak To Me? A Sermon by the Rt. Rev. Thomas L. Kline 現在世界で教会の多くの方々が、「主はいかに語られるか」についてのジャーニー・プログラム(山上の垂訓プログラム:2010年東京グループで実施)のメッセージに取り組まれています。−立ち止まり、主のみ声をいかに聞くかを学びます。本日は、たとえや、物質的なイメージ、そしてこの世の出来事をもちいて、主が語りかけられる方法を学びます。さらに今日は、普段と少し変わっています。いつもなら、新教会はみことばの霊的意義を強調します。それは、みことばの文字には内的意味があり、そこに、まことの力と栄光があるとしているからです。しかし本日は、みことばの文字の意義の大切さを考えます。−みことばの土台です。紙の上にあるみことばそのもの、ユダヤ民族の歴史の出来事そのもの、みことばに出てくるたとえのイメージ–これらは真理を理解する上での土台となります。貴重で不可欠なものです。事実、もし真理が主のみことばを通して文字として与えられるイメージを基礎としていないなら、砂上の楼閣のようなものでしょう。 そこで、主が山上の垂訓で与えられた、素朴な喩えにスポットライトをあててみます。主が最初に人びとに伝えたかったことの一つです。−神の王国とは何か?これを伝えることは、主が地上に来られた理由です。もし今日、教会の礼拝の後、だれかに「新教会では神の王国はどう教えられていますか?」と聞かれたら、きっとこう応えるでしょう。「種をまく農夫」、「芥子だね」、「網にかかった魚」。天の王国を語る7つの喩えを主は与えられています。 これは素朴な漁師や農夫、初期キリスト教会にいた弟子たちがいたから、そうされたのではありません。主のみことばの重要な部分を構成しています。今日、私たちがみことばを読むための土台となるからです。 7つの喩えを上げてみましょう。 1.天のみ国は種をまく人のようである。種がまかれる様々な種類の土地を想像してください。 2.天のみ国は、分別されてしまうまで一緒に育つ、麦と毒麦のようなものです。ここには物質的イメージがあります。喩えを通して、育つにしたがって悪から善がわかれてゆくというテーマがここにあります。 3.天のみ国は小さな芥子だねのようだ。本日は子供へのお話で、芥子だねを実際に手渡しました。子供も大人もこの芥子だねをその手に握りしめ、信仰が一粒の芥子だねの大きさであっても、不可能なことなどないことを知りました。芥子だねに触れ、それが美しい天界的概念の土台であることを実感します。 4.天のみ国はパンのようです。その中にふくらし粉を入れ、発酵させなければなりません。再生をみごとにあらわしており、素晴らしい土台となるイメージです。 5.天のみ国は、畑の中に隠された宝です。神のみことばが、宝箱であることを見事に描いています。 6.天のみ国は、素晴らしい値打ちを持つ一粒の真珠のようなもの。生きた真珠は育ち、主イエス・キリストへの信仰の基礎となることを知ります。 7.最後に、天のみ国は、海で魚を集める大きな網のようなものです。今日主が地上に大きく網を広げ、人を天のみ国に集める姿を想像してください。 このように天と地の永遠の神が地上に降りられ、天のみ国を語られたことがイメージできます。主の無限の知恵から、その王国を描くために素朴な植物や宝、魚をお使いになられました。 主は素朴な人びとが相手だったのでそのようにされた、ともとの考えにもどるかもしれません。しかし、これこそ神のことばであるというのが本日のメッセージです。主が神的にみことばを書かれた方法がこれです。主が物質的なイメージを与えられたのには、理由があります。当時の、初期キリスト教会の人びとのためということもありますが、同時にこれは現代の私たちの信仰の土台のためでもあります。 私たちは、このたとえには内的意味があることを知っています。主が書かれたものであるからです。しかし山上の垂訓にはまた、「たとえを使わずには、何もお話にならなかった」と言われています。著作は、みことば全体が「たとえ」であることを示しています。新旧約聖書のあらゆる部分は、自然的意味をもつたとえであり、同時に霊的意味ももっています。 みことばの内的意義だけではなく、「たとえ」自体が持つイメージも大切にしなければなりません。みことばを力強く用います。それが信仰の真理の力の憩う場所となるように。(力強さについては後でその意味がわかります)そこには、著作が「究極的」と呼ぶ力があり、それは土台となります。真理の土台です。
本来の目的4
新年の幕開けとともに、考えていただきたいことは、第一に、今いるここで、「自分が何者であり、何をなすべきなのか」を考えることです。私たちは、主のみことばを学ぶためにここにいます。−ちょうどイエスが十二の折、宮で教師の間に座り、自分の道をみつけようとしたように、私たちもまた父のみ業に従事しなければならないことを見出すために。 私たちはより内なる存在となるため、ここにいます。−霊的生命とは旅であると認め、主がお導きになる次のステップを見出すために。 私たちはより役立つ存在となるため、ここにいます。−たわわな実を結ぶいちじくの木のように、そして決して主がそのために創造されたにもかかわらず不毛の木とならないように。 私たちは学び、行うためここにいます。特に真理を理解し、善を行うために。 私たちは自分の生き方という「ミナ」を投資するため、ここにいます−意志と知性、自由と合理性、思慮、創造性、能力、その他なんと呼ばれるものであれ。主のお声をこの方向に聞くにつれ、主は私たちを次の新しい生の始まりに導くことができます。次の日の出、希望と約束の状態へと。すると主人が僕に言います。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。・・・あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられる』 (ルカ19:17,26)。アーメン。
本来の目的3
「ミナの喩え」。 この部分はルカ福音書の収められているミナの喩えは、この思慮、あるいは能力に似ています。:「ルカ19:12-25で、僕のそれぞれに与えられ、商売を行い、決算をして報告するよういわれたミナとは、この思慮のことです。」 (神の摂理210) この喩えでは、主人によって与えられた資金を、それぞれの人が異なる使い方で使います。一ミナを十ミナにした僕を主人は褒めます。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』 主人は二番目のしもべにも同じような扱いをします。しかし三番目の僕、無くなることを恐れて、自分のミナを布で包んでしまいこんだ僕はどうでしょうか?このしもべは、与えられたもので何もしていません。そのため主人の怒りを買います。僕はミナを取り上げられ、それは十ミナを持つ者に与えられます。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。』 (ルカ19:26) 新教会著作は「商売」あるいは投資を、自分が「霊的財産を得る」ための努力(黙示録啓示606:2; cf. 黙示録解説 675:8, 840:11)、あるいは「霊的生命」を得る(黙示録解説193:10)ための努力としています。一般的に人は、「木として実を結ばねばならない、・・・戒めを行い、神と隣人を愛し、などなど」(黙示録啓示 463:10). 伝えたいことは、実に明白です:人は霊的な生き方をすることができるように、それぞれ才能と道具が与えられている。人に仕える生き方、主と協力する生き方です。主は人がその力を、本来の目的に使うことを望まれています。その正反対の形が、ミナを取って布に包みこんだ者です。誰も見ないようにしまい込んでしまいました。もし主からの賜を本来の目的に使わないなら、これと同じです。山上の垂訓もこれが喩えられています。「あかりをつけて、それをかごの中に置く者」(マタイ 5:15)です。あかり、光は、知性の象徴です−主のみことばの真理は、人のもつ信念というフィルターを通して、この世で行おうとすることに意義を与えるからです。この光について主は語られています。「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ 5:16) 例をあげるなら、枚挙にいとまがありません。 ある人が美しい風景を描き、優美な額で飾ります。しかしそれを壁に掲げて人目を楽しませるのではなく、車庫にあるベッドのシーツの下に隠すようなものです。絵の才能を持った人物がその与えられた芸術家としての才能を全く使おうとしないことです。 別の人は忍耐強く、また創造性豊かで、子供達に素晴らしい話を書いて読みきかせ、また読み方を教えることができます。ところがいつもその機会を見送り、行おうとはしません。 またある人は、大きな事業を、人を使って成し遂げる才能があります。彼女は人びとの興味や才能を導き、問題を解決し、やる気を与え、すべての人びとを、事業の完成に向けてまとめあげます。しかし彼女はあまりに労力がかかり、報いは少ないと考え、決して事業に手をつけようとしません。 霊的にいえば、主が与えられたものを、私たちが本来の目的に用いないなら、同じ事がです。主のみことばの書物から学ぶ能力を持ち、赦す力を持ち、自己点検をし、必要なら変革し、うまく時間をひねり出して、毎日人のために意義のあることを行う。これができるかどうかが問題です。主の声を聞いて、自分だけの才能を発見し、それを働かせます。この方向へと力と労力を用いるなら、人は本来の目的に自分の才能を使っていることになります。主は自由を与えられました。主は合理性を与えられました。主は良心と教会、みことばと、道を進めるように天使の守り、悟りその他多くを与えられました。私たちのゴールは、本来あるべき目的を見出し、その目的を追求することです!
本来の目的2
「学び」。私たちも同じです。私たちも主のみことばと同じ場面で、なぜこの地球に生まれたかを学びます。「天界と教会の事柄に導入されること」、これは私たちにとっても大切なことです。 みことばから、神がおられ、それは主イエス・キリストである。天界と地獄があり、死後も生きてゆく(聖なる書の教義114)。これらを学びます。 みことばから、「愛と信仰」「あがない」そして「その他多数の天界の知恵」(みことば14 cf. 天界の秘義 9222)について学びます。 みことば以外からはこれらの事柄については学べません。この世で得るもの以上に、生は奥深いということを知り、賢明になります。この世の時間は、来るべき世界への準備にしか過ぎません。この生での目的はその準備をすることだと悟ります。 「より内的な事柄」 「人はさらに内的な存在となることができるよう創造されて」います。(結婚愛238; cf. 真のキリスト教 607) 私たちがいる所は、旅の途中にしか過ぎず、旅はまだ続くことを意味しています。内的な事柄とは、主とその王国についての事柄です。主と力をあわせてゆけば、主の王国の事柄を大切にするよう導かれます。すると主の王国は、思考や意志、行動の中で、より大きな部分を占めるようになります。次のみことばが心に浮かんできます。「まず神の王国とその義を求めよ。そうすればすべてこれらのことはあなたに加えられる」(マタイ6:33)。 「役立ち」 私たちはさらに学びます。主の王国への旅とは、役立ちであることを。 「神の王国は、役立ちの王国です。」(天界の秘義5395)。また、「人は役立つように創造されている」 (結婚愛 249)。ここで、呪われたいちじくの木の話を思い起こします(マタイ 21)。イエスは、道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれます。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われます。(マタイ21:19) みことばにおいて、実りは役立ちの象徴です。いちじくの木のように、人は実をつけるよう創造されており、他の人に善いことを行うため、その力を用います。もしそうでないなら、人は本来の目的に沿っていないことになります。この生で、本来の目的とは、主のお声を聞き、他の人間に仕えるよう手をさし出すことです。 学び、行動する能力。 しかし今日最も大切な目的は、「人は真理を理解し、善を行うことができるよう創造されている」ことを学ぶことです。(神の摂理 322) この世界での目的を、こう定義してしまうのは、これが、生における本来の目的の他のあらゆる定義にとって、源、あるいは原点となるからです。 以下次のように展開されます: • 人が人であるため、二つの機能を持つよう創造されています:自由と合理性です。これが人にあたかも自分のもののように、生き、考え、意志し、話すという力を与えるからです。(神の摂理210) • 自由は意志に関係し、合理性は知性に関係します。; そのため意志と知性は、先に述べた、人を人とする二つの機能を別の面から定義したものです。(神の摂理 138参照) • 意志と知性は、主が与えられるすべてのものを受ける二つの器として創造されています。意志、あるいは、自由のうちに愛し、選択する力は、主の愛を受ける器です。知性、あるいは考え、推し量る能力は、主の知恵を受ける器です。(神の愛と知恵 358参照) • そのため、人は霊的になるよう創造されています。言い換えれば、みことばから霊的な生き方に関する事柄を学び、理解する力を用います。人はまた霊的生き方を意志し、自由に生き抜く力も持っています。これはあるところでは、「人の思慮」と呼ばれています。人が、自分の生き方の方向を決定する能力です。 こういわれています。「神の摂理によって導かれたいと望むなら、思慮を、そのあるじである善に忠実に仕えるようなしもべ、補佐として用いる」(神の摂理 210)。 これは、主の摂理の内に、主と力を合わせる力を持って、人は創造されている、というメッセージです。人は、役立ちに生きることを選択できます。人はみことばから学習することを選択できます。人は自分を霊的生き方に向けることができます。自分自身が旅の途中にいて、その目指す所は天界であるということを知ることができます。このすべては主が意志と知性という能力として与えられたものです。人の自由と合理性、思考と生き方を決定する能力です。
本来の目的
本来の目的 “Our Intended Purpose” A Sermon by the Rev. Peter Buss, Jr. 「わたしが必ず自分の父の仕事をしていることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49) 「さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。・・・』(ルカ 19:16-17) 新教会には人を奮い立たせる教えが多数あります。その一つは、主は私たちをより新しく、より良い状態へと絶えず導いておられる、という教えです。「摂理の流れの内にいる人は、絶えず、より幸せな方向へと導かれている。たとえそれがどんな外観であろうとも」(天界の秘義8478)。さらに、「人の生のほんの小さな一瞬・・・そのそれぞれが再び新しい始まりです」(天界の秘義3854)。また、「教会に属する者は、絶えず新しい状態へと導かれる連続した局面にいて、それは天界に至るまで、あらゆる時点で、主のより近くへと進みます」(天界の秘義 6645)。主の摂理のもとに人の生が進んでゆくというこの真理、これを表している姿があります。昇る太陽です。「主は天界へと流れ込む光のすべてをもたらす太陽です。主は常に昇る太陽であり、そしてまた常に日の出の太陽です。」 (天界の秘義5097; cf. 10605). 新年が明け、私たちの心も、新しい状態へと惹かれます。カレンダーをめくると、真っ白なキャンパスが表れ、新しい可能性、新鮮なスタート、より素晴らしい幸福への予感に満ちています。これらの新しい幸福へと導かれる、神の知恵に思い至るなら、心は奮い、自分たちの新しい日の出に続く日々の内、可能性と期待を見ることができます。 これらを頭に入れて、十二歳のイエスが、宮におられた話、この話を考えてみましょう。イエスは過ぎ越しの祭りに参加するため、家族でエルサレムに向かいました。祭りが終わり、家族は家へ帰ろうとしますが、ただイエスご本人だけは、そこに残っておられました。彼を三日間捜すと、マリアとヨセフは、「イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけ」(ルカ 2:46)ます。マリアは言います。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」(ルカ2:48) イエスはお応えになります。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の仕事をしていることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ 2:49) このイエスの言葉の中に、人生の新しい状態に関するメッセージがあります。主が私たちを次の新たな日の出、祝福の状態に導くため、どうすれば自分が主の摂理の内にいることができるか、ということに関して、です。「わたしが必ず自分の父の仕事をしていることを、ご存じなかったのですか。」 本日の目的は、この人生、ここで本来の目的となるべきものを、発見することです。私たちが行わなければならない、主の「仕事」とは何でしょうか?この新年に、約束された幸福の実現のために、何をしなければならないのでしょうか? 主ご自身の出発点から始めましょう。「みことば」です。宮でイエスがなさっていたことは、出発点として、この地上に生まれた目的を、みことばから学ぶことです(主の教義 8; 神の愛と知恵 221参照)。主が十二の時に、宮にとどまっておられた目的は、「天界と教会のあらゆることに、主の人間的部分を手引きし、導入すること」(黙示録解説430:16)を意味するとあります。驚くべきことに、みことばの最も深い意味、天的意味は、主ご自身を扱っている、と新教会著作は語ります。主はみことばをご自身の道しるべとしてお使いになっていた、ということです。主が前もってお書きになり、預言者を介して啓示されたものを、ご自身で学ばれます。全人類の救世主として、ご自身の仕事を学ばれたわけです。