2012年2月9日(木)
なぜ私は善良であるべきなのか? カント
『哲学オデュッセイ』より
心のうちなる法則 Immanuel Kant
一九七〇年、パルト海沿岸の世界に門戸を開始した小都市ケーニヒスベルクの門の前を、夜もふけた遅い時間に、母と彼女の六歳になる息子が散歩していた。母は息子に彼女が知っている自然について、植物と薬草について、動物と鉱物について、優しく丁寧に説明していた。街の通りはわずかに照らされているだけで、あたりは暗闇に包まれていた。すると母は注意深く聞いていた息子に、はるか彼方の星空を指し示した。ふたりはおごそかに頭上に広がる無限の彼方を見つめるのであった。少年は魅了されていた。のちに彼は次のように記している。「それについて何度もくり返し、じっくりと考えれば考えるほど、つねに新たに増大する感嘆と畏敬の念で心が満たされる二つのものがある。私の上なる輝く星空と、私のうちなる道徳法則である。私はこれらを目のあたりに見るとともに、私の実在の意識にじかに結びつけるのである。」そして事実、のちに彼はこの二つの領域において成功を収める。すなわち、天文学と道徳哲学においてである。
ごの少年の名はイマヌエル・カント。信心深くしかも教養ある母親の庇護のもとでの幸福な子ども時代は、早くも十三歳で終わりを告げる。母を亡くし、水色の目をしたこの心優しい少年は、深く、そして長いあいだ、母の死を悼むのであった。皮革工房の親方であった父は、繊細で傷つきやすい息子の素質を伸ばすために、あらゆる努力を惜しまなかった。父は息子を、その町で最高水準のギムナジウムであるフリードリヒ学院に入学させた。この学院で、さらにのちにはケーニヒスベルク大学でも、この胸囲の狭い青年は、非常に優秀な生徒であることを証明するのであった。彼は何よりも学校の屋上にある「天文台」に感激し、夜になると、そこでたびたび時間を忘れて星を眺めていた。
十六歳で彼は、ケーニヒスベルク大学の入学試験に合格する。当初は神学を学ぶはずだったが、それよりも数学、哲学、物理学が彼の心を占めた。自由時間には、料理人ならびに賭博師として光彩を放っていた。彼は卓越したビリヤード・プレイヤーであり、また、小さな声で不明瞭にもごもごと話すにもかかわらず、ケーニヒスベルクのパーティでは歓迎すべき客として迎え入れられた。とはいえ、彼の最大の情熱は、いまだに星と宇宙であった。論理学と形而上学の教授マルティン・クヌッツェンが、力のおよぶかぎり彼を援助していた。私用の反射望遠鏡−−あの偉大な物理学者アイザックーニュートンが使っていたのと同じもの−−が、魔法のようにカントの心を引きつけた。
彼は宇宙の構造についてのニュートンの基本的な著作を読み、数字や表や計算式に没頭し、そこから物理的世界についてのきわめて独自のモデルを導き出した。それについてカントが書いた本は、途方もない主張と、『一般的自然史と天界の理論』という壮大なタイトルがつけられた薄い本であった。数学の計算式を立てることなく、彼は世界の構造を、彼自身の推論だけで究明しようとした。型破りであるとともに野心的なプロジェクトである。自然科学者たちがこの本をほとんど認知しようとしなかったにもかかわらず、カントは自分の方法を成功したものと見なしていた。彼はその方法をあらゆる分野において保持し続けるのである。かくして、彼はおのれの洞察力の多くが正しいものであることを信じて疑わなかったが、それはまた。彼の死後長くたってから正しいことが認められた。今日の太陽系は、諸要素の引力と圧力と斥力(反発力)によってのみ生まれた、とカントは推測している−−惑星系の誕生を神の助力をかりずに解明しようとした最初の試みである。
カントの見解が果敢で進歩的である一方で、彼はみすからの立身出世のための計画の立て方は知らなかった。大学での勉学を修了した後の彼の道のりは、順風満帆とはとてもいえないものであった。彼は生涯の九年間を家庭教師として無益に過ごした。三十一歳にしてはじめて−−当時としては非常に遅い−−彼は火について学位論文を書きあげた。カントは大学の私講師となったが、収入はほんのわずかばかりのものであり、四〇歳までの彼の職業的道のりは、いってみれば半ば惨たるものであった。カントは豊かな天分に恵まれ、高い知性の持ち主であり、ほとんどあらゆることに興味を持っていた。神学と教育学、自然法と地理学、人類学と論理学、形而上学と数学、力学と物理学。ながい歳月がすぎて、大学は彼に教授職を提供するが、それはよりによって文学の教授であった。課題として、自作の詩が盛りこまれた装飾的な祝辞を用意することが科せられた。カントはこれを辞退した。合計十五年間にわたる私講師生活の後、彼はとうとう、長く待ち焦がれていた論理学と形而上学の教授のポストを手に入れる。

