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| 手話 |
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手話、京都から始まった
慈愛の精神、聾者導く
4本と2本の指先を合わせ、右手をくるっと半回転させながら下げていく。「季節」を表す手話だ。古都で誕生し、幾つもの季節を経て洗練された「視覚言語」の歴史は、ある教育者の存在なくして語れない。
新緑がまぶしい。古都の世界遺産の一つ、仁和寺の二王門をくぐり、参拝客らでにぎわう境内を抜けた。御室の山々が迫り、そのふもとに学舎が見える。
京都府立聾(ろう)学校。京都市右京区に位置し、聴覚障害の子どもたち82人が通う。校庭で出会ったのは高校2年の生徒ら。手指を素早く動かし、顔の表情も使って、何やら談笑していた。手話だ。
「陸上部の練習について話しているようです」と、教務部長の丸山二郎さん(43)。ここでは幼稚部から高等部まであって、手話は小学部から学ぶという。
聾者にとって欠かせない、そのコミュニケーションの手段が形成されたのはいつか。歴史をたどると、この学校の前身「盲唖(もうあ)院」に行き着く。明治前期、日本で初めて誕生した聾学校だ。
手話を語るとき、まず、記さねばならない名前がある。古河太四郎。幕末の1845年、京の西陣辺りで生まれ、「近代障害児教育の先覚者」とされている。
700人近い生徒を抱える寺子屋が生家とあって、幼少から文武に親しみ、明治維新後、自らも読み書きを指導した。折しも、東京遷都で停滞感が漂う街を人材育成で活性化するため、69年(明治2年)、64の小学校が設けられ、古河も、その教師に就いた。
事件が起きたのは、その翌年のこと。水不足に悩む農民らのため池開発を支援して国の許可書を偽造し、投獄された。ある日、獄舎の窓から、耳の不自由な2人の子が殴られ、からかわれているのを見た。障害者への過酷な差別があった時代。聾者は孤立し、意思伝達の手段も持ち得なかった。
獄中で、こうつづった。〈盲唖も亦(また)人なり……人に軽蔑(けいべつ)且凌辱(りょうじょく)せらるるの理(ことわり)なし〉
教育の機会を与えないのは、過ち――。そう考え、2年後に自由の身となって復職してから、生家に近い小学校で、あの2人を含む3人の障害児を教え始めた。地元の有力者の助力を得て、校内に専用の教室もつくったという。
耳の聞こえない生徒とどう意思疎通を図ったのだろう。〈互談する所に注目し其(その)意を酌み〉と、古河は書いている。身ぶり手ぶりで「互談」する生徒らを観察し
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作成者
tumiki2004
: 2009年5月12日(火) 10:56
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