Saturday, May 8, 2010
集団戦と、個人戦 (下)
アメリカのビジネススクールは、アメリカ経済の直面している問題に立ち向かおうとし、そして、異文化を理解しようとし、相手の強さの本質を真剣に理解しようとしたのだと思う。
そこには、ビジネスを科学するというビジネススクールの大学院としての役割・機能から考えれば当たり前の発想と行動がある。
1990年代のアメリカのビジネススクールを見て、日本にもビジネススクールを作ろうと思った人たちがいる。
彼らは、グループ型の授業が、ことのほか気に入ったようで、何故か、日本人に合っているし、やってみると充実感があって楽しい。
それはそうだろう、もともと、日本経済の強さの秘訣を学ぼうとして設計された授業なのだから、それを日本に取り入れれば自分たちに合っていると感ずるのは当然だろう。
ただ、そこに何の意味があるのだろう?
集団戦が得意な日本人に、集団戦をさらにやらせても、そこには自己満足しかないと思う。
いま必要なのは、個人戦で世界で戦える人材を育成することだ。そういう人材が、集団戦をやることに意味がある。
それでなければ、日本のビジネススクールは、単なる職業訓練校で終わってしまうだろう。
ビジネスを科学する。
日本のビジネススクールは原点に立ち返って考える時期に来ている。
集団戦と、個人戦 (中)
1980年代後半から1990年代のアメリカのビジネススクールでは、大抵どこでも、そのような必修科目があった。
かく言う私も、その科目をMBAの学生として経験した一人である。
(前回からの続き)
その必修科目は入学生オリエンテーションとして始まった。その科目の担当教授は、よほど熱心だったのか3mほどもある長さの本物の鞭を持ってきて、それを空中でパチンと鳴らしながら何かをしゃべっていた。
ただ、アメリカへ行ったばかりなので何を話しているのかほとんど分からなかった。多分、「俺がお前たちを鍛えてやる。」とでも言っていたのだと思う。
授業はというと、いわゆる集団の力学が働いた、知性の通用しない世界だった。ただ、必修科目のため避けようがなかった。
授業のスローガンの一つは、"Developing Others."で、そのスローガンのためか、その授業中はアメリカ人の学生がやけに親切だった。
自分はというと、それほど努力しても、それに比例した評価がされなさそうなのだが、苦痛を感じつつも適当に対応していたと思う。
日本人の自分が苦痛に感じるぐらいなので、アメリカの学生にとっても違和感のある授業だったと思う。
ただ、今から考えると、その科目は、十二分にその目的を達したのだと思う。日本の集団戦の本質をアメリカの学生に理解させるいう目的を。
彼女、彼らも日本の集団戦の良いところ、悪いところを、実体験として学んでいったと思う。
そして、それらの必修科目は1990年代の終わりには、消え去っていった。
理由は、単純で、もはや、日本経済がアメリカ経済の脅威ではなくなったからだ。
現在では、アメリカのビジネススクールは、中国、インドに焦点を当てていると思う。
集団戦と、個人戦 (上)
先日、あるグローバル企業を模索する日本企業のビジネスマンと話をした。
その企業では、グローバルな人事配置のため、主要なポストを、内部の人材と外部の人材とを競わせて採用しているという。
その結果,何が起こっているかというと、そのグローバルなポストの殆どが、外部の人材、多くは海外の一流企業経験者の外国人で占められるようになったという。
話を聞いた人の言葉によれば、個人戦では、日本のビジネスパーソンは競争力が無いのだという。
それではどんなところであれば日本のビジネスパーソンは、優位性があるのかと聞くと、その人は集団戦なら日本のビジネスパーソンは、優位性があるのだと言う。
集団戦とは何かと更に訊くと、その人は、日本人は集団のために自分を抑えてまでも働くので、それが集団戦なのだと言う。
この話を聞いていて、アメリカのビジネススクールで起こったことを思い出した。
1980年代、日本経済はアメリカの経済に大きな脅威を与えていた。そのときアメリカのビジネススクールは、日本成功のエッセンスを学ぼうと考えた。
その結果、アメリカのビジネススクールでは、競うように日本の集団戦を体験する科目を必修として取り入れた。
ある学校では、グループで厳しい環境の中で川下りやキャンプを体験させる必修課目を設置した。また、ある学校ではグループで組織に関する大量の論文を読ませ、討論させたり、企業訪問を企画させたりした。ある学校では、学生のグループが取締役会を作って企業経営をシミュレーションさせる必修科目を設置したりした。
1980年代後半から1990年代のアメリカのビジネススクールでは、大抵どこでも、そのような必修科目があった。
かく言う私も、その科目をMBAの学生として経験した一人である。


