2009/7/16 (木)
合意形成 やる気が萎える人へ
なんだか忙しくて、自分の担当回が終わってから、すっかり受講者のブログを読むことができていませんでした。
遅くなってしまいましたが、これから皆さんのブログを読みなおしつつ、考えつつ、コメントなど書き込みつつ、面白いことを見つけたらそれについて自分の記事でも書いていきたいと思います。
じきに夏休み突入ですが、自分の記事のコメントが更新されていたら、ぜひ一読お願いします。
まずは、ガバナンス論演習「合意形成」について。
問:参加者の意識はどんなでしょう?
Redtail先生 5月12日「合意論についてのメモ [合意形成]」
http://gov.oops.jp/index.php?ID=45
vanyaさん 5月17日「[ガバナンス論]グッド・ガバナンスかどうかをどうやって評価しますか――当事者意識の形成という観点から――」
http://d.hatena.ne.jp/vanya/20090517/1242559015#c
自信や理念がないと、シニカルな人ややる気のない人に弱くなってしまいがちだと思います。私は、どんなタイプの人でも、教員なので一応応援しますが、とくにやる気があって、盛り上げたいと考えている人には、強い自信と理念を持つよう、意志と知識を高め
あ、時間がなくなったのでまずアップします。あとで修正します。
作成者
phil
: 2009/7/16 (木) 16:14
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2009/7/12 (日)
【モラルデザイン論】 おまけの話題 学生への解答 「「愛」について2」
先日の、「愛」についてについて、授業で解説したところ、意外にもと言うべきか、多数のコメントをもらったので私なりに解答します。
授業では、「愛」のリアリズムと社会構成主義を解説し、「バーチャルな愛」と呼びたくなる「愛」の形をどう考えようか? という話をしました。
「愛」の社会構成主義については、何となくそうだと思ってた!というコメントから、衝撃を受けた!というコメントもあり、まずまず楽しんでもらえたようで何よりです。
それこそが「愛」なんじゃないかとか、そういう「愛」は無機的だとか、そういう「愛」は「公的」な何かを生み出しているんじゃないかとか、それぞれ私の解説のさらに向こう側へと進む解釈は、社会構成主義を踏まえた考察として評価しました。
監視(カメラ)の下で「愛」が成り立つかという問題にも多くのコメントがありました。私は、ロマンチック・ラブを本質的に私的(と思われている)愛として解説しました。「純愛」は必ず社会から孤立して悲劇に終わるというわけです。以下、3つの議論に答えます。
Q1.こうした考え方では、公共空間での監視カメラ設置は私的領域への侵害になるのか? A.まず公共空間での私的な愛情表現こそが公共性への侵害と考えられる可能性もあると指摘しておきます。その上で、ちょい逃げるようですが、判断はバランスの問題なのでケースバイケース。
Q2.見られていても「愛」は存在しうるのでは? 例えば、家族愛、デート、外人の愛(公道でのハグやキスのこと?)。A.どうでしょう。ただ、公共の場で見えているのは公的に認められたファッションのレベルであって、生の身体ではないのでは? 私は、「まなざし」が人を対象化するというサルトル的議論を念頭に置いていました。各自検討されたし。
Q3.では、自己(情報)の露出はなぜ起こるのか? A.プロフとかですね。存在の不安で、他者による存在確認と肯定を得たくて、つい秘密を安売りしてしまう。これが前期ハイデッガー流のキレイな答えでしょうが、キレイすぎて何だか私自身すっきりしませんね。人は言論空間への存在を求めるというアーレント的な解説にシンパシーを感じます。
アバターへの愛については、便宜的に、A(アバターを通した相手の人間への愛)、B(アバター的キャラクターを動かす人工知能への愛)、C(アバターという記号自体への愛)に分けて考えます。
A=Bという議論は、本質的にAとBは愛する主体にとって大差ないという立場、あるいはAもBもなくて結局はCに他ならないという立場が考えられます。
分析すると長くなるので、私の立場だけ書きます。アバターやキャラクターから入る人間関係では、記号の向こうに人は自分自身(の理想やコンプレックス)を投影して、それを愛するのではないだろうか。というわけで、第4の立場、D(自己愛)がほとんどだろうというのが私の立場です。質問もあった「キャラクターしか愛せない人」というパターンは、Dの典型でしょう。ただし、オフラインでも人は仮面(ペルソナ)をかぶって社会生活している(和辻)ので、コンピュータやアニメを嗜まないからといって、Dと無縁なわけでは決してありません。
最後に、「愛」についての私自身の立場をウィトゲンシュタイン・バージョンで簡単に提示しておきます。
私は、語り得ないリアルなものがあるという立場です。
すなわち、「愛」については社会構成的なファクターは否定し得なくたいへん大きいものだ。しかし、「愛」と呼ばれている感情や振る舞いには、それで説明し尽くすことのできないものが残る。ただし、その残滓は、もはや我々の期待する「愛」とはずいぶん姿の異なったものかもしれない。我々はそれを言葉で表現することはできないだろう。
それは、まあ「信仰」のようなものと考えて大きく外れてはいないと思っています。おそらく問題は、愛を実体化することなく、愛を畏れながら、愛の息づくような社会空間をつくることでございましょう。
ちなみに、ハイデッガー、サルトル、和辻、ウィトゲンシュタイン、アーレントは、20世紀に個人と社会との関係を論じた有力な思想家たちです。
作成者
phil
: 2009/7/12 (日) 12:47
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web3.0ってわけではないが、、
『グーグル・アマゾン化する社会』(森健著、光文社新書)を読んで考えたことを書き留めておこう。この本は、同様にグーグル、アマゾンを例にとってweb2.0といった新しい情報社会像を説明した梅田の『web進化論』(ちくま新書?)と合わせて読むのが面白いだろう。
梅田は、「ロングテール」というコンセプトで、webにおいては従来の仕組みでは黙殺されていたニッチなニーズや意見が日の目を見る可能性があるといった比較的楽天的な観点を提示していた。これに対して森は、web2.0が成熟するにつれて、資本とテクノロジーとネームバリューで優るトップによって、ヘッドからテールの部分までの全体が支配される一極集中が起こりつつあるという警告を提起している。
おそらくこの議論の帰結は今後のweb自体が決めることであり、それは私の立場では、自律的な自然現象ではなく、社会が決定することである。私が森の議論に共感したのは、最近、webから得られる情報が偏りがちだという指摘とそのメカニズムの指摘である。森が言うには、webの情報が膨大になるにつれ、情報をピックアップするテクノロジーが重要になり、ヤフーやアマゾンのトップページにしても、グーグル等の検索結果画面にしても、ユーザーに合わせたカスタマイズの度合いが増大しつつある。そして、簡単に言えば、ユーザーの(潜在的に)望む情報ばかりが提示されるようになってきている。つまり、テクノロジーがユーザーの「空気を読む」ようになり、「快適な」情報空間を提供してくれるようになりつつあるわけだ。そして、そうした空気に慣れ親しんで我々は、ますますどうしようもなく偏狭で、部族的なマインドになっていく、というわけだ。
こうした指摘は、私自身についても、最近ふと気になったことだ。私は、ふだんヤフーのニュースサイトを利用しているが、いくつかのトピックスについては特に目を通すようにカスタマイズしている。また、全体を知りたいと思って、2,3の新聞社のサイトのトップ記事も表示させる。だが、これではいくつかのメジャーなニュースと、個人的に網を張っている特殊なポイントの話題にしかアクセスできていないことは明らかだ。それに気がついたのは、最近、自宅でも新聞を取りはじめ、学校で一紙ぷらす自宅で別の一紙に目を通すようになってからだ。新聞は、一応は最初から最後までざっと目を通すのが私の読み方だ。最低限、広く浅くであっても、全紙面を目で走り抜ける。これで二紙に目を通すと、ネットでは得られなかった社会の側面がけっこう目を引いたりする。
ネットのニュースサイトでは、まあ予期できる話題について、例えばイエスかノーかといった結果が分かるようなことが多い。メジャーな出来事であれば、それなりの事実関係はネットで把握できるし、それについての詳細や分析は、リンクをたどってわりと手に入る。これはネットニュースのメリット。だが、ちょっと前の事件だとか、やや小さめで予期もしていなかったが潜在的には注目したかった記事などは、新聞でないとなかなか目にとまらないのだ。新聞には、個人的には興味のない話題も満載で、この意味ではまことに無駄が多いのだが、しかしネットニュースにはない驚きと発見がある。最近は、携帯電話や携帯ゲーム機などの端末で、ニュースが文字でも動画でも受信できるようになっている。だが、新聞紙のニュースの持つ驚きと発見を実現するのはまだまだ難しそうだ。
もっとも新聞であっても、どの新聞を購読するかで大きくカスタマイズしているのと同様だ。ネットニュースはその弱点をうまく補うはずだったのだが、結局同じ問題がさらに強く、すなわち個人による情報のタコツボ化が生じてしまっているのかもしれない。
新聞と同じくプッシュ型のテレビニュースでも、新聞情報のような驚きはない。テレビは、メジャーなニュースか、あるいはめちゃめちゃどうでもよい息抜き話題だけだ。理由は明白だと思うので読者の想像にお任せする。ただ、最近は画面分割で複数のチャンネルを同時に表示できるようだが、聖徳太子みたいに、それらを同時に俯瞰できたら、事情は変わってくるのかもしれない。
現在のところ新聞紙が優位であるオモシロサは、たとえ編集が入って調整されているとはいえ話題の多様性が、紙面の大きさ、見出しの工夫、記事の選択や配置などの相当の工夫によって、うまく提出されていることにあるだろう。Web1.0を発信者本意の情報提示、web2.0を受信者本意の情報提示として把握するなら、どちらにも「つまらない」という問題があった。従って、私が次のフェーズに求めるのは、効率よくさくさくと情報の森を進みつつも、思わぬ景色や思わぬ小川に驚いたりする、そういった冒険を楽しませてくれる世界だ。
と、無責任に言ってる。
作成者
phil
: 2009/7/12 (日) 05:02
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2009/7/10 (金)
【モラルデザイン論】 おまけの話題 「「愛」について」
「愛」について
授業で扱ったテーマ
「公共」をつくる「私」としての市民(市民論)
「公」権力によって監視(監視論)・管理(ゲーム化)される市民としての「私」
こうした情報社会における公私の論議の中で、自由意思、共同性、暴力性、芸術性(ないし感性)、あるいは愛のありかは何処であろうか?
「愛」のリアリズム 「愛」を浸食する情報技術?
ロマンチック・ラブ 「愛」とは、私的な領域に存在する何ものかであって、また純粋に私的な領域にしか存在できない。
公権力(ないし、民間ネットワーク事業者)による監視・管理が愛を不可能にする?
「愛」の社会構成主義 「愛」を促進する情報技術?
「愛」とは、社会が作り上げた幻想である。
Ver.1 「ドラマ」チック・ラブ ドラマチックな商品として記号化された「愛」。消費の創出による資本(経済)への貢献。
Ex. おしゃれ、デート、バレンタイン、クリスマス、ウェディング、マイカー、マイホーム、などなど。
Ver.2 優生学的愛(eugenic love) 国家が、「国民」の維持・管理のために「健全な愛」を促進する。
Ex. 国民皆兵主義(ファシズム)、国民総生産主義(所得倍増計画)、「保険・体育」、「産めよ増やせよ」、「少子化担当大臣」
Ver.3 利己的遺伝子、ないしミーム(meme)的愛 生物学的あるいは文化的遺伝子が自己保存のためにヒトに「愛」的な気分と行動を生じさせる。愛→出産→育児→愛の教育(以下繰り返し)。
Ex. 利己的遺伝子(ドーキンス)、唯幻論(岸田秀『ものぐさ精神分析』)。漫画「攻殻機動隊」、ゲーム「メタルギアソリッド2」に登場するらしい
「愛」のテクノロジー 「愛」の対象としての情報技術?
IT愛 ロボットへの愛、人工知能への愛
ないし、バーチャル愛 バーチャルな愛、アバターへの愛、ゲームキャラクターへの愛
作成者
phil
: 2009/7/12 (日) 12:46
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2009/7/3 (金)
【情報モラルデザイン論】資料 情報社会のゲーム化
「ゲーム化する情報社会における<私>の倫理」吉田寛
「情報社会は「ゲーム化した社会」である。そこでは、三人称としての「私」は残るものの、一人称の<私>の場所はない。」
「ゲーム化した社会」を再考しよう。
始まりを1970年のボードリヤールの議論に置く。
ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』1979 紀伊国屋書店
(Jean Baudrilard : La Societe de Consommation 1970)今村仁司・塚原史 訳
「ボードリヤールが言いたいことは、生産と消費がシステム自体の存続のために食われてしまっているということだ。 これをいいかえれば、社会のシステムはもはや余剰を生まないということである。新たな富なんてつくれないということだ。なぜなら欲望の動向は福祉の動向に吸いこまれ、商品の市場民主主義は貨幣の国際民主主義に取りこまれ、何かの均衡はどこかの不均衡のために消費されざるをえないからである。」
松岡 正剛 「千夜千冊 639夜」http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0639.html
佐伯啓思、1988年『「シミュレーション社会」の神話』(日本経済新聞社)pp.6-7。
「かりにわれわれは、テレビやマスメディアの情報を通じて「現実」を理解し構成するのだとすれば、結局、われわれは、テレビが送り出す単なる記号のシステムや、あれこれのイメージによって「現実」を構成することになる。こうして、われわれは記号化された世界を「現実」と見なす以外になくなる。このリアリティを、ボードリヤールは「ハイパー・リアリティ」と呼んだ。すなわち、入れかわり立ちかわりに現れてくるイメージによって作り出された、めまぐるしく移り変わる現実、本当の意味でのリアリティを持たない“超現実”である。この「ハイパー・リアリティ」こそが、<シミュレーション社会>のリアリティなのである。従って<シミュレーション社会>とは、高度な情報社会のある1つの側面なのである。」
Ex. 「アイドル」「キャラクター」「オモシロさ」「ファッション」「ベンリ」「エコ」etc.
マルクス 「資本家が生産を介して労働者を搾取して自己増殖する」
ボードリヤール 「意味が記号の消費を介して大衆を搾取して自己増殖する」
ドゥオーキンス 「遺伝子が、生物の進化を介して自己増殖する」
市場についての知識やイメージが、市場的秩序を形成する(「自己主題化」ルーマン)=「情報化社会」という記号そのものが情報化社会を演出しはじめる」佐伯、ibid、p.223。
佐伯自身は、情報化され得ないものがあり、<シミュレーション社会>は大衆ないし多数派の作り出した神話に過ぎないと言う。素朴現実主義。
「口に出して適切な説明を与えることのできない「何かちがう」という気分、この深淵にぶち当たった時、われわれは映像の中の現実をあくまで「シミュレーション」だと断言できることになる。それは複製であって本物ではないのだ。」同、p.235。
Ex. 「伝達不可能」な「前言語的な主観」(佐伯)は、<私>(永井均『私のメタフィジックス』勁草書房、1986年)と重なる主題である。
だが、言語の「世界」には<私>は存在せず(吉田『ウィトゲンシュタインの「はしご」』)、「言語ゲーム」には外部はない。
シミュレーションにはそれと比較すべき「外部」としての実在があるかもしれないが、ゲームには外部があるのか。プレーヤー、設計者、権力、審判はどこにいるのか。
鈴木謙介『ウェブ社会の思想 <偏在する私>をどう生きるか』NHK Books、2007年
「アバター」ゲーム、セカンドライフ
「バーチャルコミュニティがはじめ持っていた思想的・政治的な意義が薄れ、コミュニケーションの様式だけが残った現在でも、オンラインに表出する「わたし」は、わたしの本質であることに代わりはない。それゆえ、バーチャルなわたしは、自由にカスタマイズされ、現実のわたしではなく、「わたしという人間」を表現するものでなければならないのである。」p.71
「ポイント」経済がバーチャル・マネーとして、個人情報がバーチャル個人として流通し、ユビキタス社会とバーチャル世界が融合する。(同、p.81)
「バーチャルな領域においては、人は自分の本質を賭けた存在であるアバターを育成し、他者とコミュニケーションを行なう。そのためには、さまざまなアイテムを手に入れなければならず、それゆえ個人は、ゲームなどを通じてポイントを獲得しようとする。そこで得たポイントはゲーム内の取引にも使われるが、同時に、現実の世界においての決済手段ともなる。また、そこでの取引き履歴は個人情報として自動的に登録される。」(同、p.82)
ここで、<偏在するわたし>が問われる。
「わたしという存在の本質が、バーチャルな世界のデータとなり、それが現実のあらゆる場所に現れるようになったとき、『わたし』は『わたし』でいられるのか」
作成者
phil
: 2009/7/3 (金) 14:04
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